| 藤岡宣男物語り9 高円寺 綾
仕事・企画書
音楽療法と音楽教育
音楽療法は、音楽そのものや音楽文化を教えたり、音楽的な成果といったものに焦点をあてるのではなく、音楽を媒体とした活動や体験、その中で起こる様々なプロセスに焦点を当てるという点で、音楽教育と異なるといえる。さらに、音楽療法においては、音楽それ自体もちろん大事であるが、それ以上に、療法士のパーソナリティーが求められているともいえる。
〜略
しかしながら、ある音楽的な成果を求めることが主眼となっている音楽教育においてもその基本として体験やプロセスを軽視することはできず、また、指導者のパワーなくしては音楽的成果も有り得ないことは周知の事実である。逆に、音楽療法においても、音を媒介としているからには、セラピストの音楽性を軽視することはできない。
さらに言うなら、音楽教育の場面ではややもすると、歌わないのは、歌おうとしないその子に問題があるという考えに陥る場合があるが、音楽療法の世界では、クライアントがセラピストの求める行動を起こしてくれない場合、100%セラピストに責任があるとする。この考えは音楽教育においても非常に重要である。
藤岡が舞台に立つ時、この企画書の言葉が根底にあるのではないかと、私は思う。つまり、藤岡は声楽家として立つが、実は、療法士の役割も担っていたのではないかと思えるのだ。
音楽それ自体もちろん大事であるが・・・と言う。しかし療法士のパーソナリティーが求められるとは、正に、藤岡の歌う姿勢である。
次の文章は見逃せない。
このように、音楽教育と音楽療法の間には共通のキーポイントがあり、同時に少しずつ比重のかけ方が違っているといえる。この共通のキーポイント、すなわち、体験やプロセスを重要視すること、音楽を決して軽視しないこと、受容能力にあわせて細かいステップを重要視すること、指導者の人としてのパワーによってこそ、音楽の中の「何か」が伝えられると信じること、これらは、まさしくヤマハ音楽教育システムが重視している考え方であり、ここに、財団の音楽教育ソフトと優秀講師が関わることのできる可能性が潜んでいるといえる。あるいは、関わるべき必然性があるといえる。
藤岡は、舞台でこれを実践し、そして実証した。
受容能力にあわせて細かいステップを重要視すると言う。お客様の対応は、そのままこの言葉に当てはまる。
初期の頃のリサイタルでは、歌の説明をしつつ歌った。それは非常に有意義だったが、クラシックフアンの中には、すでに知っているという者があり、また、そのようなコンサートを知らない、コンサートととは、次々と歌い、歌う度に拍手をして進むと思い込んでいる者には、疑問が上がった。だが、藤岡は、それを続けた。それにより、多くの素人、つまりクラシックコンサートに慣れていない人々が、実に、有意義にコンサートを聴くことができたのである。
後に、プロデューサーである木村氏も、藤岡のリサイタルから、他のコンサートでも歌の説明をするというコンサートが多くなったと言う。木村は、会場で配られる解説書のようなものを嫌った。歌の合間に、それを読むという行為を嫌悪した。それならば、コンサート会場ではなく、自宅でCDを聴きつつ、解説書を読むべきであると。会場では読み物は必要無い。臨場感、それがコンサートの命であると。故に、後にはプログラムも配布しないようになる。
この文章には、非常に示唆にとんだ言葉が語られてある。
指導者としてのパワーによってこそ、音楽の中の「何か」が伝えられると信じること〜 音楽の中の「何か」とは何か。
音楽家は、生涯それを尋ねて生きるのである。
音楽の中の「何か」
藤岡の歌にあったものとは。この評伝がそれを証明することである。
より深く藤岡の音楽の中にある「何か」を見つめてみたい。
障害を持つ子の保護者からのニーズより抜粋
音楽には、障害を持つ人々の様々な機能の発達を援助する力が備わっている。特に知的な障害に関して、幼少のころから音楽にうまく関わってきた子供たちは、その障害の度合いが少ない、ないしは、障害が軽くなると言われている。しかしながら、こうした音楽の効用が広く知られているにもかかわらず、彼らが通うことができる音楽教室を捜し出すことは非常に困難なのが現実である。彼らは社会との接点を求め、また、自分の子供との関わりかたをも模索しているといえる。実際、障害を持つ子供たちの保護者にとっての最大の悩みは、いかにして自分の子供を社会的に自立させられるかである。「身辺自立を身につけさせ、社会生活に溶け込み、保護者なしでも生きてゆけるように」ということである。〜略
こうした機会を切望する障害を持つ子供たちの保護者にとって「みゅーじっくらんど」は多くの可能性を提供することができる。それは、いわゆる音楽療法的な機会の提供のみならず、音楽に対してどう向き合っていけば良いか、という音楽への関わり方を提供するものである。すなわち、セッションの場、レッスンの場だけの切り取られた時間の枠を提供するにとどまらず、親子の触れ合いのアイディア、保護者自身が、どのように子供とともに音楽と関わっていけばよいかのアイディアを家庭に持ち帰ってもらうという〜
これは企画書である。つまり、ヤマハ振興会への提言であり、それを実行することがヤマハ振興会にとって重要であることを説く。
おわりに、を読むと、それが明確にされる。
財団法人ヤマハ音楽振興会の果たすべき役割も多様化しており、公益事業として様々な音楽教育のサービスを提供することを積極的に考えていくべきであろう。〜利益追求型でない公益追求の事業展開に力を注いでこそ〜
藤岡は立派な社員であった。藤岡は、どんな場にあっても、自分の最善を尽くすという生き方をした。それはこれから、追々書き続けることにしょう。
2006/4/10掲載
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