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藤岡宣男物語り50 高円寺 綾
新しい友人たち
渋谷のバーに飲みに出掛けているうちに、多くの出会いがあった。その中でも、外国人の友人が増えた。
英語の堪能な藤岡には、それが楽しかった。
最初に親しくなったのは、フランス人だった。同じ年代で、すぐに意気投合した。
職種に関しては、ここでは書くことが出来ないが、彼らが、他の国に移転するまで、付き合いが続いた。
ホームパーティーにも呼ばれる仲になった。
イギリス人、アメリカ人、マレーシア人と、英語で話せる相手が多くなった。
藤岡は、英語で話すということに、快感を感じていたと木村が言う。
「あの頃、藤岡は英語で喋るのが楽だと言ってた。変な敬語や、気を使わなくていいからだ」
多いときには、週に三度も、渋谷に飲みに出掛けた。
コンサート後や、伴奏合わせの後も、渋谷を経由していた。
外人の友人たちは、皆、一流の仕事をしていた。社会の第一線で活躍する人ばかりであり、藤岡は彼らとの会話が実に刺激的だった。
また、彼らも藤岡の芸術性に関心があり、話しは尽きなかった。
この小説に、彼らのことを詳しく書くことが出来ないのは、多く外交関係者だからだ。 木村から、書くことの許可が出ないゆえ、これ以上のことは書けない。
ただ、仲良くしたフランス人のホームパーティーには、よく出掛けていたという。時には、泊まることもあった。
そこでは、一切、日本語がなく、すべて英語で話し合う場であった。
様々な人種の友人と、楽しく語らい、飲んで食べた。
帰ると、木村に色々と様子を話していたという。
日本という特殊な国に来て仕事をしている人々は、実に理性的で冷静だった。藤岡は、それが気にいっていた。
時に、藤岡は彼らに歌を披露して喜ばれた。それがまた、藤岡と彼らの絆を深めたのである。藤岡の古楽は、彼らの知的好奇心を満たした。
イギリス人などは、その古英語の歌に感動していた。イギリス人でも、そのような英語を知らないという。また、藤岡の発音の万全さに、本国人が感動したらしい。
木村と部屋にいる時に、彼らから電話が入ることがあり、側でそれを聞いている木村は、実に楽しそうに話していたと言う。
「藤岡の、幸せな時間だった。自分で、今がプチ幸せな時だと言っていた」
と木村が言う。
別世界にいる彼らが、藤岡の心を癒していたのだ。
藤岡の芸術家、声楽家であるということにも、彼らが正しい敬意を払っていたからだ。 互いに尊敬する友人関係程、心地よいものはない。
コンサート後に、木村に荷物を預けて、彼らと飲みに出掛けた時期が、藤岡にとっての、有意義で満たされた時間だった。
良い意味での個人主義が行き渡っていて、日本人との関係にある、人の噂や、木村に関する批判や中傷などなかったのだ。
彼らは、やっていることしか、見ないのである。言葉にすることより、何をやっているかが、問題だった。
人の評価は、何を成しているかにかかっていた。やらない者ややれない者は、意見を言うことさえタブーだった。そんな現実主義が、藤岡の気持ちを心地よくさせた。日本人と飲むと、必ず、人の噂や中傷に近い話題が上がる。そんなことはなかった。
クラシック関係の者と付き合う時に起こる話題が、非常に狭いものだった。特に、女性たちは、人の噂や、批判、中傷が好きである。それに、藤岡は嫌々付き合っていたことも多々ある。
歌い手は、伴奏者の批判であり、時には、悪口である。その逆もある。
そういう次元を超えていた藤岡は、辛抱して付き合っていた。
ちなみに、藤岡は伴奏者に、ケチをつけることがなかった。どんな伴奏者でも、歌いこなした。あまりに酷い時には、二度としなかった。それだけである。
ただし木村だけは、藤岡の評価を聞いていた。
木村はピアノの音自体を拒絶していたから、何をか言わんやである。
「あんな野蛮な音を尋常な神経で聞くことは出来ない。微かに流れてくる、それだけでいい」
との言い分である。
その木村が、藤岡にピアノリサイタルを促したというから、面白い。
「あんたが弾きなよ。それなら、私は聞ける。カウンターテナーがピアノリサイタルしては駄目なんてこと、ないしょ」
2006年に、藤岡のピアノリサイタルが実現するはずだった。
始めは取り合わなかった藤岡だが、次第に、そういう心境になっていた。発声セミナーの前に、ピアノを弾くようになったのだ。
そして、木村のレッスン室でもピアノを弾くようになった。
「木村さん、どう」
と言って、木村に聞かせていた。
木村が言う。
「叩きつけるピアノの音を、日本人の耳は聞けないはずであるが、それに慣れるために努力して、ある感性を破壊して、ピアノの音に慣れた経緯がある。
兎に角、喧しいのである。しかし、日本人の感性を持って弾く時、微かに音色が変わる。そういうピアノ弾きは、実に稀である。生まれ持ったものとしかいいようがない。藤岡のピアノの音は、稀な部類である。それを受け継ぐ者が現れて欲しい。そうすれば、ピアノ弾きの、破壊された人格を見なくていいからだ。
大半のピアノ弾きの人格が破壊されるのは、ピアノの音そのもにのに原因がある。それを知らないとは、可哀想である。
川のせせらぎ、風音、虫の音を雑音として聴く欧米人の耳は、喧しい音にのみ反応する。聴覚自体が日本人と違うのである。繊細微妙さを聞けない彼らの音に対する感性は、叩きつけるピアノの音が合っているというだけである。しかし、今、世界的に日本人のピアノ弾きの技術が高いと言われるのは、叩きつける音に、ある種の日本人にしかない音色を含ませるためだ」?
2007/3/12掲載
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