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藤岡宣男物語り42 高円寺 綾
無名のコンサートの悲しみ
2002年の師走に入り、二つのコンサートを企画していた。
東京オペラシティ近江楽堂でのクリスマスコンサートと、横浜みなとみらい小ホールでの、クリスマスコンサートである。
東京は、千葉真康によるギター伴奏によるリサイタルであり、横浜はピアノ伴奏である。
慌ただしく感じられる12月の街中には、クリスマスソングが流れていた。
藤岡は、ピアニストのAさんのところに合わせに出掛けた。
ご主人が作曲家でもあるAさんとの出会いは、ホテルのコンサートだった。一年前も合わせをした。その時は、チェンバロだった。
一年はあっと言う間に過ぎた。
Aさんのマンションの部屋に案内された。広々とした空間である。ピアノがあるが、それには、厚い毛布のようなものが掛けられていた。
「近所の人のために」
とAさんが言う。
「音出し可能でも、遠慮しちゃうの」
ご主人もいて、三人で少し話をし、合わせを始めた。
藤岡は、チケットがどれくらい出ているのかを知らない。なるべく考えないようにしていた。また少ない客の前で歌うのかと思うと、少し気分が落ち込む。
主催コンサートで100名を集めたことはない。それでも10名を切ったことはない。
東京のリサイタルは、それ程感じなかったが、横浜のホールは400名ホールである。あまり客が少ないと、寂しい。
合わせを終えての帰り道、そんなことを考えた。
その頃、木村はチケットが出ないということに焦っていた。しかし、打つ手はない。知り合いがいない土地である。限界がある。
10名にも届いていない。
これを知ったら、藤岡の具合が悪くなると、何も言わなかった。藤岡も尋かない。
当日も、その話はなかった。
何事も無く、リハーサルを終えた。ゲストのヴァイオリンの女子学生もリハーサルを終えて、楽屋で待つ。
テレビ画面の舞台を見るが、客席は見えない。
藤岡は、一人、本番を待っていた。
時々、木村が入って来た。
「どう」
と藤岡が尋く。
「まあまあ」
木村が答える。
多くを語らない。
30から50程度だろうと、藤岡は思った。
開演前のベルが鳴る。
藤岡は、ゆっくりと舞台への階段を登った。すでにピアニストのAさんが待機していた。 笑顔で応えて、舞台袖に立つ。
本番のベルが鳴り、扉が開く。
少ない拍手の中を舞台中央に進む。
数える程の客の数である。しかし、伴奏が始まり、歌う。
少なくても、本番は本番である。
客席の空間に向かって歌う。ぱらぱらと客が、離れて座っていた。その頃になると、冷静に客席を眺めることが出来た。
藤岡は、歌い続けた。精一杯に歌う。
自分の歌を、声の響きを確認するように歌う。一人でも客がいるということは、舞台である。その一人を魅了しなければならない。自分のフアンになって貰わなければいけないと思う。
木村は、ホールの扉の前の画面で、歌を聴いていた。
生まれて始めての胃の痛みを感じていた。当日券でも少しは入ると思っていた。そしてゲスト出演した女学生の客も期待した。しかし、遅れても客は来なかった。
数える程、10数名の客である。藤岡のことを思い、胃が痛む。
一年前からの計画である。それが、結果を見て、唸るしかない。
こんなに素晴らしい歌なのにと、ある種の絶望感に似た感情が込み上げる。
藤岡の気持ちを思う。
「藤岡さんは、多くの人の前でこそ歌う人だ」
客の一人の男性が言うのを聞いた。
藤岡も木村も聞いた。
客を見送る。
辛い気持ちは、顔に出さない。笑顔で見送る。
有名にならない限り、いつもこういうコンサートを続けるのか。
とても一人では耐えられないと思う。この感情をぶつけるのは木村しかいない。
「ごめんね、宣男君」
楽屋で木村が言う。
何を言われても、これが現実の姿である。この現実から、前に進む以外にない。
初リサイタルをしてから、二年になるのである。
木村と二人でタクシーに乗る。どこかに立ち寄って休む気にもならない。
無言で、木村の部屋に戻る。
2002年の暮れである。その年の最後のコンサートだった。惨めではなかったが、切なかった。客が集められない歌い手なのか。自問自答する。
木村が無言で酒を飲み始めた。
藤岡はソファーに体を横たえた。とてつもなく疲れを覚えた。ただ、眠りたいと思った。 「今日のコンサート、素晴らしかった」
木村が独り言のように言う。
遠くから電車の音が聞こえる。マンション街は静かである。
2007/1/6掲載
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