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藤岡宣男物語り47 高円寺 綾
気分転換
三日間のオリジナル曲のレコーディングを終えて、藤岡は、最終日に一人で渋谷駅に向かった。
電車はラッシュの時間帯である。
藤岡は、渋谷駅周辺を少し歩いた。
何となくバーのカウンターに座って、酒を飲みたい気分になった。酒が好きな訳ではないが、何となくである。
ひしめく店の中から選ぶのは、大変なことだった。
空腹を覚えて、ビルの中にあるイタリア料理店に入ることにした。バーに入るよりは、気が楽だった。
まだ、客が数名で、空いていた。
イタ飯、イタリア料理が好きになったのは、イタリアにコンサートで出掛けてからだ。ローマの食べ物は、美味しかった。
カウンターに座って、メニューを見る。
「何か、飲み物でも」
髭のマスターが尋ねた。
「ああ」
飲み物のことを考えていたのではなかったが、そう言われて
「何にしようかな」
と、独り言のように言うと
「美味しいワインがありますよ。今日のお勧めです」
とマスター、馴染みの客に言うようだった。
「じゅあ、それで」
客が少ないせいもあって、マスターが、何かと話しかけてくる。
「お勧めのパスタは、ありますか」
藤岡が尋いた。
「うちは、何でも旨いけどねー、本日は、魚介がいいですよ」
マスターの打ち解けた雰囲気に、藤岡は、気が晴れた。
「じゃあ、それで」
マスターが厨房で手早く作業を始めた。
ワインをゆっくりと口に含む。良い気分だ。久しぶりに、平安を覚えた。
巧い具合に、客が入って来ない。藤岡は
「この辺に、静かなバーとか、ありますか」
マスターが少し考えて、それならと、近くのバーを教えてくれた。
藤岡が渋谷周辺に出掛けるようになった、きっかけになった。
店を出て、そのまま紹介されたバーに向かった。道を隔たビルである。
初めての店に入るのは勇気がいたが、紹介されたという口実がある。
カウンターに座って、イタリア料理店で紹介されたと言うと、若いマスターは、すぐに打ち解けた。
「あの店、美味しいでしょう。僕も、よく行くんですよ」
イタリア料理から話が始まった。時間が早いせいか、客がいなかった。
一人で飲むという行為に、藤岡は楽しみを覚えた。
その日から、足しげく渋谷の店に通うことになる。
そのバーから紹介されたスナックやバーが増えた。よく渋谷に出るようになった。
藤岡は、買い物が好きである。特に、健康グッズである。体に良いものを捜し求めて色々な店に入る。
それだけではない。化粧品である。舞台用の化粧品を探すことも楽しみだった。そうして、渋谷の店を回り、最後にバーやスナックに行く。
そこで知り合いも増えた。顔なじみになり、会話するようになった。全く別世界の人たちである。
カウンターの中にいて、バイトをしている若者には、役者志望とか、声優志望、作家志望が多くいた。その若者と話すのも楽しかった。先の見えない状態を手探りで生きているのは、自分の生き方を見ているようでもあった。
それにもう一つは、藤岡は、マッサージ、整体、スポーツトレーニング、漢方治療等々の、体験を多く求めた。これについては、今、多くを書くことが出来ない。藤岡の発声についての、重大な事であり、木村から許可されていない。いずれ、それについては、木村が書くと言う。
発声練習、歌唱指導にも多くのお金をつぎ込んだが、それよりも、多くのお金を突き込んだものが、体に関することである。歌を歌うための体を造るという藤岡の、並々ならぬ努力である。それを、じかに目の当たりにしていた木村は、それについては、自分が書くことだと言う。
藤岡のその努力を理解出来なかった人が、ほとんどだったという。藤岡のレッスンを受けても、その意味が解らずに去った者、多数いるという。
藤岡亡き後に、藤岡が所有していた体に関する本を見て、木村は驚いた。分厚い、筋肉に関する書籍は、プロのためのものである。ここまで、藤岡が体を見つめていたということに、絶句したという。木村も整体の研究をしていたが、藤岡のそれは、プロ並の知識と教養が伺われた。
藤岡がある日、木村を誘った。
渋谷にある一件の多国籍料理を出すバーである。そこには、ピアノが置かれてあり、マスターがピアノ弾き語りをするという。
渋谷のバーに飲みに出ていることを知っていた木村は、藤岡に連れられて一緒に電車に乗った。
「都会って、電車に乗って飲みに出るんだよねー」
木村が、吊り革につかまり言う。
「もう慣れた」
藤岡が答える。
「鎌倉の時も、横浜にわざわざ飲みに出たね」
木村が言う。
「うん」
共通の時間を共有している。時間の共有は、情けを生むとは、木村の言葉である。それが絆になる。
長年連れ添った者は、色々な出来事、紆余曲折があろうが、結果的に、その情けと絆に癒されることになる。
人間の縁とは、実に不思議なものである。
2007/2/19掲載
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