| 藤岡宣男物語り10 高円寺 綾
凍てつく道
地下鉄中島公園駅から、ヤマハまでは、五分もかからないが、冬の道は寒さが痛い。北海道の冬は、寒いといった感覚より、痛いとか突き刺すような感覚に近い。
藤岡はダウンのコートを着て冬を過ごす。
昨年の暮れに、結婚を考えていた相手を説得した。
歌の道に進む。一人で対決する。人を巻き込みたくない。これしか方法がないこと。
藤岡の説得の誠意は伝わった。次は、会社である。一筋縄ではいかない。
最終的に会社が出した答えが、東京に転勤させる。研究職を用意するから、歌をやりながら、仕事も出来るというものだった。
非常に良い条件だった。だが、藤岡は、辞めるという意識しかない。会社にいれば、結局、歌が中途半端になるのは確実。結局、安泰を望んで、会社人間で終わる。歌は、趣味の域から出ない。それが目に見えていた。
第三者から見れば、何と良い条件だと言うだろう。会社が歌を応援してくれていると。だがそれは、甘い罠になることを、藤岡は察した。
あの木村までも、会社がそこまで言うならと、やや納得した様子。
藤岡は自分のことが解る。
仕事を終えて練習に向かう。週に何度かの練習に明け暮れる。生活は保証されているから、楽な気持ちで向かえるが、それは妥協に過ぎない。きっと、歌もその程度で終わる。コンサートにお金を出して出て、巧い巧いと誉められて、それで終わる。
自分が望んでいる芸術の道は違う。
世界的にも少ないカウンターテナーを目指すのだ。世界を目指すのだ。
歌の道に埋没しない限り、プロにはなれない。
貯めた貯金が尽きるまでやってみる。その後、駄目なら、働けばいい。
その頃、木村天山も、札幌から離れて、鎌倉行を固めていた。
木村と会い、東京行を決行することを言うと、お母さんのために、東京ではなく鎌倉が適当なのじゃないかと誘われた。
M先生のところに通うことが一番だが、母のことを考えると、それも一理ある。自分が我慢すれば、いいことだと、藤岡の心が動いた。
鎌倉からM先生のところまで、電車で二時間かかる。それが出来るか。
藤岡は悩んだ末、木村と同じ鎌倉に移転することを決めた。
移転は雪解けのころが目安だった。
木村は、五月に移転すると言う。
藤岡には、人生一世一代の決心であり、賭けだった。ただ、確信はあった。必ず成功すると。
広島の福山の六畳一間の部屋で育ち、そんな生活の中でも、母にピアノを買って貰い、一生懸命ピアノの練習をした。それだけではない。勉強も一生懸命した。いつも、一生懸命だった。
大学院に入った時、六千円の家賃の一軒家に住み、ピアノを教え、家庭教師をし、奨学金で生計を立てていた。ヤマハに入社し、今までにない収入を得て、マンションまで買おうかというところまできていた。それがまた一転、先がどうなるのか解らない生活を始める。
木村に言わせると、「才能があるから、しゅうがないよ。選ばれたんだから」と言われる。
仕事を終えた後、木村の部屋に立ち寄ることが多くなった。
木村と話し合うことが、一つの安心感だった。
木村は、自分で食事を作る。藤岡は一切そういう家事が出来ないので、それだけでも尊敬に値した。木村の部屋で食事を御馳走になることも多々あった。
木村は言った。
「私は怖い物知らず、恥知らずだから、何でも出来る。そんなもの、死んでしまって50年もたてば忘れられる存在が、ぐだぐたしてられないしょ。踊るあほうに見るあほう、どうせあほなら踊らにゃ損て言うでしょ。やった者が勝つに決まっている。やらないのは、やれないだけの話し。死んだ人間は動かない。生きた人間が動く。生きているって、動くということ。静かにしているなら、死んだ方がましでしょう」
木村は、5LDKのメゾネット式の大きなマンションに住んでいた。ほとんど、片付けないので、本が散乱し、部屋は引っ越し前夜の形相をしていた。
「私ね、20歳の頃、ノイローゼになって、それから片付けるのをやめたの。片付けなくても、死なないんだから、いいしょって。片付け始めると、またノイローゼになる。そればかり気になるからね」
藤岡は木村が、そこが抜けている人間に思えた。底がないから、怖いものがないようだった。一緒にいると、怖いものがなくなってくるから不思議だった。
2006/4/17掲載
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