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藤岡宣男物語り26 高円寺 綾
発声指導
2002年2月、横浜みなとみらいにて、リサイタルを開催する。
みなとみらい小ホールは400名ホールである。100名程のお客様が集った。
受付には木村一人が立った。手伝いは横浜シニアの会員を頼んだ。横浜に付き合いのない木村は、すべてを一人で切り盛りした。
リハーサルを木村が聴く。
藤岡は爽快な気分だった。響きの良いホールで歌えることは最高の幸せである。録音業者を頼み、本格的ライブ録音をするのも初めてである。
木村が藤岡に、これはCDにするつもりだからねと言う。藤岡も、そのつもりで望んだ。 舞台で歌う。このために努力した。このための決心だった。藤岡は本望だった。これからこういう舞台が続くのだと思うと、胸が弾んだ。
この時のライブCDが「心の唄」リサイタルライブCDである。一切の手を入れない、ライブそのままのものである。
木村が音楽の世界を知らなかったということもあるが、ライブ盤のCDを出すということは、大変な勇気がいることだったのだ。
舞台で歌ったものならば、臨場感もあり聴くことが出来るが、歌のみをCDで聴くと、聴くに耐えないものも多い。それをなんなくやるところが知らない者の強みであった。
プログラムは、藤岡が初リサイタルで作ったものと一緒であり、藤岡には余裕があった。 開演の本ベルが鳴り響く。その時だけ、木村が舞台袖に来た。
扉が開かれた。
颯爽と舞台に向かう。拍手が起こる。リサイタルの開始である。
舞台は人生の凝縮である。またそれ自体が人生とも言える。芸人は、何度も人生の凝縮を体験するのである。だから舞台に一度立つと止められない。
藤岡は、自分なりに訓練した舞台マナーを持って、客の前に立つ。
静まり返る客席を見て、第一声を放つ。
自分の声がホールに響き渡る。
乱れなくプログラムは進む。一曲ごとに、客の拍手を聞く。
歌と自分が一つになる。自分が歌なのか、歌が自分なのか。
密やかに、最後の音を延ばして静かに終わる時、藤岡は歌を志したことが間違いでなかったことを確信する。
休憩時間に、ロビーで何が起こっているかを知らない。
一休みに出て来たお客様の中に、木村に声を掛けた女性がいる。
「あのー、一寸いいですか」
控え目に木村に声を掛けた。木村がにこやかに頷く。
「教えていただけるんでしょうか」
「えっ」
木村が聞き返す。
「あのー、歌を教えていただけるんですか」
「あっ、えーと、今は教えていませんが、後で本人が出て来ますから、会いますか」
「ええ、是非お願いします」
と、その後で、また木村が声を掛けられた。今度は、少年の面影を残した若者である。
「済みませんが」
木村が、その控え目な様に耳を傾ける。
「私の歌を、藤岡さんに聴いていただきたいのですが」
木村は、うっと詰まった。が、しかし
「うーん、終わった後で時間があれば」
と答えた。
「是非、お願いしたいんです」
少しの沈黙の後で
「もし、時間があれば、大丈夫だと思いますが、会うことは出来ますから」
と木村が答えた。
この二人が藤岡の最初の弟子になった。
女性のTは、藤岡に、直接教えて下さいと頼んだ。藤岡が、後で木村から返事をしますねと、優しく答えた。多くのお客様を送り出している最中である。そう答えるしかなかった。だが、若者は最後まで粘り、ついに客が引けた後で、藤岡の前で歌い出した。
椰子の実である。
木村を始め、手伝いの者、ホール側のスタッフもただ驚きの眼を向けていた。
彼が一番を歌い終わるのを、皆、目を伏せて聴いた。
藤岡は、その様に心を打たれて、じっと聞き耳を立てた。全く、歌とはいえない代物である。しかし、何故、彼がこうまでして、自分の前で歌うのか。自分に聴いて欲しいと思うのか。
藤岡は、歌い終えた彼に言った。
「声の出す方法を身につけると、もっと素晴らしく歌えます」
そして、声楽家の基本を簡単に話して聞かせた。
藤岡の真摯さは、こういうことろに現れる。決して、無下にしないのだ。それは万事においてそうであった。
I君もまた、藤岡に入門を許された。
教えるつもりなど全く無かった藤岡だが、木村に
「習いたいという人がいるということは、必要とされていることだから、教えて上げなよ」
と言われ、それも収入になると説得されてである。
今はまだ自分の歌の道を極めることで精一杯だと思っていたのだ。
リサイタルを終え、客出しをした後、藤岡は快い疲れを感じ、歌うということに酔った自分を振り返った。楽しい。とにかく楽しいのだ。
僕は歌い続ける。それは確信であり、それが生きることであった。
2006/8/16 掲載
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