| 藤岡宣男物語り11 高円寺 綾
始まり
鎌倉に到着して、一週間は、荷物の整理に追われた。母と二人で、朝から夜遅くまで部屋の中を片付ける。母は年老いたのか、行動がスローダウンしていた。やることなすこと、遅いのだ。食事を作るのも時間がかかる。三度の食事と毎日の洗濯をするだけで、精一杯の日々である。
だが藤岡は、母が引っ越ししたことを厭わなかったので、安心していた。ただ、老いた母を巻き添えにしたことには、申し訳なく思った。それだからこそ、後には引けないのだ。 鎌倉は、桜が散り、ツツジが満開だった。思いも掛けない土地での出発である。昨年の今頃は、鎌倉に住むなどということは、考えられなかったのだから。
木村は、半月後に鎌倉に移転する手筈になっていた。毎日のように、木村に電話をして報告する。今の藤岡には、木村が精神的な頼りだった。
部屋が片付けば、早速M先生の所にレッスンに通う。すでに先生には移転を知らせていた。どうして神奈川に移転するのかと、M先生は怪訝な様子だが、藤岡は母のために鎌倉にしたのだと、自分にも言い聞かせた。
これから、藤岡は、地獄の日々が始まることを知らない。
すべてから解放されて、希望する道へ歩むという清々しい気分に充ちていた。毎日、歌のことだけを考えていればいいのだ。こんな幸せがあるだろうか。
部屋の片付けを終えて、M先生の所にレッスンに通い始めた。歌のために会社を辞めたことを知っているM先生のレッスンは熱が入っていた。先生の調子の良い時は、二度見て貰うことも出来た。レッスンの前後も、藤岡は発声を練習した。充実していた。
五月下旬、木村も鎌倉にやってきた。
苫小牧から船に乗り、そして特急電車、新幹線を乗り継いだ。
東京駅から藤岡に電話で、これから行くよと連絡する。この時、木村は飛行機に乗れない状態だった。すでに、パニック障害が出ていたのである。本人は自覚していたものの、鎌倉生活を始めればよくなると考えていた。
藤岡は、到着の時間を見て、鎌倉駅に出た。藤岡にとって唯一頼れる相手である。
木村は、誰も知らない街での、唯一の知り合いである。また、母と二人の家庭は、親戚の付き合いもない。親類との連絡も絶っている。母が死ねば、藤岡は天涯孤独となる。
木村の引っ越しの整理の手伝いをするために、毎日、木村の部屋に出掛ける。それが、当たり前になり、毎日、木村の部屋に通うことになる。練習も木村の部屋でする。うまいことに、木村の部屋は24時間音出しが出来るのだ。
その年は、充実して過ごすことが出来た。
だが、週に三度の東京行きは、矢張りしんどいものだった。帰りの電車はいつも満員である。そんな生活をしたことがなかった藤岡には、大きなストレスだった。しかし、最初は、ただ無我夢中で通った。
歌と発声の練習で日々が暮れる。そして、語学の独学である。イタリア語、フランス語ドイツ語と、学ぶことは多かった。
鎌倉は、箱庭のような街である。風情があるといえば、街の作りがそうなのだが、住み始めてみれば、鎌倉は田舎だった。
木村と二人で、よく海へ出た。30分程かけて、由比ガ浜に出る。
木村は一人で感心していた。北海道の日本海側に育った木村にとって、湘南の海は、湖のように、おとなしいらしい。
木村の仕事は、原稿を書くことだけだった。原稿料で十分に生活することが出来たのだ。教室がないことの寂しさを時々口に出したが、藤岡は木村が強い人間だと信じていたから、別段気に止めなかった。
最初の数カ月は、ゆったりと過ぎていった。
時々、M先生から急に呼び出しがかかることがあった。そうすると、二時間程かかる電車を乗って出掛ける。帰りの電車が最終になることもあった。
ぐったりと疲れて鎌倉に戻る。
それでも、木村の部屋に寄ってレッスンの様子を話して帰ることもあった。
思えば、木村は、あの多くの人に囲まれていた札幌から鎌倉に来てから、人に会うこともなく暮らしていた。札幌では見たこともない表情を見ることもあった。
実は、本人はパニック障害の鬱状態に苦しんでいたのだ。それを藤岡に見せることがなかった。時々、札幌に戻りたいと漏らすことがあったが、藤岡は気に止めなかった。
最初の頃は、二人で横浜に出て食事をしたり、酒を飲んでいたが、それも次第になくなり、木村は鎌倉に籠もるようになった。
木村は電車に乗ることもままならないほど、状態が悪化していた。後日談であるが、決死の覚悟で電車に乗っていたという。
そんな木村を誘う事なく、藤岡が出掛けるのは、もっぱら一人になった。まだ藤岡の心にはゆとりがあった。
鎌倉の風は、まだ本格的に吹いてはこない。
2006/4/24掲載
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