|
藤岡宣男物語り 36 高円寺 綾
ミュージカル出演依頼
作曲家のA氏から電話がきたのは、2001年の秋の終わりである。その夏の、アメリカンポピュラーソングのコンサートに来て、藤岡の声質を聴いていたという。
取り敢えず、木村は、藤岡に伝えるということで電話を置いた。
藤岡が部屋に来たので、すぐに
「のぶお君、仕事が来たよ」
と、木村が説明した。
「面白い」
「じゃあ、話し進めるよ」
ミュージカルなんて、考えてもいなかったのだ。驚きだった。
いきなり、自分の世界が広がるように感じた。その手もあったのだという思いである。
歌えるならなんでもいい。舞台があるなら、何でもいいと。
その年の暮れに、新宿二丁目のゲイパーティに依頼された歌った。
非常に猥雑で締まりの無いパーティーだったが、仕事だと思えば我慢出来た。
しかし、終わった後で、木村が
「もう、こんな場所での仕事は、止めだよ」
と怒ったように言った。
「木村さんだって、いいっていったじゃん」
確かにその通りだった。
「駄目だ。次からは駄目」
木村は不機嫌だった。藤岡も、誰が聴いているのか解らないような舞台で歌うのは、嫌だった。歌ったている最中、聴けと言いたくなるような猥雑さだったのだ。
作曲家のA氏と、横浜駅西口前のホテルのラウンジで会った。
「カウンターテナーの声質で、サターンの役をやって欲しい」
A氏は、端的に言う。
藤岡は、その場で承諾した。
題名は、手塚治虫の「リボンの騎士」である。
翌年の八月公演で、会場は、新宿文化センター大ホールである。三日間の公演である。 企画書を渡されて、胸躍った。
クラシックではない舞台に出られる。あの国連クラシックライブに継ぐものだった。規模は、それよりも大きいものだ。
マスコミにも宣伝される。多くの出演者との縁も出来る。出演者名を見ると、名の知れた者もいる。
木村と二人で、素直に喜んだ。
コンサートの合間に、送られてきた台本を覚えることになった。
2002年のコンサート予定を見る。
1月、高輪プリンスホテル貴賓館にて依頼ソロコンサート。
新所沢、松明堂にて、女声アンサンブルに賛助出演。
東京オペラシティ近江楽堂にて、オルガンと共に宗教曲のリサイタル。
2月、鎌倉第一回ハンノキコンサート依頼出演。
横浜みなとみらい小ホールにて、ソロリサイタル。
3月、近江楽堂にて、アカペラによるリサイタル。
横浜プリンスホテルにて依頼チャペルコンサート。
4月、海老名プライムホールにてカウンターテナー、チェンバロの夕べ出演。
東京経堂かるらホールにて、日本歌曲によるリサイタル
国立楽器にゲスト出演。
横浜みなとみらい小ホールにて、チェンバロによるリサイタル。
5月、かるらホールにて、アメリカンポピュラーソングのリサイタル。
これは最初と同じプログラムでピアニストは別だった。(こちらの記録録音も残っている)
コンサート活動を続けつつ、ミュージカルの練習に出掛けていた。時々、木村も連れ立ったが、あまりに目立つので、後半は、来ることがなかった。
時々、木村が来ない時も、木村の話題が出る程だった。
藤岡は、木村に含蓄のある言葉を残している。
「木村さんに対して感じる感覚は、実は、その人自身のものなんだ。木村さんは、人を写すんだよ。だから、木村さんに対して感じたことを聞くと、その人が、どんな人かかが解る。木村さんを、うさん臭いと言う人は、その人自身がうさん臭い人なんだ」
今、それが裏付けられている。
「あの人は、木村さんと長く付き合う人だよ。だって、木村さんを、とってもいい人だと言うから。あの人自身が、いい人なんだよ。だから、木村さんと、長く付き合うよ」
その通りになっているのである。
2006/11/23掲載
|