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藤岡宣男物語り33 高円寺 綾
初めての公演中止
2001年7月に新潟でリサイタルを開催し、その時に、木村は12月のクリスマスコンサートの会場を予約した。藤岡も一緒に会場に行き、音の響きを確認した。
三カ月前には、チラシが出来上がり、新潟のタウン紙などに取り上げられた。
ところが、藤岡の精神的調子が次第に悪くなっていた。鬱状態である。鬱症状は、人それぞれ、生活習慣や、生まれ育ちによって現れ方が様々である。
藤岡が最初におかしくなったのは、鎌倉生活の頃であった。
M先生のところに通うのに、3時間以上をかけて行く。それが週に4度から、5度になると、疲れが相当なものになった。
木村が鎌倉に住むと言ったゆえ、そして母親のために良い環境だと納得していたが、電車に乗るという経験の無い藤岡には、相当なストレスとなったのだ。
ある日、横浜まで電車に乗るのが限界で、横浜で降りたことがあった。その日から、鬱症状が極端に出始めたのだ。
感情の起伏が激しくなり、どうしていいのか解らなくなる。結局、木村に当たる以外にない。最初は、木村も、それを察知して藤岡の愚痴を聞いていたが、それが毎日続くと、不調だった木村も、限界になり、ケンカすることになる。
悪循環が続いた。
横浜に出てからも、それは治癒しなかった。
藤岡の不調と、お客が集まらないという木村の焦燥感が重なり、木村はついに、公演中止を実行した。やることが早いのは、もうお解りであろう。
藤岡は「僕のせいにしないで」
と、木村に言った。しかし、藤岡の体調不調の故に中止というのが一番説得力がある。夏に貢献してくれた美容院の先生たちにも、言い訳が立つ。
藤岡が一度、やるから中止にしないでと言ったが、結局、木村は中止にすることにし、その公演日に、新潟に出掛け、受付で対応することになった。
藤岡は木村が新潟に行っている間、木村の部屋で寝ていた。
確かに、気分が悪い、そして公演中止により、益々調子が悪くなった。自分は、何があっても公演を中止にしないと考えていたからだ。
木村が新潟に一泊して戻った。しかし、二人は、それについては何も触れずにいた。
そして、その年を越した。
2002年が明けた。
一月最初の仕事は、品川の高輪プリンスでのチェンバロと共にソロ公演である。正月の泊まり客を対象にしたコンサートであった。
続けて、新所沢にある古楽系専門のホールに、女声声楽アンサンブルの賛助出演である。そして、木村が企画した、オルガンによる宗教曲のリサイタルであった。
(これらはすべて記録録音として藤岡が録音していたことにより、いずれは公開される)
2002年の元旦の夜の光景を再現する。
藤岡が木村の部屋に来て言う。
「うちの母、おかしいよ」
藤岡が木村に笑って言った。
「だってさー、年越蕎麦に、どんべいだったよ」
「そう」
「これ、おいしいのよって」
藤岡の母は、料理が苦手であった。それでも、外食を好まないという。
藤岡は木村が作った、雑煮を食べた。
「広島の雑煮と違うでしょう」
「よく解らない」
「私のところは、貧乏だから、ある物なんでもいれる」
確かに、色々な具が入って、醤油味である。
「おいしい?」
木村が尋く。
「うん、おしいよ。木村さんが作るものは、何でもおいしいよ」
食事を終えると、藤岡はコンピューターの前に座り、暫くメール等々の受け答えをしていた。
木村が年賀状を整理した。
「僕、毎年、年賀状が減ってゆく」
藤岡が言うと
「それは、あんたが出さないからだよ」
と木村が言った。その通りで、藤岡は年賀状を出さない。筆まめではなかった。しかし
「木村さんは、出すの」
実は、木村も年賀状は出さない主義である。
「陛下は、年賀状ださないでしょう」
木村が言う。
「馬鹿、みたい」
陛下とは天皇陛下である。時々木村は、そんなことを言って藤岡を笑わせた。
2006/10/30掲載
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