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藤岡宣男物語り28 高円寺 綾
札幌公演
2001年から、札幌では、年に二度の公演をした。それは木村の本拠地だったからだ。 最初の公演は、2001年5月である。
音楽ホールについて知らない木村は、知り合いのホテルに会場を取った。
街中に温泉があるという、ジャスマック・プラザである。そのザナドゥという会場だった。250名の席を設けた。チケットは、木村の知り合い関係で100名程である。
リハーサルでは響きが無いことから、木村がマイクを使うことを勧めた。
声楽家は、生声で歌うという者だが、藤岡は、木村のアドバイス通り、マイクを使った。それは成功した。藤岡の澄み切った声が、天から降るように聴こえたのだ。
久しぶりの札幌に戻った木村は、コンサートの合間に挨拶をした。
これから、年に二度コンサートを開催する等のことを話した。また、鎌倉生活の話しもである。多くの知り合いは、それを喜んだが、そんなクラシックコンサートは初めてである。プロデューサーが舞台に出るということである。しかし、木村も、そしてスターである藤岡も、平気だった。
当然のことであると、藤岡も思った。しかし、二度目の秋のコンサートは違った。
新しいお客様、特にクラシック関係者が来たものだから、木村の挨拶が奇異に写った。その後の批判は、凄まじかった。今は、それについては、多くを語らない。
また、藤岡のコンサートの有り方にも、クレームがついた。一度目も。二度目も、藤岡が歌の説明をすることが不自然であるというものだった。
木村は親しい友人から、コンサート後に、それを言われて戸惑った。そして、それを藤岡に話す。
「のぶお君、クラシックコンサートでは歌の説明はしないの」
「うん、大半はしないよ」
「それがねー、変だという人がいるんだよ」
「そうかもね」
「どうする」
「僕は、この形で暫くゆく」
「そう」
木村は納得した。木村も不自然さを感じないからだ。それに、クラシックコンサートに慣れていない人からは、説明があって、良かったと聞いていたからだ。
コンサートの合間に話をするということは無いらしいと、木村が気づいたのは、その後だった。しかし、藤岡の形のコンサートが多くなっていたことは事実だった。
歌うより話す方が多いということを、人づてに聞いた木村は
「のぶお君、あんなたのやっていることは、先駆けだったんだよ。皆、話すようになったってさー」
「うん」
藤岡は驚きもしなかった。
どうして、外国の歌詞の意味が説明なしでも解るのか。解るはずがない。ならば、歌の意味を知って聴いてもらいたいと藤岡は思う。
クラシックフアンは、それなりに、知識を持っているだろうが、何も知らない人にクラシックを聴いてもらうとしならば、話をしなければいけないのだと藤岡は考えた。新しいお客様を掴むという意識である。
その形は、二年ほど続いた。そのうちに、藤岡は説明するのを一部のみにしたりと、次第に少なくした。それは歌と話の発声の違いもあった。
歌と話しと一緒にすると、非常に疲れるのである。
藤岡が望んだ形は、陰アナウンスで歌の解説をしたり、朗読家に詩の訳を読んで貰ったりする方法である。オペラアリアなど、その情景を朗読家に読んで貰い、聴く側の心の準備をして、つまりオペラのストーリィーに入って貰い歌を聴いて欲しいと考えた。
それが実現したのは、亡くなる年の春のことである。
赤字でも、木村は札幌でのコンサートを年に二度開催すると決めていた。
最初のCDは、札幌でのリュートソングのライブ盤である。
二度目のコンサートの時である。木村が挨拶して驚かれたコンサートである。
ただ、その会場は音楽、特に声楽には向かないと言われていた。それを木村は知らないから予約したが、そこで藤岡の声が、響いたのである。木村に対する批判とは別に、藤岡の評価が高くなったことは事実だった。
木村の回想を聴く。
札幌でのコンサートは、私がお弟子さんたちに会うということも一つの目的だった。しかし、矢張り、藤岡のフアンを広げたいと思っていた。
札幌は縄張りというものが強い街であり、文化意識が低いゆえに、藤岡のコンサートに足を運ぶ人が少ない。知名度も高くないと、お客様が集まらない。赤字ではあるが、それでもやり続けることだと、開催していた。
カウンターテナーを知らない人が大勢で、本当に困った。
説明するより聴いてもらわなければならないという思いで一杯だった。
私の友人たちは、クラシック音楽を好まない人が大半で、呼ぶに呼べない状況が辛かったですがねと言う。
2006/9/22掲載
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