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藤岡宣男物語り59 高円寺 綾
心配な母
詩人の母には、友人もいない。一日、一人で過ごしている。それで不自由は感じない。藤岡も、それで満足している母に安心していた。
母は、何が忙しいのか、忙しい、忙しいと言う。
毎日の洗濯で、水道料金が、普通の家庭の三倍以上だと木村に言われた。
それを母に言うと
「あの人は、洗濯せえへんからよ」
と答える。
藤岡は、それで母が満足ならばと、それ以上は言わなかった。
母は、よくテレビを見る。そのテレビの音が、以前より大きくなっている。
それを注意すると
「小さくしたら、聞こえへんよ」
と答える。耳が遠くなったのだと思う。
「耳が、聞こえなくなったんでしょう」
「そんなことない」
本人は自覚していない。藤岡は、自分が使った、聴力のためのテープを母に聞かせることにした。
「ええか、毎日、これを聞くこと。10分でいいから」
と母に、イヤホーンの使い方を教えた。
そういうことには、素直である。
だが、ある時から、何度も同じことを聞くようになるのである。
「宣男ちゃん、今日は、何曜日」
「火曜日」
「ゴミの日だ」
そして、暫くすると、また
「宣男ちゃん、今日は、何曜日」
と聞く。
「火曜日って言ったよ。ボケてきたんじゃけ」
藤岡は怒った。
「ボケたら、いかんよ。僕が世話するんだから」
と言うと
「宣男ちゃんが、世話なんか出来ない」
と言う。
「なーんもできんから」
と、そう言われると、確かに何も出来ない。
藤岡の一日は、大半を木村の部屋で過ごす。その方が、母に取っても良かった。藤岡が、どこかに出掛けているということで、母の精神のバランスが取れていた。
「木村さん、母親、おかしいんだよ」
木村に言う。
「そりゃあ、少しは、おかしくなるよ。大丈夫だ」
そう言われると、安心する。
「人生、八十年も生きていれば、少しは、いかれるって」
それもありだと思う。
しかし、母親の異変は、少しつづでも、変化してゆく。
夜帰ると、すでに寝ているが、藤岡が戻ると、起き出してくる。
食事をした跡がない。
いつもは、ナベでご飯を炊いていた。炊飯ジャーは使わない。それが、無くなった。
「ご飯、食べた」
「今日は、食べとうないから、食べんかった」
藤岡は、夜中に腹が空くと、母の炊いたご飯を食べることがあった。ナベで炊いたご飯は、美味しい。
ある朝、母が目眩がするという。
藤岡は、近くの病院へ連れていった。
医者が親切に尋ねる。
「何を食べてますか」
「うー、この頃は、ポテトチップス」
「それはねー、塩分が多いから、血圧が上がりますよ」
そして、藤岡に言った。
「入院させますか」
と。突然の言葉に藤岡は、大丈夫ですと、答えた。
それを木村に言うと
「どうして、入院と言ったんだろうか。変だねー」
と、木村も考えていた。
「入院だって、変だよねー。少し血圧が高いだけで」
その時、藤岡は、医師がカルテに認知症と記入したことを知らない。
藤岡も少しは、ボケていると思ったが、そこまで進んでいるとは、考えなかった。
しかし、早速ボケ防止の算数テストを買って来て、毎朝、母にやらせた。それが、日課になった。
藤岡が採点して、二人で笑った。
「まだ、大丈夫だよ」
しかし、母の認知症は、ゆるやかに進んでいた。藤岡は、それを明確に気づいてはいなかった。
藤岡亡き後、その重大さに気づいたのが、木村だった。
さて、淡色抄のリサイタルの後も、すぐに同じホールで開催した、「ぴあの・ピアノ・PIANO」にゲスト出演している。
それから、暮れまでコンサートが続いた。
母とは、朝と夜遅く顔を合わせる程度になっていた。母の方も、それが当たり前のように思っていた。だが、それが認知症を早めることにもなっていたのである。
11月には、新しい形のコンサートが開催された。
木村の考案で「表現することは素晴らしいアート展」という、絵画展とコラボレーションするコンサートだった。
また同じく、11月には、第3回平和祈念コンサートで、第一部のコーナーを藤岡のステージにして行われた。
すべて、木村のアイディアのコンサートである。
平和祈念コンサートは、チャリティコンサートであり、藤岡も、その主旨に賛成した。通常のコンサートも赤字が多い中、チャリティコンサートをするという木村の、意志に藤岡も感じるものがあり、積極的に参加したのだ。
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