2009年07月03日

性について69

次に、パートナーと共に、行う場合である。

ゆったりと横たわり、パートナーに性器を刺激して、もらう。
二人共に、相手を喜ばせるためではなく、自分の感覚に集中するということが、大切。

最初は、呼吸法により、レベル4の、プラトーを維持させる。
レベル4に達したら、大きく深呼吸をして、興奮状態を落とす。
パートナーが刺激を続けていても、レベルを落とすのである。

3,5辺りにきたら、また、興奮状態を上げる。
レベル4を、超えたら、再び深呼吸をして、レベルを下げる。

呼吸の強弱だけで、レベル4の、プラトーを10秒から、15秒維持させるのである。

それが出来たら、次に、PC筋を収縮させて、レベル6の波に乗る。

パートナーに性器を刺激してもらい、レベル6の興奮状態に達したら、PC筋を、二度、三度と、収縮させて、興奮状態を、止める。
興奮状態が、下降してきたら、また、パートナーの刺激をじっくりと、味わう。
レベルが、6,5あたりまできたら、PC筋を収縮させて、レベルを下げる。

そうして、レベル6のプラトーを、15秒程度、維持させる。

この、プラトー自体に、快感を感じるようにもなる。
一気呵成に、オーガズムに達する、つまり、射精を急ぐのではなく、興奮レベルを楽しむという、姿勢である。

次に、体の動きを変えることによって、プラトーを維持させる、エクササイズ。

それは、一人の時とは、違う。
パートナーがいるので、それに従うので、自分で、体の動きを変えるのである。
レベル7まで興奮させて、腰を回転させたり、前後に揺らして、興奮状態を、レベル7まで高める。

レベル7まで、きたら、腰の動きを止める。
レベル7より、下がったら、再び腰を動かして、レベルを上げる。
腰の動きを加減しつつ、レベル7の、プラトーを15秒ほど、維持させる。

最後は、意識を変えるもの。

今度は、刺激されていない場所に、意識を変えるもの。

パートナーが亀頭を刺激していると、それは、刺激に敏感になり、興奮状態が、急激に、上昇する。
興奮状態が、レベル8まで、高まったら、亀頭ではない、陰嚢などの、部分に意識集中させる。

意識を変えると、刺激をかわして、レベルが下がる。
下がったら、再び、刺激されている部分に、集中する。

意識する、対象を変えながら、レベル8のプラトーを維持させる。

これらの、方法は、好きなエクササイズを、繰り返してよい。
更に、レベルも、自分で、決めて行うとよい。

更に、慣れてくると、四つを同時に使うのが、効果的である。

エクササイズを繰り返すと、四つでも、ひとつでも、自分の利用しやすい方法を、見出すことが出来る。

要するに、興奮レベルの、プラトー、快感を維持させて、楽しむということである。

立て続けに、オーガズムに達する女性は、興奮状態をレベル9,9で、プラトーを維持しているために、レベル10に達した途端、何度も、オーガズムに達することができる。

ペニスを、パートナーに、挿入したまま、プラトーを維持することも、楽しい。

要するに、呼吸法、PC筋を収縮、体の動きを変える、意識する対象を変えるという、四つの、方法で、プラトーを維持させるということである。

それを、自然に身に付けている男もいるということは、知っている。
セックスがとても、好きな男たちである。

さて、余談になるが、この、エッセイを読んで、メールをくれた男がいる。

曰く、自分は、セックスが大好きな男だと、思っていたが、ここまで、やるほどではないと、思った。つまり、俺は、あまり、セックスが好きではない。単なる、射精欲だったのだという、話である。

その通りで、性欲と、射精欲は、違う。
年齢を重ねると、射精欲が減退して、セックス行為を、それほどまでに、好まなくなる。
射精欲を、セックス好きだと、思っていたのである。

だから、射精の、オーガズムが、それであり、それ以上のオーガズムを必要としないということだ。
それは、それでいい。

好きな人が、すれば、いいのだ。

疲れや、ストレスを感じるのは、脳である。
その、疲れや、ストレスを解消するのは、単に、休息しても、取ることは出来ない。
そこで、脳は、別の場所を刺激することによって、それを、解消しようとする。

その一つに、性的反応部分を使うという、方法があるということを、私は言う。

全裸になる。
それも、開放である。皮膚感覚は、性的感覚につながる。
更に、セックス、それに関する、イメージ、エロティックな気分などで、脳を刺激する。

仕事で、エロティックな気分など、持つことは出来ない。

脳の別な部分を刺激して、疲れた部分を休めるというのである。

だから、スポーツも、ウォーキングも、散歩も、脳の別の部位を刺激して、疲れた、ストレスを感じる脳の、部分を刺激して、休息させるのである。

一定の部分をストレスに晒すと、必ず、抑うつ状態になり、そのままだと、鬱病に移行する。
生まれ持った傾向もあるが、脳は、最大限に、生かすことである。

筋肉でさえ、同じ部位を使用していると、筋肉疲労を起こすのである。それと、同じ。

性的感覚を、死ぬまで持つことは、生きるという意識に、素晴らしい活力を与える。

何故なら、人間は、大脳化によって、性的人間になったのである。

2009年07月02日

性について68

ピークをプラトーに引き伸ばす方法には、次の四つがある。

プラトーとは、その状態を持続させるものである。
つまり、ピークの持続である。
興奮状態の快感を、持続させるものと、思えばよい。

呼吸法変える
PC筋を収縮させる
体の動きを変える
意識する対象を変える

ピークを、プラトーに引き伸ばすエクササイズでは、様々な刺激を利用して、興奮状態を微妙に、上下させ、一定のレベルに保つことを、身に付ける。

一人でする場合。
仰向けか、椅子に座り、ゆったりとした気持ちで行う。
潤滑クリームを使い、性器を刺激する。
マスターベーションではないことに、注意。

最初は、レベル5を目指し、呼吸法を使い、つまり、呼吸を変えて、ピークを、プラトーに、引き伸ばす。

レベル5に達したら、その興奮状態を、よく味わう。
感覚を自覚する要領は、身についているはずなので、レベル5と、レベル5.5の違いも、分かるはず。

次に、レベル6に達する前に、意識して、呼吸を遅くする。
ゆっくりとした、深い呼吸をしているうちに、興奮レベルは、落ちてゆく。
その感覚を、味わう。

そして、興奮状態が、レベル5より、下がりかけたところで、再び、呼吸のパターンを変える。
今度は、呼吸を早める。
肩で息をするように。

興奮レベルが、5、あるいは、それ以上になる。
呼吸を、速めたり、遅くしたりすることで、レベル5のあたりを、微妙に、上下する。

注意することは、あまり、長い時間の呼吸の変化は、呼吸亢進を起こすので、せいぜい、15秒くらいに、とどめる。

次に、興奮レベルが、1,2に、落ちたら、ペニスの刺激を、はじめる。
そして、レベルを上げてゆく。

興奮レベルが、6に達しても、刺激を続ける。
今度は、PC筋の、収縮で、興奮レベルの上昇に、歯止めをかける。

更に、刺激を続けて、興奮レベルが、6に達したら、PC筋を収縮させて、レベルを少し下げる。

少なくとも、10秒から、15秒、レベル6に乗ってみる。
すると、PC筋により、プラトーを維持したことになる。

ここで、私は、この方法は、若い頃ならば、無意識に、ある程度は、出来ることだと、思うが、それは、セックスでも、マスターベーションでも、であるが、ある程度の年齢になっても、出来るということは、訓練によらなければ、出来ないことだと、思う。

ある興奮状態を、維持する。
要するに、勃起して、ある程度の、快感というものを、持続させる行為である。

さて、次に、三つめの、テクニックに入る。

体の動きを変えるものである。
このエクササイズでは、ペニスを刺激するスピードを変えて、ピークをプラトーに、引き伸ばす方法である。

まず、レベル7を目指す。
レベル7を、少し超えたところで、ペニスを刺激するスピードを、緩める。

すると、興奮状態は、下降してゆく。
レベル7より、下がったら、今度は、スピードを上げる。

つまり、それで、レベル7のプラトーを、数秒間、続けてみるのである。

注意することは、楽しみつつ、ということ。

最後の、テクニックは、意識する対象を変える。
これは、刺激する対象を変えると、言い換えた方がいい。

たとえば、ペニスの、亀頭を刺激していた場合、刺激する対象を、陰茎の脇や、陰嚢を刺激するということ。

レベル8を、目指し、ペニスを刺激する。
そして、8を超えたら、刺激する対象を変える。

興奮レベルが、下がれば、はじめのように、ペニスを刺激する。

興奮状態が、再び、上昇する。
レベル8を、超えたら、また、刺激する場所を、変える。

こうして、レベル8のピークを、10秒から、15秒、維持する。つまり、プラトーに、達するということ。

緊張せず、リラックスして、行うこと。
慣れてくると、高い興奮状態に、乗ることが出来るようになり、それ事態が、楽しいことになる。

プラトーを維持することは、人間のみが、出来る、性的行為である。

脳によって、快感を得るという、人間の性である。

更に、この訓練は、一度身に付けると、生涯に渡って、利用できる。更に、老化防止であり、健康維持でもある。

性と言うものは、欲望でありつつ、生きる営みである。
それは、生きるということを、楽しむ行為であり、性が、大いに、それに、貢献するということでもある。

悲しみを飲み込んだハノイへ。2と3の間

この原稿は、2と3の間に、入るものだった。
だが、突然のように、消えた。いや、私が、疲れているのだろうと、思う。書いたのだが、保存をしなかったと、思う。
実は、毎日、微熱が出る。
風邪かと思いきや、熱中症である。つまり、暑い国に出掛けて、慢性的になってしまったようである。
熱中症は、ただただ、水分を補給し、果物を食べることである。か、または、点滴を受けるかである。
私は、点滴の時間が、耐えられないので、水と、果物を食べる。
順番が、交わるが、許していただきたい。

翌日の朝、ホテルのフロントの男から、昼間は、気温が凄く高くなるといわれて、私たちは、朝のうちに、ハノイの街中で、支援物資を手渡してみようと、思った。

まず、男の子に、ミニカーを渡して、手応えをと、考えた。

早速、朝七時過ぎの、ハノイの街中に出た。
ホテルから歩いて、もう、すぐに繁華街である。

ホテルから、数分の場所に、ホアンキムエ湖がある。
そこを通った。
すると、周辺には、大勢の人である。
何をしているのかと、思いきや、体操、太極拳、ダンスなど、自由に、体を動かす人たちである。

この光景は、上海を思い出させた。
15年以上前に、一人で、上海に行き、バンド地区の、川べりで、皆々、太極拳などをしていたのを、思い出した。

さて、のんびりしていられないと、大聖堂を目指して歩く。

まず、物売りの男の子を見つけたので、早速、ミニカーを取り出して、差し上げた。が、その子は、受け取らないのである。
ノーと、言われた。

驚いた。
そんなことは、今までになかった。

次に、父親と、道端で食事をしていた、男の子に、渡した。すると、すんなりと、受け取ってくれた。父親が、サンキューと礼を言う。

次に、母親と、祖母と一緒にいた子に、差し上げるために、ミニカーを出すと、ノーと母親に言われた。祖母も、いらないと、首を振る。

はて、どういうことか。

更に、子供を捜して、渡してみた。
そこで、半々の割合で、貰う子、拒否する子がいた。

どうも、意味が解らない。
その意味は、後で知る。

私たちは、よく、歩いた。

ハノイの街中には、細い小路が、沢山有る。
その一つに、興味半分で入ってみた。

そんな小路の中でも、商売をしている人がいる。
行き止まりまで、歩いてみた。

すると、扉が開いている、建物に行き着いた。
その中に、入る。

雰囲気が違う。
普通の建物ではない。
壁一面に、何か書かれている。

人の名である。
なんだろうと、奥まで入る。
写真がある。焼香台がある。
つまり、納骨堂か・・・

いや、単なる納骨堂ではない。
戦死者である。皆、戦争で亡くなった人である。

そういう建物が、ハノイの至るところにあることを、後で、知る。

私たちは、そこから出て、元の場所に戻った。
くるくると、回ったような感じである。

それから、また、街中に入って、歩いた。
矢張り、受け取る子と、受け取らない子がいる。

不思議だった。
私の格好は、和服ではない。タイパンツを履いていて、単なる、おじさんになっているのであるが・・・

二人の子供を連れた、母親と、出会った。
そこで、ミニカーを出して、プレゼントというと、母親が、受け取ってくれた。

一時間ばかり歩いて、何となく、解ったような気がした。

子供だけがいる時は、受け取らないのである。

つまり、子供の判断では、駄目なのである。
傍に、大人、親、祖父母などかいて、了承しないと、子供は、受け取らない。
更に、ハノイの人は、人見知りである。

または、疑い深いのかもしれない。

人生には、そんな、上手い話はないのである。
それは、ベトナムの歴史を見れば、解る。
そして、長年の戦争である。

人を疑うのが、当たり前である。
ベトナム人は、ベトナム戦争で、同じ民族が戦ったのである。

当然、そういう気質が出来るだろう。

私たちは、随分と歩き、ここでの、支援は、難しいと、思った。
どんなに、貧しく、欲しくても、長上の許しがなければ、受け取らないのである。
それは、また、儒教の影響であろうか。

昔のベトナム文化は、漢字の文化であった。
何せ、中国の統治が、千年も続いたのである。

次第に、気温が上がる。汗ばむのから、汗が出るようになった。
そして、どんどんと、車と、オートバイの数が多くなる。
いよいよ、街が、活気付いてきた。

2009年07月01日

悲しみを飲み込んだハノイへ。5

橋のもと来た道を、戻り、またバスターミナルに、下りる。

手を振っていた、親子の家に、向かうために、市場に出た。
市場は、朝が、勝負で、その頃は、皆、休憩時間、あるいは、後片付けをしていた。

雨にぬかるんだ道を、あっち、こっちと、歩いて、親子のいた、方向を探す。

次第に、その場所に近づくと、匂いが強くなってゆく。
何の匂いなのか、解らないが、兎に角、鼻を突く。

スラムのように、立ち並ぶ家々の前に出た。
更に、その奥に向かう。

ようやく、コンクリートで出来た、長屋に出た。
それは、コンクリートで、長く建てられたもので、ただ、その中が、コンクリートで、仕切られている家だった。

まず、豚がいた。
家の前に、豚小屋があるのだ。
匂いは、そこから出ていた。

更に、奥に行くと、親子がいた。
手を振っていた親子である。
母親と、男の子、女の子である。

私は、早速、ぬいぐるみを、取り出した。
それを、素直に、喜んで受け取ってくれた。

母親に、衣服は、必要かと、衣類を取り出した。
母親は、頷いた。

そこで、私は、二人の子のサイズを、取り出して、渡した。
その間に、子供が、他の子供たちを、呼びに行っていた。
次から次と、子供たちが、出て来た。

その子供たちに、それぞれ、ぬいぐるみを渡した。
ここでは、抵抗なく、受け取ってくれる。

その間に、母親たちも、出て来た。
そして、いよいよ、衣服支援である。

皆、必要だと、言う。
私が取り出したものを、それぞれが、受け取る。
どんどんと、人が集まって来た。

私たちは、少しずつ、奥へと、入り込んで行く。
大人物も、取り出した。すると、それを、次々と手を伸ばして、受け取る。

どんどんと、奥へ入った。
皆、外に出て来た。

子供も、出て来る。
何か、お祭りのような騒ぎになった。

バッグに入っている物を、次々と、取り出すと、それぞれが、何か言いつつ、手を伸ばす。文具が出た時に、一人の母親が、何か言う。きっと、私には、子供がいて、勉強に必要だというようなことを、言っていると、感じた。

奥の最後まで、入った。
その先は、川である。

そして、再度、道を、戻った。
すると、一人のおばあさんが、出て来た。

何と、おばあさんが、出て来ると、皆、静かになった。
私は、おばあさんにと、バッグから、衣服を取り出した。
その時は、誰も、私の傍に来なかった。

おばあさんに、手渡すと、おばあさんは、何か、丁寧に、私に話し掛ける。
それは、何とも、威厳のあるものだった。
それで、理解した。

ここでは、目上、長上に対しては、絶対的、権威を、認めるのだと。

おばあさんは、すべての、インドシナ戦争を体験しているであろう。
言葉が、通ずれば、色々と話を、聞きたかった。

おばあさんの言葉が終わると、一人の若い男が、出て来た。
そして、私にも、何か、くださいと言う。
そのように、感じた。

そこで、彼に合うものを、取り出して、差し上げた。

すると、また、皆が、私に、近づいて来て、色々いと、バッグの中身を、探る。
必要な物を、探している。

私は、汗だくだった。
そろそろ、バッグも、空になってゆく。
もう、何も無いという、状態になり、皆が、落ち着いた。

私たちは、写真を撮った。
子供たちは、とても喜んでいる。
何か、特別なことが、起こったのである。
信じられないこと。

そう、私も、信じられないことである。
まさか、ハノイにて、このように、衣服を手渡すという行為である。
一体、一年前までは、考えてもいなかったことである。

最後に、手を振り、皆と、別れた。
また、来ますねと、言う私。

彼らは、何事が、起こったのかという、戸惑いもあったと、思う。前触れ無しの、考えられないこと。
それは、彼らの今夜の話題になるだろう。

私たちは、支援を終えて、元の道を、戻った。
ベトナム・ハノイの、衣服支援の様である。

2009年06月30日

悲しみを飲み込んだハノイへ。4

こいつは若い。カトリック右派が、どういういきさつでアメリカの傀儡政権の前衛集団になったかなんてことは知るまい。そういう役割がいかに売国的であるかということもわかるまい。こいつは何も知らんのだ。歴史を知らんのだ。知らぬままに、つまりだまされて、コマンドーなんかになって・・・三人もの娘殺しを手伝って・・・馬鹿! 哀れな奴!
歴史の中に住む人間に、歴史をあるがままに認識することはむずかしい。歴史生成の現場を見なかった人間には、それはますますむずかしい。嘘の歴史を教えられればなおさらのこと。こいつも、まあ、言ってみれば歴史の犠牲者には違いないが・・・・
だがキエンは、この若者も許す気にはなれなかった。若者の無知に、むしろ最大限の怒りを覚えていた。彼はその若いカトリックの男を冷たくつき放した。
戦争の悲しみ バオ・ニン

ハノイでの、支援物資の手渡しが、大変であるということを知り、部屋に戻って、今までにない、疲れを感じた。
後で、受け取らない意味を知るが、それが、まだ、解らない時であるであるから、疲れが倍増する。

更に、重たい気分である。

計画、変更。
よし、今日、追悼慰霊をしよう。
その場所は、日本で、決めていた。

ホン川にかかる、ロンビエン橋の上である。
ハノイと、ロンビエン地区を結ぶ橋は、北ベトナム軍の補給路だった。爆撃のたびに、補修を繰り返し、最後まで、橋は、生かされた。ベトナム戦争を勝利へ導いた、陰の立役者である。しかし、その被害も、甚大である。

下に川が流れるのは、慰霊に最適である。

更に、衣服を持って行く。
慰霊を終えて、差し上げる人がいれば、それを、実行する。

その日は、雨模様であり、曇り空である。
雨の上がるのを、待ちつつ、用意する。

これも、偶然であるが、実は、雨が降る前に、とんでもない、雷が、何度も落ちた。
最初は、その音に、ベッドから、飛び起きた。

どこかで、爆弾が破裂したのかという、大音響である。
それから、しばらく、雷が、響いた。

一度、朝早く、ハノイの街に、出てよかった。

雨は昼過ぎまで、続いた。

雷の音を聞いて、更に、今日の慰霊が、良いということを、感じた。
そのためな、来たのである。

三つのバッグを用意し、慰霊の準備をして、外に出た時は、雨が上がり、空には、しかし厚い雲が覆う。

タクシーを拾い、ロンビエン橋へと向かう。
そこには、バスターミナルもあり、市場もありと、人の流れかが、すさまじいばかりの、場所である。

10分ほどで、到着したが、今度は、橋の上に向かって、歩かなければならない。
更に、橋の上を、また、歩いて、慰霊に相応しい場所まで、歩く。

勿論、だらだらと、汗が流れる。
浴衣が、汗に浸る。

ロンビエン橋は、鉄道が通り、その両側を、バイク、自転車、人が通る。
しかし、いつ、落下してもおかしくない、恐ろしい、橋である。

丁度、中間に、慰霊すべくの、広い場所があった。
木の枝の一本を折り、御幣を作る。

そして、太陽を拝する。
と、薄日が差した。
まさに、ここにいる、というべく、太陽が姿を現す。

言霊、音霊による、清め祓いを、執り行う。
更に、御幣で、四方を祓う。

最後に、多くの死者の霊位に、私の慰霊の意志を伝える。
つまり、黙祷である。

更に、僭越ながら、引き上げたまえと、この地に、囚われる霊位を、引き上げて頂く。

おおよそ、20分程度の時間である。

すべてが、終わると、何と、太陽には、薄雲が、幾重にも、かかり、その姿を隠すのである。

執り行っている最中に、バイクが、接触して、転倒した。
私の行為を、見て走っていたのだろう。
怪我はなかったから、良かった。

浴衣を着た、日本人が、一体、何をしているのかと、疑問に思うのは、当たり前である。

さて、私たちは、元来た道を、戻った。

その途中である。
下を見ると、橋の、下に、長屋建ての、住宅のような建物があり、その真ん中あたりに、親子三人がいた。

手を振ると、手を振る。
そこで、私は、ぬいぐるみを取り出して見せ、今、そちらに行くと、身振りで、示した。
彼らの、笑い声が聞えた。

そこまで、行くのが、また、大変である。
橋を降りて、広い道路に出て、市場の中を越えて行くのである。

私たちの出掛けた時間は、市場が終わって、皆、休憩をしていた。
さて、どの方向なのかと、歩く。
迷いつつ、歩く。
行き止まり。
また、戻って、あの、建物のある場所に向かう。

悲しみを飲み込んだハノイへ。3

知らない人から、物を貰うな、である。
そして、物を貰うという判断は、親、大人の、許可がいるのである。
これは、儒教の教えである。

ベトナムは、千年に渡り、中国の支配を受けた。そして、その後は、フランスの、統治である。

戦争後、はじめて、ベトナムは、独立国家として、成った。
まだ、30年を過ぎたばかりである。

人の哀れみは、乞わない。
毅然として、姿勢を保つ。
そして、戦争に勝った国としての、誇りである。
ベトナム語の発音のゆえもあるが、背筋がまっすぐ通っている。

一時間ほど歩いて、本当に疲れた。
探りを入れつつ、手渡してみるのである。
拒否される時は、駄目だと、思う。

ハノイでは、支援をするのが、大変難しい。どんなに、欲しいと思っても、いらない、ノーという人がいるのである。
矜持、プライドである。

それを、まざまざと、見せ付けられて、私たちは、どこまで歩いたのか、解らなくなり、街の、コーヒー屋に入り、休んだ。

15000ドンのコーヒーである。
ベトナムコーヒーは、濃い、そして、苦さの中に、甘さがある。
最初、コータが、ミルク入りを注文したが、甘すぎる。
私は、コーヒーのみを、注文した。

それに、お湯を足してもらう。
兎に角、美味しい。

大勢の街の人と共に、コーヒーを飲んで、私たちも、町の人になる。
着物を着ていても、別段、騒がれないというのも、ハノイらしい。
結果的に、気が楽である。

居場所が、分からなくなったので、タクシーに乗ることにした。
タクシーに、二種類ある。
ミニタクシーと、普通タクシーである。
料金は、メーター制である。

初乗りが違うが、使い方を考えて乗るといい。
中距離は、普通タクシーがいいが、短距離は、ミニタクシーである。

ホテル近くで、降りた。

ホテル付近の様子を、何度も頭に入れた。
込み合っている街の中であり、非常に、紛らわしい道々である。

部屋に戻ると、異常な疲れである。

コータが、今までにないことを、言う。
今日、慰霊をしましょう、と、言うのである。

慰霊は、明日する予定である。

どうした
いや、何か、慰霊をした方がいいような・・・気がする、と言う。

私も、同じだった。

ベトナム戦争と、言うが、それは、実に複雑である。
アメリカとの、戦いは、第二次インドシナ戦争である。

サイゴンに、樹立した政権は、アメリカの傀儡政権であり、反共カトリック勢力指導者、ゴー・ディン・ジェムを大統領とするもので、ベトナム共和国政府を擁立した。

その結果は、北緯17度の暫定軍事境界線で、南北に分断された。

南の、ジェム政権は、ジュネーブ協定が予定していた、1956年の全国統一選挙を、拒む。
旧ベトナムの人々、反対勢力を、すべて武力で弾圧し、住民の八割を占める仏教徒を、露骨に差別する。
ベトナム労働党は、60年、平和的手段による、南北統一を諦め、ジェム政権の武力打倒を目指す、南ベトナム解放民族戦線を結成した。

第二次インドシナ戦争である。

これを、多くの人、ベトナム戦争と呼ぶ。
対米戦争である。

解放戦線は、多くの住民の共感を得て、ジェム政権を窮地に、追い込む。
さらに、63年、ジェム政権は、軍上層部のクーデターで、崩壊する。

すると、アメリカは、サイゴンに、次々と、無能な、軍事独裁政権を擁立し、それでも、敗北が必至とみると、65年に、直接軍事介入に、踏み切るのである。

南への、地上軍派遣と、北への継続爆撃である。

さらに、である。
タイ、フィリピン、オーストラリアなどの、アジア、太平洋地域の、米同盟国がアメリカ側に立って参戦する。
日本も、非参戦の西側諸国も、物心両面で、アメリカを、全面的に、支援した。

この戦争で、米軍の使用した、弾薬は、第二次大戦の、2,5倍の、爆弾だけでも、住民六人に、一トンが、投下されたという。

ベトナム全土は、枯葉剤を含む最新兵器の実験場となり、地形が変わるほど、焦土と化した。

南の農村と、海岸都市は、おおかた壊滅した。
南北住民の半数以上は、戦争難民となり、軍民の死者は、推定300万人、別の調査では、400万人以上である。
行くへ不明は、今なお、30万人。
アメラシアン、つまり、米越混血児は、30万人。
韓越混血児は、1万人。
売春婦は、サイゴンと、その周辺だけで、人口の一割を超える、40数万人である。

それだれではない、悲劇は、続く。
その後、米ソ、中ソの、二重冷戦を背景とする、第三次インドシナ戦争、ベトナム・カンボジア戦争、中越戦争、カンボジア武力紛争が、待ち受けていたのである。

2009年06月29日

悲しみを飲み込んだハノイへ。2

ハノイに出掛ける前に、泊まるホテルを、選び、予約していた。
私が、英語で、予約したのである。
なんとか、通じて、予約したのは、そのホテルが、一回だけ、無料にて、空港の送迎をするというからである。

だが、深夜到着する、ベトナム航空の、時間などが、伝わったのか不安で、コータに、再度電話をさせた。
それを確認しておいて、よかった。

はじめての、土地で、深夜に到着して、タクシーなどに乗るのは、実に危険である。
バンコクは、慣れているので、大丈夫だが、ハノイは、皆目検討がつかないのである。

さらに、ホテル料金は、ガイドブックの二倍の、28ドルである。
ガイドブックの情報は、古くなることが多々あるので、それで、決めた。

KIMURAと、パラカードを持つ男を、見つけて、安堵した。
迎えに来ていた。

タイと、同じく、ベトナムも、日本時間より、二時間遅い。

28ドルもするという、ミニホテルに泊まるのは、はじめてである。
バンコクでさえ、あの、スクンウィットの繁華街のゲストハウスで、500バーツ、約1500円である。

ハノイの街は、空港から遠い。
そして、夜なので、風景が見えない。
車は、次第に、田舎に向かっているように、暗い道を走る。
ホーチミンは、次第に、明るく、街に入るという、感じだが、ハノイは、違う。

ベトナムの首都である。
まさかと思いつつ、不安げに車の外を眺める。
しかし、コータは、大学時代に、一度ハノイに来ているので、平気である。

どんどん、暗くなるけど
大丈夫、街に向かっている、と言う。

車は、立派な日本車である。
運転手は、フリーのタクシーであった。ホテルからの依頼を受けて、仕事をしている。

忙しく、中々、彼女とも会えないと言った。それが、印象的だった。
つまり、仕事があるということだ。

街中に入っても、明かりは、それほどではない。
それに、高い建物は、無い。

北ベトナムの、中心であり、今は、ベトナムの首都であるが、そんな雰囲気は無い。

ホテルまでの道は、くねくねとして、中小路を通り、もう一度、通ることは出来ない、覚えられない道である。

細い通りに入り、ホテルに到着した。
後で知るが、その道も、ガイドブックに載るほど、有名な商店街であった。

フロントの男は、上半身裸でいた。
私たちが、入ると、急いで、シャツを着ようとしたが、私は、いいよ、いいよと、言ったので、そのまま、受付である。

しかし、チェックインをする前に、彼は、さて、何処に観光に行きますか、である。
ツアーの受付をするのである。

いやいや、私たちは、子供たちに、衣服を渡すために来たので、観光はしないと言うと、サンキューと言い、ようやく、パスポートを提示して、受付をする。

曰く、今部屋が、大きな部屋しかないので、そこに入ってください、そして、明日、部屋を、替わります、と言う。

本日のみ、特別扱いという、訳である。

案内された部屋は、五人が泊まれるほど、大きい部屋である。

そして、何と、私たちは、三泊、その部屋に泊まることになったという、幸運。
結局、部屋の移動はなかったのである。

エレベーターがないホテルの二階だったので、それも幸いである。

荷物を入れて、すぐに、食事に外に出た。
ホテル近くで、営業する、地元のレストランに出掛けた。

食べたのは、フォーである。
米の麺の、ベトナム名物である。
その店には、毎日、一度は、フォーを食べに行った。

そして、路上で売る、肉まんを二個買った。

ベトナム、ドンは、前回の時に、残してあったので、両替する必要はなかった。
今回、ドンは、安くなり、日本の一万円が、190万ドンである。
毎日、ドンは、安くなったから、得である。

ここで、整理しておくと、一万円が、190万ドン、千円が、19万ドン、百円が、1万9千ドン、10円が、1900ドンである。

私は、面倒なので、百円、二万ドンとして、計算した。

ペットボトルの水が、3000ドンからある。つまり、150円。
しかし、売り場によって、同じものが、3000ドンから8000ドンまであるから、迷惑である。

観光客と見れば、どこでも、ボルのである。
だから、コンビニに行き、本当の価格を知る。
だが、ハノイには、コンビニが少ない。

水は、安くはないが、他のものは、現地価格だと、安い。

チップの習慣はなかったが、次第に、チップというものの意識が芽生えていた。
チップを要求されるという、事態にも、遭遇した。

部屋に戻ると、すでに、日本時間では、深夜二時過ぎである。
だが、なかなか、眠られないのである。

悲しみを飲み込んだハノイへ

キエンはこの地域をよく知っていた。1969年、彼の所属していた第27歩兵大隊は、ここで敵に包囲されて事実上全滅したのだった。残虐、凄惨、非道といった言葉を絵にしたような戦闘だった。あの不運な大隊で生き残ったものは数人だけだった。
あれは、そう、乾季の終わるころだった。太陽は容赦なく屋根屋根をこがし、風が谷間に吹き荒れていた。
敵はジャングル一面にナパーム弾を投下した。地獄の火だった。炎の海が大隊を取り囲んだ。ちゃちな野戦用の塹壕は、ナパームの火に対しては無力だった。兵士たちは塹壕から出て散り散りに逃れようとしたが、ナパーム弾は残酷に彼らを追いまわした。
大隊長は危険を承知で彼らを塹壕の一角に呼び集め、敵のヘリコプターに反撃しようとした。だが、集まろうとした兵士たちは、炎の中でたちまち方向感覚を失い、多くはコブラ「米海兵隊の攻撃用ヘリコプター」の機銃撃に身をさらして死んでいった。
コプラは木々とほとんど同じ高さで旋回し、逃げまどう兵士一人一人を撃ち殺した。彼らの背中から血が噴出し、赤土のように流れるのが見えた。
大隊長は狂乱状態になった。彼は「降伏するより死ね、お前ら、死んだ方がいいぞ」と叫び、キエンの目の前でピストルを振りまわし、あげくに銃口を耳に当てて自分の脳味噌を吹き飛ばした。キエンは喉の奥で声にならない叫びを上げたが、大隊長の死体にかまっている余裕はなかった。空からの攻撃に続いて、米軍陸上部隊の攻撃が始まっていた。

あとで知ったことだが、米軍はその戦場の一角に焼け残った草木をダイヤモンドの形に刈り取り、そこへキエンの戦友たちの死体を高く積み上げたと言う。全身ばらばらで誰のものともわからなくなった死体。四肢を吹き飛ばされた死体。焼けこげた死体。
これも戦後にキエンが聞いたことだが、その場所の空は数日間、死体を食らおうとするカラスと鷹の群で暗くなった。ナパームに焼かれてジャングルの各所にできた湿地は、二度とジャングルに戻らなかった。一本の木も生えなかった。

戦争の悲しみ バオ・ニン

ベトナム戦争経験者である作者の小説である。現実を、小説の形にして、作品にした、見事な文芸である。
戦争のすべては、事実であり、そこに、ストーリーを、作為的に取り入れた。

ハノイは、北ベトナムの、中心であり、今は、ベトナムの、首都である。

北ベトナム軍は、アメリカを、ベトナムから、追い出した。
あらゆる、悲劇を飲み込んで、戦争に勝利した。
アメリカに勝った、唯一の国である。

しかし、その代償は、大きかった。

まさに、悲しみを飲み込んだ街、ハノイなのである。

前回の、ホーチミン慰霊と、衣服支援の旅日記に、私は、ベトナムの歴史を俯瞰して書いている。
今回は、戦争というものを、見つめつつ、この旅日記を書くことにする。

私は、戦争に反対する。
それでは、戦争のない状態とは、何と言うか。平和と言う。
では、戦争がなければ、平和なのかといわれれば、解らない。

しかし、平和を望むのならば、平和を打ち破る、戦争を知らなければならない。それでは、戦争とは、何か。
私は、戦争を知らない。
では、戦争を知る方法とは、過去の戦争の、記しを見ることである。
そして、戦争後の、その場の様子を見ることである。
さらに、戦争後に、人は、どのようにして、生きるのかということを、見るべきである。

誰も、戦争は、したくない。しかし、戦争は、起きる。何故か。それも、よく解らないのである。

30年前まで、ベトナムは、戦時下にあった。
つまり、私は、ベトナム戦争終結を、二十歳前後の時に、知っているということだ。
そんな、少し前のことである。

実は、上記の、記述は、米海兵隊の手記である、ペリリュー・沖縄戦記の記述にも多く、似たようにある、悲惨な情景である。

戦争とは、人が人を殺すことである。
しかし、単に、簡単に殺すのではない。
こちらが死ぬか、相手が死ぬか、どちらが死ぬのか、皆目検討がつかない状況の中で、起こる、実に、不気味な、そして、実に、無意味な、殺し合いなのである。
そして、その人々は、顔も知らない、全くの他人である。
個人的な、恨みや、憎みも無い。

それだけでも、恐ろしい。

そして、人類は、延々として、その、戦争というものを、続けてきているのである。

人の命が、木の葉のように軽く、扱われている様。
敵兵を、殺して、喜ぶ様を、どのように、理解すれば、いいのか、私には、解らない。

更に、殺した後も、敵の死体を、蹂躙する様。
人の命の、尊厳も何も、無い状態に、ただただ、呆然とする。

殺してからも、その死体の、その人間を、屈辱するために、行う、様々な、虐待である。
人間が、ここまで、残虐になるものなのか。

日本兵が、殺したアメリカ兵の、死体を遊び、ペニスを切り取り、その口に、詰め込む様などを、記されると、絶句する。
さらに、次は、アメリカ兵が、日本兵の死体を、切り刻むという。

一体、そこまでの憎悪が、何ゆえに、芽生えるものだろうか。

つい先ほどまでは、知らなかった人間である。
ただ、敵であるというだけで、どうして、そのような感情が、湧いてくるのか。

戦争とは、何か。

平和を求めるということは、戦争に反対することなのか。
そして、反対すれば、戦争は、起こらないのか。
全く、逆である。
どんなに、平和を叫んでも、起こるべき時には、戦争が、起こる。

さらに、平和を、求めれば、求めるほど、戦争の危険性が高くなる。
つまり、平和を叫ぶということは、戦争を前提にしているからである。
平和を、求めているように見えるが、それは、戦争を引き付けているのではないのかと、私は、考えるようになった。
戦争が、前提にある、平和は、実は、平和でもなんでもない。
平和遊びである。
無意識に、人は、戦争を望んでいるゆえに、平和を、叫ぶとしか、思えなくなった。

もし、本当に、平和を、求めるならば、戦争で亡くなった人々の追悼慰霊にしか、無いのである。

追悼慰霊が、唯一、戦争を回避させる、方法であると、私は、気づくのである。
そう、このような、慰霊を、行わなくても、いいことが、いいことなのであると。

2009年06月28日

もののあわれについて376

御帳の前に御硯などうち散らして、手習ひ捨て給へるを取りて、目をおししぼりつつ見給ふを、若き人々は、悲しき中にも、ほほえむあるべし。あはれなるふるさとごとども、からのもやまとのも書きけがしつつ、草にもまなにも、さまざま珍しき様に書きまぜ給へり。大臣「かしこの御手や」と、空を仰ぎて眺め給ふ。よそ人に見奉りなさむが惜しきなるべし。「古き枕古き衾、誰と共にか」とある所に

源氏
なきたまぞ いとど悲しき 寝し床の あくがれ難き 心ならひに

又、「霜の花白し」とある所に、

源氏
君なくて 塵積もりぬる とこなつの 露うち払ひ いく夜寝ぬらむ

一日の花なるべし、枯れて交れり。

御帳台の前に、硯などを置いたままになっていて、お書きになって、落ちたものを、取り上げて、目を、おししぼめて、ご覧になる。
若い女房たちの中には、それを、微笑んで見る者もいる。
哀れの深い数々の、言葉を、唐のもの、和のものも、書き流して、仮名書きや、漢字と、色々な書体で、書かれている。
大臣は、見事な、筆跡だと、空を仰いで、思いに耽る。
今後、他人として、接することが、残念である。
古き枕古き衾、誰と共にか、とある、所に

源氏
二人で寝た床から、離れにくいのが常となり、亡き魂も同じかと、思えば、更に悲しい

また、霜の花白し、とある所に

源氏
そなたが見えなくなってから、塵が積もってしまった、この床、涙の露を払いながら、幾夜、一人で、ねたことか

先日の、あの花なのであろう。枯れて、反古の中に、交じっている。


宮に御覧ぜさせ給ひて、大臣「いふかひな事をばさるものにて、かかる悲しきたぐひ世になくやはと思ひなしつつ、契り長からで、かく心を惑はすべくてこそはありけめと、かへりてはつらく先の世を思ひやりつつなむさまと侍るを、ただ日頃に添へて、恋しさの堪え難きと、この大将の君の、今はとよそになり給はむなむ、飽かず胸いたく思ひ侍りしを、朝夕の光り失ひては、いかでかながらふべからむ」と、御声もえ忍びあへ給はず泣い給ふに、お前なるおとなおとなしき人など、いと悲しくて、さとうち泣きたる、そぞろ寒き夕べのけしきなり。

大臣は、大宮、つまり、葵上の母親に、それを、見せて、言っても始まらない不幸は、置いておくとして、こんな悲しい話も、世間にはないでもない、強いて思い、親子の縁が長くなく、こんなに、心を悲しませるように、生まれてきたのだと、今は、死別のことより、前世の因縁を、恨めしく思うことにして、諦める。
ただ、日が経つにつれて、恋しさが堪え難いことと、この、大将の君が、これっきり、他人になってしまわれると思うと、たまらなく、悲しいことと、思われる。
一日、二日と、お見えにならないと、途絶えがちでいらしたことも、たまらなく胸苦しいと思ったことだが、朝夕の光なくしては、どうして、生きていけるだろう、と、声も抑えず、泣くのである。
御前にいる、年かさの女房などは、泣き出してしまい、なんとも、寒々とした、今宵である。

若き人々は、所々に群れいつつ、おのがどちあはれなる事どもうち語らひて、人々「殿のおぼし宣はするやうに、若君を見奉りてこそは慰むべかめれと思ふも、いとはかなき程の御かたみにこそ」とて、おのおの、人々「あからさまにまかでて、参らむ」と言ふもあれば、かたみに別れ惜しむ程、おのがじしあはれなる事ども多かり。

若い女房たちは、所々に、かたまり、お互いに、心を打つ話をする。
殿の、お考えの通り、若君のお世話をして、心を紛らわせるのがよいと思うが、それにしても、心細い、御形見ですと、言う。
それぞれに、少し里に、下りますという者もいて、互いに、別れを惜しみ、それぞれが、涙を流すのである。

源氏が、去った後の、大臣宅の様子である。
亡き人により、源氏も、家を出たのである。

他人といえば、他人である。

生まれた子供は、妻の実家で、育てられる。

いつの世も、人の死は、悲しい。
更に、子に先立たれる親は、更に、悲しい。
世の無常の習いに、平安期の人々も、悲しみ、苦しんだ。

人が死ぬ者であること、それは、人の確実な、定めである。
死というものを、いかに、捉えるかで、文化の基底が違う。

前世、来世という、考え方は、当時の、ハイカラな仏教、特に、浄土思想によるものである。
前世のえにし、因縁などという、言い方、考え方は、そのまま、仏教を取り入れている。

それは、今に至るまで、続く、日本は、仏教国といわれる。
仏、というものに、その人生の無常の救いを、見ようとした、平安期から、それ以後の、日本人の、無常観、死生観、そして、人生観である。

仏教伝来から、千五百年を経る。
果たして、仏教は、日本人の心象風景を、救ったのか。

心象風景である、もののあわれ、というものは、今も、厳然としてある。
言葉の、巧みさだけは、残ったが、基底にある、日本人の心情である、もののあわれ、の、心象風景は、何も、変わらない。

風吹けば、風に泣き、雨降れば、雨に泣く。

多くの別れの中でも、死別ほど、辛い、別れは無い。
この、別れを、どう、捉えるか。

それを、もののあわれ、という。

日本人の、心に響く、心象風景は、ただ、ただ、ものの、あはれ、にあるのである。

それを、表現するものを、日本では、芸という。
芸能である。
そして、それは、伝統である。

人は、伝統から、離れて、生きることは、出来ない。
無意識のうちに、伝統という、心象風景、もののあわれ、というものから、逃れることは、出来ないのである。

もののあわれについて375

宮のお前に御消息聞え給へり。源氏「院におぼつかながり宣はするにより、今日なむ参り侍る。あからさまに立ち出で侍るにつけても、今日までながらへ侍りにけるよと、乱りごこちのみ動きてなむ。聞えさせむもなかなかに侍るべければ、そなたにも参り侍らぬ」とあれば、いとどしく宮は目も見え給はず沈み入りて、御返りも聞え給はず。大臣ぞやがて渡り給へる。いと堪へ難げにおぼして御袖も引き放ち給はず。見奉る人々もいと悲し。


大宮のお前に、お手紙を差し上げた。
源氏は、上皇様が、会いたいと仰せられるので、今日、参上いたします。
少し出るとあっても、よくも、今日まで、生きながらえていたことと、悲しみが湧いて、ご挨拶を申し上げるのも、かえって、悲しいことでしょうから、そちらへは、参上いたしません、と、あるので、いっそう、大宮は、涙で目も見えず、泣き沈み、お返事も、申し上げない。
大臣が、急ぎ、お越しになった。
こらえきれない思いで、袖も顔から、離さない。
それを、見る人々も、たいそう悲しい思いである。

大宮とは、源氏の妻の、母。

大将の君は、世をおぼし続くる事いとさまざまにて、泣き給ふさま、あはれに心深きものから、いとさまよくなまめき給へり。大臣久しうためらひ給ひて、大臣「よはひのつもりには、さしもあるまじき事につけてだに、涙もろなるわざに侍るを、ましてひる世なう思ひ給へ惑はれ侍る心を、えのどめ侍らねば、人目も、いと乱りがましく、心弱きさまに侍るべければ、院などにもえ参り侍らぬなり。ことのついでには、さやうにおもむけ奏せさせ給へ。いくばくも侍るまじき老いの末に、うち捨てられたるが、つらうも侍るかな」と、せめて思ひ静めて宣ふ気色、いとわりなし。


大将の君は、亡くなった方の思いに溢れて、あれこれと思い出が、湧き上がり、泣かれる様子は、あはれに心深き、真実、心に深いものがある
それが、また、見た目美しく、優雅である。
と、それは、作者の言葉である。
大臣は、長い間、気を静められて、年を取りますと、それほどではないことでも、涙が出ます。その上に、涙の乾く暇もなく、悲しみます、この心を、慰めることができません。人の目にも、取り乱した、姿でございます。
院などへも、参上できませんので、何かのついでに、そのようなことで、申し上げてください。
余命の少ない、この老いの身に、子に先立たれたことが、辛いことです。
強いて、心を静めて、おっしゃる。
実に、切なそうである。

君も度々鼻うちかみて、源氏「後れ先立つ程の定めなさは、世のさがと見給へ知りながら、さしあたりておぼえ侍る心惑ひは、たぐひあるまじきわざになむ。院にも、有様奏し侍らむに、おしはからせ給ひてむ」と、聞え給ふ。大臣「さらば、時雨もひまなく侍るめるを、暮れぬ程に」と、そそのかし聞え給ふ。


君も、たびたび、鼻をかんで、生き残るのか、先立つのか、定めは、分からないという、この世の中の習いです。
しかし、事に、接して、知った悲しみは、例えようもないことです。
院にも、この様子を、奏上しましたら、ご推量くださるでしょう。
と、おっしゃる。
大臣は、では、時雨も、止むことがないようです。暮れないうちにと、促すのである。


うち見まはし給ふに、御凡帳のうしろ、障子のあなたなどのあき通りたるなどに、女房三十人ばかりおしこりて、濃き薄きにび色どもを着つつ、皆いみじう心細げにて、うちしほたれつつ居集りたるを、いとあはれと見給ふ。


うち見回すと、御凡帳の後ろや、襖の向こう、その他の、開いて、見通しになっている処などに、女房たちが、三十人ほど集まり、濃い色や、薄い色の、様々のにび色の、喪服を着て、皆、心細く、涙を流して座っているのを、あはれと、ご覧になる。


大臣「おぼし捨つまじき人もとまり給へれば、ひとへに、思ひやりなき女房などは、今日を限りに思し捨てつるふるさとと思ひくんじて、長く別れぬる悲しびよりも、ただ、時々慣れつかうまつる年月の名残なかるべきを、嘆き侍るめるなむことわりなる。うちとけおはします事は侍らざりつれど、さりともつひにはと、あいな頼めし侍りつるを、げにこそ心細きゆふべに侍れ」とても、泣き給ひぬ。

大臣は、お見捨てされないはずの、御子も、ここにいますので、いくらなんでも、ついでの際には、お立ち寄り、くださらないはずはないと、心を慰めています。
考えの浅い、女房たちは、この場所は、今日を限りに、お見捨てになるのだと、ひたすら、悲観して、永久の別れの悲しみよりも、今まで、お仕えしていた年月が、跡形も無くなくなるのであろうと、嘆いているようです。無理も、ありません。
ごゆっくりと、してくださることは、ございませんでしが、でもいずれはと、あてにならない事を、頼みにしていました。まことに、心細い、今宵ですと、言いつつ、涙が流れるのである。


源氏「いと浅はかなる人々の嘆きにも侍るなるかな。まことに、いかなりともと、のどかに思ひ給へつる程は、おのづから御目かるる折も侍りつらむを、なかなか今は何を頼みにてかは怠り侍らむ。今、御覧じてむ」とて出で給ふを、大臣見送り聞え給ひて入り給へるに、御しつらひよりはじめ、ありしに変わる事もなけれど、うつせみの空しきここちぞし給ふ。

源氏は、なんとも、浅はかな、皆様の嘆きです。
たとえ、どんなことがあろうとも、後々には、呑気に考えていた頃には、自然、ご無沙汰することもありましょうが、かえって、今は、何を頼みに、なまけましょうか。
今に、きっと、お分かりになります。
と、言いつつ、お出かけになるのを、大臣は、見送られて、部屋に入ったところ、室内の装飾などは、今までと、何も変わることはないが、何か、抜け殻のように、空しい気持ちになるのである。

源氏のいなくなった、空虚さというものを、描く。
亡き娘の死と、源氏のいなくなるという、無いということの、虚しさを、大臣を通して描く。

二重の、空虚というものを、描く。
それも、あはれ、というものの、風景である。
人生には、このような場面が、幾度かあるものである。