藤岡宣男物語り7 高円寺 綾
(何者との出会い3)
藤岡は32歳になっていた。
気持ちが歌へと固まってきた頃、東京からの出張の帰り、電車の中から木村に電話をした。どうしても会って、自分の気持ちを木村に話したいと思った。
木村は快く、すすきのの東急インホテルのロビーで待つと言う。
ホテルには藤岡より、木村が早く着いていた。
ティーラウンジに腰掛けた。
二人でコーヒーが運ばれるのを待った。
「どうしたの」
木村が尋ねる。
「歌でやってゆこうと思う」
「いいねえ」
一度、木村の部屋に遊びに行った時に、木村が「本当は、お金貰わないと見ないけどね」と言いつつ、占いをしたことがある。その時、木村は、「あんた成功するよ。歌でやったらいい。大丈夫だ」と言った。そして、先の予言までした。
二年は大変だよ。三年目から、少し先が見える。五年たったら、まあ大丈夫、と。それを木村自身が側で見ることになるなどとは、木村さえ気づかなかったのだが。
そのことだけではないが、藤岡は、やむにやまれぬ気持ちになっていた。歌を歌いたいと、ただそれだけになっていた。
「それで、結婚して、会社を辞めて、東京に出ようと思うんだ」
藤岡は恐る恐る言った。
「結婚して?」
「歌でやっていけるようになるまで、働いてくれるというし。母もいるし」
木村は、すかさず言い放った。
「結婚して、奥さんに働かせて、歌をやるなら、やめた方がいい。そんな時代ではない。内助の候とはいうが、奥さんに働かせて良くなった芸術家なんていないし、男の恥だよ。何で女に働かせて、歌やんなきゃいけないの。そんなら、会社にいて、眠ったような仕事していたらいいよ。ヤマハなんて、どうにもならない連中が、いい給料貰って、のうのうとして暮らしていける場所なんだから。見てご覧、ヤマハなんて、ピアノの先生を搾取して、のうのうとしているじゃないの。その中にいて、家庭を持って、ぼんやり死ぬまで生きた方がいいよ。人生を馬鹿にしない方がいいよ。二度とないんだよ、人生は。目覚めてしまったのなら、それに走るしかない。ささやかな幸せを捨ててね」
木村がまくし立てた。木村は徹底している。即座にその場で死んでもいいという覚悟があるから、木村の話しには、冷や水を浴びせられる思いがする。
「この才能ある私が、あんたのために、方向転換をしようかと考えているんだよ。私が舞台に立つより、あんたが舞台に立つ方が、世の中のためになるってね」
藤岡は驚いた。木村も何か決心しているということに。
「馬鹿は死んでも馬鹿なんだよ。霊になって、うろうろしている。馬鹿は死んでもなおらない。でも、気づいてしまったら、馬鹿じゃなくなる。もうその道に、命をかけるしかなくなるんだよ」
木村の話しは、飛躍しているのか、話が飛ぶのか、解らなくなる。
コーヒーに手もつけず、木村は喋る。
「女も男も、道の前には、人間の一人。あんたと結婚したいという女なら、結婚しなくても、あんたのために、命懸けになるはずだ。命懸けでなくて、何の愛なの。結婚しなければ、あなたを愛せないなら、そんなの愛でもなんでもない。愚か者だよ。捨てなさい、何もかも。人生の一大事だよ」
藤岡は、自分が進もうとしている道が、いかに凄まじいものかということを、木村の話しを聞きながら感じ始めていた。
自分は大変なことをしようとしているのだ。
「あんた、世界の人を相手にするんだよ。芸術家きどりでいる芸術家になるんじゃないんだよ。目覚めた人は、捨てて始まるのに、あんたは、捨てるものを拾って始めようとしている。いいよ、それなら、私は手を引くよ」
そこまで言われるとは思わなかった。藤岡は茫然自失の体である。
何が間違っていたのか。
後日の木村の談である。
宗教家でも芸術家でも、魂に響く者は、すべてを捨てて始まっている。親兄弟や妻子、何もかも捨ててから道が見える。そこまでしなくてもと思う人は、それでいい。しかし、目覚めた人は、そうする。そうしなければならない。
カトリックの司祭は独身だ。本来、禅の坊主も、独身なはず。結婚することは、何も悪いことではないが、目覚めた人には、独身でいることが理想。キリストも、出来れば独身でいた方がいいと言う。当然だと思う。そうすると馬鹿な者が、そんなら、子孫がいなくなるというが、決してそんなことはない。子供は生まれるに決まっている。誰に頼まれなくても、男と女は、交わるのだから。
それよりも、それに、つまり生きることに目覚める人は少ないのだと。目覚めてしまったが最後、一筋に、命懸けで進むしかなくなる。
この世は、甘くない。木村の考え方は、徹底していた。
藤岡は、木村と別れて家路の帰り道、悶々として、思いに耽った。
衝撃的な言葉と、木村の気迫である。何故、あれ程までに思い込めるのだろうか。藤岡の中には無い人間だった。そして、あの強さは、どこからのものなのだろうか。
考えることが沢山あった。しかし、収集がつかない。
部屋に戻ると、母親がいつものように、のんびりと迎える。この母親と一緒に新しい道、それも大変な道に歩み出すことが出来るのか。
母親がバスタブにお湯を入れた。必ず藤岡を先に入れてから母親が入る。それはもう当たり前のことになっていた。
「のぶおちゃん、お風呂いいよ」
母親が声を掛ける。
返事をせずに藤岡は、バスルームに入った。
混乱は続いていた。
2006/3/27掲載
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