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  藤岡宣男物語り13  高円寺 綾

 藤岡の母

 そんな藤岡の苦悩や苦労を知ってか知らずか、母はのんびりと鎌倉生活を送っていた。それは藤岡に余計な思いや負担を掛けないものだった。

 藤岡の母について少し触れたい。

 資産家で金持ちのお嬢様として生まれた。しかし、生みの母が幼いころに亡くなり、祖母が母親代わりをしたという。非常に利かん気な女の子で、意地を通したと言う。当時の女の子がする女業は全くしなかったらしい。そのせいか、料理などは全く駄目で、藤岡は子供の頃に、こんな不味いものは食べられないといつも言ったらしい。母も、味見をして、本当だと言うから二人で笑ったと。

 和裁、洋裁なるものもせず、学校の宿題のものは、すべて祖母にやらせていた程だ。

 戦争中の話も、国の政策など全く意に介さず、竹槍など馬鹿馬鹿しくて、いつもお休みか、さぼっていた。お金の感覚がないから、財布を持ったこともなく、初めての修学旅行で、すべての金額を使い、友人に御馳走しても平気だった。

 その母も、継母には疎んじられて、祖母が亡くなると、それが激しくなり、女学校を終えて、すぐに家を出た。それから世の荒波に揉まれることになるが、持ち前の強気の性格か、難無く越えて生きていた。

 親類の飲み屋でアルバイトのような仕事をして、一人暮らしを始めた。

 そしてこの家を出る時に、彼女は遺産相続を放棄して出たというから、その性格の強さが解る。全く家とは関係ないとしたのだ。

 それから彼女の生涯の一人の男となったのが、同じ姓の親戚の男だった。藤岡の父親である。一度目の子供は生むことが出来なかったが、藤岡を身ごもった時は、一人で生む決心をした。

 それも重大なことではなく、淡々としてである。勿論、当時の風潮から見れば、とんでもない暴挙であり、誰もが皆反対したという。子供が可哀想である。一人前に育たない等々と諭されたが、生むのである。

 藤岡が笑って木村に言った。

 「僕の名前を付ける時、どうして付けたと思う。当時の産婦人科の先生が優しくて良い先生だったから、その先生と同じ宣男にしたって」

 しかし藤岡は、その名前が気に入っていた。

 藤岡を生むと、父親は毎月養育費を払う。それが藤岡が大学二年頃まで続く。親子の収入は、それのみである。

 六畳一間の部屋から始まった親子の生活は貧しかった。しかし、貧しさは当時の日本であった。それ程の不自由はしなかったという。ただしである。それは最低の生活であった。 幼稚園に行ったというから、最低限の生活を維持していたと思われる。

 幼児期の話は、断片的に木村が聞いていた。そこから探るしかない。

 自転車の荷台に乗って銭湯に出掛けた。

 外食は、たまに近くのデパートで食べた。母は何も頼まず藤岡が食べ残したものを食べたという。料理が出来なかった母だが、外食を好まなかったという。藤岡が札幌の頃、母を誘うが、あまり気乗りしないようで、誘うのを諦めた程だ。着る物も買わない。

 藤岡亡き後、母がホームに入所して、その部屋の片付けをした木村は、藤岡の幼少期の頃からの持ち物があり、驚いたという。何にせよ、捨てることのなかった人だった。

 福山、札幌、鎌倉、横浜と引っ越しをしたが、何一つ捨てることはしなかった。

 その物の思いに、木村はただ呆然と立ち尽くしたと言う。二人の親子の生きざまの思いである。

 「母が死んだら、僕は天涯孤独の身だ」と藤岡は言っていた。木村は、それを聞く度に、私がいると思ったと言う。私が家族で、私が身寄りであると。

 「木村さんは僕を見取ってから死んでね」

 と藤岡がいつも言っていた。木村の方が十も年上である。しかし、木村はそういう藤岡を愛しく思った。何としても、藤岡を世界の舞台にという思い募り、命懸けで、藤岡を歌の道に邁進させようと・・・

 天涯孤独。それは木村の目指している生き方だった。後に道は無い。前に進むとかない。そういう生き方をする。

 藤岡も無意識にそういう生き方を目指していたのだろう。だから、木村に共感し、木村を頼った。

 ここで作家は、人の出会いの不思議を感じざるを得ない。

 

 藤岡がピアノに目覚めたのは、小学生の低学年の頃である。同じ年の女の子がピアノを弾くのを見て、驚きそしてピアノを弾きたいと願った。

 母はそれにすぐに応えた。

 暫くピアノを習うが、ピアノが欲しくなるのは時間の問題だった。母は、どうして貯めたのか、現金でアップライトピアノを購入した。

 子供の藤岡は、ただ喜んだが、後年、木村に母の心意気は凄かったと語っている。その母が一度だけ、大学の時にお金が無いと泣いたという。藤岡のピアノのレッスン料が払えないと。

 作家は、ここで泣く。

 余計なことは書くべきではないが、才能あり貧しさゆえに、その才能を生かすことが出来ない人がいる。それが現実である。その現実と、どう向き合うかによって、人生の姿が変わる。

 小学校四年の年に藤岡は、あることに目覚めたという。それは母と自分の生活である。どうして生活しているかということに目覚めた。それから藤岡の成長が始まる。母にとって、自分は息子であるが、夫であり、良き友人であり、良きアドバイザーなのであると。十歳の子が、母を思う。

 人に後ろ指を指されないように勉強しようと決意する。勉強さえ出来れば、誰も何も言わない。藤岡は、秀才を目指して進む。それはまた、奨学金等々を得る手段でもあった。 大学時代は奨学金と、アルバイトで母と二人の生活を支えたのだ。

 ここでは、それに多く触れない。次の作家の役目である。

 藤岡の母は、このように藤岡が何をしたいのかを応援して生きていた。

 何度か藤岡が母に言われた。仕事が大変そうに見えると「そんな大変なら、止めたらええ」と。藤岡は笑う。じゃあどこからお金を得るのかって。母は、お金は自然に入ってくるものだと思っていると、藤岡が笑う。母のお育ちである。そういう母の元だから、藤岡は、歌の道にも進むことが出来たのである。

2006/5/10掲載

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