2008年05月14日

神仏は妄想である。83

タマリンがこの実験において導入した、面白い対照郡がある。168人の別のイスラエルの子供の集団に「ヨシュア記」からとった同じテキストが与えられたが、ヨシュアという名前が「リン将軍」に、「イスラエル」が「3000年前の中国の王国」に置き換えられていたのだ。すると、結果は正反対になった。つまり、わずか七パーセントだけがリン将軍の振る舞いを是認し、七五パーセントが不同意だった。言い換えれば、ここで得られた数字からユダヤ教への彼らの忠誠心を取り除けば、このイスラエルの子供たちが示した道徳上の判断は、大部分の現代人が共有する道徳上の判断と一致するのである。ヨシュアがしたことは、野蛮な大量虐殺という所業である。しかし、宗教的視点からはまったくちがったものに見える。そして、この区別は人生の早い時期に植えつけられる。大量虐殺を非難する子供と容認する子供のあいだのちがいをつくるのは、宗教だったのだ。
ドーキンス

宗教という、迷いがなければ、真っ当な判断が出来るのである。
しかし、宗教の観念が入ると、それは、邪になる。
つまり、判断基準を、宗教が洗脳するのである。

無いものを、掲げて、一体、宗教というものは、何を望んでいるのだろうか。
人間の救いを説くが、一向に人間を救うことないもの、さらに、人間を、愚昧の行為に走らせる宗教というものは、何か。

日本でも、一神教に似た、日蓮宗系の信者は、宗旨が違うというたでけで、嫌悪の表情になる。
宗旨が、違えば、親の仏壇にも、手を合わせないという、強情さである。
手のつけられない、傲慢な、連中となる。
同じ地域、町内に、住んでも、単に宗旨が違うということだけで、対立する。

その、あまりに単細胞化した、心の様には、唖然とする。

要するに、宗教団体の兵隊になっている状態なのである。
仲間に出来そうだと、見れば、その親切は、限りなくなる。
同胞には、天使であるが、そうでない者には、悪魔になるという、矛盾である。

ある大学に入学し、同じ研究グループにいた者たちが、一人のS会の会員に、折伏されて、順に会員になった。残った一人は、最後まで、それを、拒んだ。
すると、イジメが始まった。
ついに、大学にいられなくなり、退学した。
このような、話は、実に多い。
兵隊になった信者は、後先が見えない。ただ、上の命令に従うだけである。
我を失い、我ならぬ者に、指揮されて、行為する。

更に、驚くのは、選挙運動まで、功徳を積むものだと、言われて、選挙運動させられる者たちである。

宗教団体になると、タブーというものが、なくなるという、よい見本である。

信じてしまうと、支配者の思うままである。
こうして、人生を騙されて送るという、一連の哀れな人々がいるのである。
勿論、賢い人は、近づかない、また、賢い人の中には、支配者に、取り入って、利益を得るために、画策するという者もいる。

ハートゥングは論文の後半で、「新約聖書」に話を移す。彼の論旨を簡単に要約すれば、イエスは、「旧約聖書」において自明のこととされていたのと同じ、内集団で通用する道徳意識―――外集団に対する敵意と表裏一体のものーーーへの帰依者であった、ということになる。イエスは愛国的なユダヤ人だったわけだ。ユダヤ教の神を非ユダヤ教徒が取り入れるという発想をひねりだしたのは、むしろパウロだった。ハートゥングはこのことを、私なら躊躇しそうなあからさまな言い方でこう述べる。「イエスは、もしパウロがその計画をブタにまでひろげることを知っていれば、墓の中で吐き気を催していたことだうろ」。
ドーキンス

要するに、キリスト教神学というもの、パウロなしでは、有り得なかったということである。イエスの、教えが、神学となったのではない。パウロである。
強迫思想のパウロによる、神学である。
パウロが、理屈づけした、考え方を、教義として、掲げたのである。

ハートゥングは、「黙示録」の二つの節に注意を喚起する。そこでは「刻印を受けた」(エホバの証人など、一部の宗派は、それを”救われた”を意味するものと解釈している)人間の数は14万4千人に限られている。ハートゥングの論点は彼らはすべてユダヤ人だったにちがいないということである。12の部族それぞれから1万2千人ずつというわけだ。ケン・スミスはさらに踏み込んで、この選ばれた14万4千人は「女に触れて身を汚したことのない者」だったことを指摘する。このことは、おそらく彼らのうちの一人として女ではありえないことを意味する。まあ、これは予想される類の事柄である。
ドーキンス

ユダヤ人の神を、世界人類の神として、崇めるという、キリスト教の狂いというものが、何故起こったのかということである。
パウロという、一人の男の妄想からである。
最初、パウロは、イエス集団の迫害者だった。それが、いつしか、というより、聖書には、イエスが現れて、パウロを改心させるという、お話になっている。
初期、イエス集団を、取りまとめて、公広流布させるべくの妄想である。
彼から、異教徒への、布教が始まった。
聖書は、内集団特有の道徳意識の青写真であり、外集団の虐殺と奴隷化、および世界支配のための指示といった必須要素が完備されたものだ。しかし聖書は、そういった目的をもっているから、あるいは殺人・虐待・強姦を賛美することまでしているから邪悪なのではない。それを言うなら、多くの昔の著作はみんなそうだーーーたとえば、「イーリアス」アイスランド・サガ、古代シリアの物語や、古代マヤの碑文などを見てほしい。しかし、「イーリヤス」を道徳の手本として売りこんでいる人間は誰もいない。そこに問題がある。聖書は、人々がどう生きるべきかの手引きとして売り買いされている。そしてそれは、世界でつねに郡を抜いたベストセラーなのである。
ハートゥング

ドーキンスは書く。
伝統的なユダヤ教徒がもつ排他性が宗教のなかで特異なものだと思われてはいけないので、英国の作詞家、アイザック・ワッツの賛美歌から確信に満ちた次の一節を見てみよう。
主よ、私はそれを、あなたの恩寵のゆえとします
偶然のせいにはしません、ほかの人間たちのように。
私がキリスト教徒の人種に生まれたことを
異教徒やユダヤ教徒の人種に生まれなかったことを。

すさまじい、独善である。
こう考えて、いる人と、どのように、話し合いが出来るだろうか。

この一節で私を困惑させるのは、そこに現れた排他性そのものというよりも、その論理である。他の多数の人がキリスト教以外の宗教のなかに生まれたのだから、神は、本来においてどの人種がそのような恵まれた生を受けるのかを、どのようにして決めたのか? なぜ神は、アイザック・ワッツと、彼が自分の賛美歌を歌っていると思い描いた人々に恩恵を与えるのか? いずれにせよ、アイザック・ワッツが受胎される前は、いったい何に対して恩恵が授けられたのか? これらは深刻な問題だが、神の声に耳を傾ける精神にとっては、それほど深刻ではないかもしれない。ワッツの賛美歌は、正統派で保守派(改革派ではない)の男性ユダヤ教徒が暗唱するように教えられる三つの日々の祈り、「私をキリスト教徒にしなかったことであなたを祝福します。私を女としなかったことであなたを祝福します。私を奴隷にしなかったことであなたを祝福します」を思い起こさせる。
ドーキンス

本当に、吐き気がする。

神仏は妄想である82

ハートゥングの聖書解釈が示すところによれば、聖書はキリスト教徒のあいだにおけるそのような独善的な自己満足に、何の根拠も提供しない。イエスは自分によって救われる内集団を厳密にユダヤ人に限定しており、その点で彼は「旧約聖書」の伝説を継承しているのであって、それが彼の知っていることのすべてだった。
ドーキンス

それは、私も、そう考えた。
二千年前の、あの地方の世界の情報が、如何なるものであるかを、知ることである。世界という、意識が、どのようなものであったのかをである。

当時のユダヤは、ローマの属国である。
ローマの、情報を得て、細々と、ユダヤ人は、ユダヤ教を信奉して暮らしていた。実に、偏狭な教えに、縛られていたのである。
どのような、情報が、もたらされるのか。
その中での、イエスの宣教である。

最初、イエスに従った者たちは、イエスが、ローマからの独立を目指す、指導者になると、信じていた。
その程度である。

そして、ハートゥングは「汝殺すべからず」というのはもともと、現在の使われ方とはまったく異なった意味で用いられていたということを、明快な形で示す。つまり、それは非常に特異的に、汝ユダヤ人を殺すべからずということを意味していたのだ。そして「汝、隣人を」と言及されたあらゆる戒律は、同じように排他的なものだった。「隣人」というものは仲間のユダヤ人を意味するのである。12世紀の高い尊敬を受けていたラビで医師であったマイモニデス(モーシェ・ベン・マイモーン)は、「汝、殺すなかれ」が厳密にはどういう意味であるか次のように解説している。「もし、誰かが一人のイスラエル人を殺せば、彼は禁止命令に違反したことになる。なぜなら、聖書は汝、人殺しをするなと言っているからである。もし誰かが目撃者のいるところで故意に殺人をなせば、彼は刃にかけて殺されることになる。言うまでもないことだが、その人間がもし異教徒を殺したのであれば、殺されることはない」。言うまでもない、ときた!
ドーキンス
ハートゥングとは、進化人類学者である。

驚くべき、頑迷であり、明確な、蒙昧である。
イスラムと、同じようなことを、言う。
異教徒は、殺せ、である。

更に、キリスト教徒は、未開の部族、キリスト教徒ではない、民族を、人間とは、思わないという、仰天である。

イギリスは、植民地時代、アフリカの黒人を、奴隷として、アメリカ大陸に送った。
アメージング・グレイスという歌は、その、奴隷船の船長が、罪悪感を痛切に感じて、聖職者になり、作った歌である。
今では、民謡のように、黒人霊歌のように、歌われている。

罪悪感を感じて、聖職者になるという、ズレた行為であるが、事実である。

この章は、「よい」聖書と移り変わる「道徳に関する時代精神」というテーマである。

結果的に、ドーキンスは
宗教を信じようと信じまいと、私たちの道徳心は聖書とは別の源泉からやってくるのであり、そしてその源泉というのは、それが何であれ、宗教のちがいや宗教をもたないことにかかわりなく、私たちの誰もが手にすることのできるものである。
と、言う。

宗教による、と、思われている、道徳感覚は、実に、偏狭なものであり、それ自体が、歩き出すと、宗教の違いで、大きな、摩擦、あるいは、紛争、闘争を伴うものである。
人類は、宗教ではなく、別のもの、を、道徳の源泉として、知るものである。
ドーキンスは、それを、言う。

それは、進化の過程における、生き延びるための、方法だった。
何のことは無い、実に、単純明快なものである。

道徳の、一つの側面として、礼儀作法というものがある。
それを、一つとっても、その地域、その国の、伝統や、習慣、慣習による。そして、それによって、摩擦はあっても、互いに知るということで、摩擦を、避けることができるのである。しかし、宗教によれば、それは、戦いに成る。

一歩も、譲ることのない、宗教というものの、愚昧で、偏狭な教義では、最早、平和裏に事を行えない。

宗教間の、対話という、茶番が、時々行われて、理解を深め、互いに、尊重しあうということが、まことしやかに、行われるが、単なる、世間へのアピールに過ぎない。
そんなことが、本気で、行われることはない。

それが、行われれば、こんな事態にはなっていないのである。

宗教から、抜け出すというのは、麻薬中毒の人が、麻薬から抜け出すのと、同じ程度に、大変なことである。

一見して、平和的に見える、宗教団体の活動も、すべて、偽善である。
それは、道徳的でも、平和的でも、無い。
単なる、宗教の宣伝である。
それも、実に、心の狭い、教義に絞られたものである。

ドーキンスも、言うように、生きるための、ある情熱の誤作動による、信仰という行為を、軌道修正して、人間の知性と、感性を育て、理性により、行為するという、人間教育が必要である。
それは、まず、疑うこと、考えることから、はじまる。

価値観の、先入観を取り除くという、実に、大胆な手術が必要である。

先入観とは、神仏が、存在するという妄想である。

キリスト教徒は、虚心胆管に、聖書を読むということが、大事である。
そして、聖書を、検証すべきである。

教会の教えではなく、自分で、読んで考えるべきである。

ちなみに、信じるということから、発する行為は、愚昧である。

聖書というのは、旧約や、新約と言われるように、契約のことである。
神との、契約なのである。一見、何事もないように、思えるが、契約とは、取引である。何と何を、取引するのであろうか。
相手は、悪霊である。

神というものは、神と、名乗ることはない。神は、いないからである。

2008年05月13日

神仏は妄想である81

私はここまで、キリスト教の中心教義である贖罪が悪質で、サドマゾヒズム的で、不快なものであると述べてきた。それがあらゆるところに身近なものとして存在し、私たちの客観的なものの見方を曇らせてきたということさえなければ、狂人の遠吠えとして片付けてしまえたかもしれない。もし神が私たちの罪を赦したいと望んでいるなら、なぜ、その代償として自分が拷問を受け、処刑されたりせずに、ただ赦さなかったのか。ついでに言えば、神がそんなことをするから、ユダヤ人のはるか未来の世代までも、「キリスト殺し」として虐殺と迫害を受けるべく運命づけられてしまったことになるのだろう。この連綿と受け継がれる罪も、精液を通じて子孫に伝えられるものだと言うのか。
ドーキンス

実際、イエスの、原始キリスト教とは、ユダヤ人のイエスキリストであった。
しかし、それが、ユダヤ人のキリスト教徒は、皆殺しされて、ローマカトリックが、正統とされた。
勿論、権力によってである。
ドーキンスも、後で言うが、イエスの教えは、ユダヤ人に向けてのものである。
隣人愛という、教えも、ユダヤ人に、与えられたものである。
それが、何故、こんな、歪な世界宗教になったのか。
すべては、フランク王国時代からの、いや、それ以前からの、ゲルマン人の野蛮さによる。

彼らは、インド大陸においてさえ、インドの伝統と、宗教を徹底的に、壊して、滅茶苦茶にしたのである。
バラモンなどは、彼らからのものである。
野蛮極まりない教えである。

大航海時代に、野蛮な彼らは、キリスト教の十字架を、未開の地に、掲げて、その土地の民族を皆殺しにして、平然と、侵略行為を行い、我らこそ、神に選ばれた者であるという、実に、傲慢な意識で、好き放題にやったのである。

イエスが、ユダヤ人ではなく、白人に、変容させたのも、彼らである。

イエスは、ユダヤ人である。


パウロは、・・・・
血を流さずして贖罪はないという古いユダヤ教的な神学原理にどっぷり漬かっていた。実際、彼は「ヘブライ人への手紙」において、それに等しいことを言っている。だが、今日の進歩的な倫理学者は、いかなる種類の応報刑論も擁護しがたいものであると考えており、とすれば、罪人の犯した罪の代償として無実のものを処刑する、いわゆる身代わり説などは論外ということになる。いずれにせよ、神はいったい誰のためにアピールしようとしていたのか。(という疑いを禁じえない)? おそらく彼自身であろうーーーなにしろ彼は、処刑される犠牲者であると同時に、判事でも陪審員でもあったのだ。挙句の果てに、原罪に手を染めた張本人と想定されているアダムは、そもそもけっして存在しなかった。この、なんとも無様な事実―――パウロが知らなかったとは仕方が無いが、全能の神(そしてもしイエスが神だと信じるならばイエスも)おそらく知っていたーーーは、このもってまわった、胸くその悪くなる理論全体の前提を根本的に突き崩すものである。
ドーキンス

これで、キリスト教の根本教義は、成り立たなくなる。
全人類の罪の贖いによる、十字架というもの、である。

キリスト教徒は、本当に、聖書というものを、読んでいるのか。
読んではいない。
旧約聖書から、真っ当な感覚で、読み進めば、その、知性と理性によって、おかしいと、気付くはずである。
要するに、惰性と、習慣、慣習によって、成り立ったもの、それが、キリスト教である。
だが、それは、手加減して言うことである。

すべては、教会という、お化けが、人を支配するために、掲げた、教えである。

ローマが、突然のように、キリスト教を、国教と、公認したのは、皇帝の支配に善しとしたゆえである。更に、ローマに、教会を建てた、カトリックは、皇帝と結んで、人の心の支配を、確実にした。

そして、そうだ、もちろんアダムとエバの物語は、象徴的なものでしかなかったはずだーーーあくまで象徴的な。ということは、自分自身にアピールするために自らを拷問し、処刑したイエスは、実在しない個人が犯した象徴的な罪のために、身代わりとして罰を受けたことになるのだろうか? 何度も言うようだが、これは狂人のたわごとであるだけではなく、不愉快この上ない言い草である。
ドーキンス

真っ当な、神経の者から、見れば、こういうことになる。

カトリック教会のみならず、すべての、キリスト教徒に言えることだが、信仰は、極めて個人的行為であるから、信じるというならば、言うことは無い。
ただし、それを、喧伝する、更に布教する、そして、宣教ということになれば、多くの混乱を、引き起こすこと甚大である。
聖書を、読むというのは、他人には、趣味のようなことである。

自分の趣味を、人に押し付けるような、無礼な者は、いないであろうが、いるとするならば、それは、僭越行為以外の何物でもない。

全く、悪魔のような、神の思想と観念であること、真っ当な者ならば、知る。
いや、悪霊としか、いいようがない。

イエスが、悪霊に支配されていた、ということも、有り得るのである。
自作自演の、大芝居ならば、拍手を送るが、それを、正しい教えであり、人類を救うというのならば、認められない。

人間は、救われる、必要も無ければ、更に、仏教が言う、仏に成ることも無い。
人間は、人間であれば、いいのである。

救われるという、妄想、神の存在の妄想、果ては、仏に成るという、妄想は、如何に、人生が、暇つぶしであろうと、あまりに、愚かである。
何故、天国に入る必要があるのか、何故、仏に成る必要があるのか。

知恵を、得ることは、大切なことである。
それが、霊的能力を、目覚めさせるというなら、解る。
それが、生きるということを、肯定するというなら、解る。

旧約聖書、箴言の書に、神を恐れることは、知恵のはじめ、とある。
神という、妄想を、想定しなければ、考えることができないというほど、妄想の観念に、やられてしまうということ、である。

「旧約聖書」「新約聖書」の両方で一見推奨されているように見える、他者に対する道徳的配慮の多くが、もともとは非常に限定されたもので、そこに属する個人が帰属意識をもちやすい、いわゆる内集団に対してのみ適用されたものであったことを、キリスト教徒はほとんど認識していない。「汝の隣人を愛せよ」は、私たちが現在考えているようなことを意味するものではなかった。それは、「ほかのユダヤ人を愛せよ」という意味でしかなかったのである。この点は、アメリカ人の医師で進化人類学のジョン・ハートゥングによって、衝撃的な形で論証されている。彼は、内集団の道徳の進化と聖書における変遷について、その裏の側面―――外集団への敵意―――にも重点をおきながら、一つの注目すべき論文を書いたのだった。
ドーキンス

次に、この、ジョン・ハートゥングの論文を、見る。

もののあわれについて207

末法思想が、もののあわれ、に与えた影響は大きい。

永承七年、1051年から、末法の世に入ると、言われた。
仏陀滅後、正法が、保たれ、続いて、像法の時代が来て、仏法は衰退し、末法の時代に入ると、人心荒廃して、修行をしても、徴しなく、つまり、仏法が消滅すると言われる。

それは、藤原の衰退期に、合う。だが、政治的なことではない。
一つの観念に、覆われると、見るもの、そのように、見えるのである。

一つの信仰の、危機意識を促すものであろうと、思うが、末法思想は、人々を、抑鬱に、満ちたものにしたようである。

1999年に、世が終わるという、ノストラダムスの預言のように、扱われたのかもしれない。
暗黒の世が始まる予兆である。

そして、それから、中世へと、時代は移行する。

宿世のあわれから、さすらい、という、心象風景に移行してゆくのである。

ここでは、歴史を、解説するものではないから、省略するが、中世に向かうということでは、まず、藤原の栄華と、衰退、源平合戦、平泉の壊滅、鎌倉幕府の成立、乱世といわれる、時代を抜けてきたのである。が、続く時代も、また、乱世である。

もののあわれ、というものの、推移を歌道でみると、藤原俊成、そして、西行に代表されると、思われる。
新古今と、山花集である。

女房文学は、姿を消す。だが、その美意識を、歌道は、受け継ぐ。そして、もののあわれ、というものも、受け継がれる。

末法思想により、人々は、更に、阿弥陀の本願にすがるしかないという、気持ちになっていった。
念仏の救いを、信じて、またそれは、自らが、どうすることも出来ない、救いというものを、阿弥陀の本願を信じるということで、解決するというふうに。
一般の人々には、それ以外の方法が無いのである。

他力信仰の誕生である。
それが、法然、親鸞に受け継がれて、絶対他力と、呼ばれるようになる。

源信の場合は、まだ、自力の要素があったが、法然になると、「疑いながらも念仏すれば、救われる」そして、親鸞になると、念仏申さんと、欲する時、すでに、弥陀の救いの中にあるという、妄想が生まれる。

信仰の内面性というが、また、思索の深さと言うが、妄想である。

救われがたい者という意識が、ただ、念仏によってしか、救われないという、境地に達する。

末法は、人の心を、鬱々とさせたといえる。

彼らは、もののあわれ、というものを、抱く大和心に、更に、進んで、あわれ、と儚さ、そして、たゆたいと、さすらう、人の心に、入り込んだ信仰を、創造した。

だが、歌道は、それでも、もののあわれ、というものを、見つめ続けていた。決して、念仏に、すべてを、委ねることはしない。
出家した、西行も、僧形を、取ったが、歌を詠む心は、大和心である。

この、仏教における、末法思想の只中で、新古今集、そして、西行の歌が輝く。

だが、私は、和泉式部日記から、一足飛びに、そこには、行かない。

源氏物語の、作者である、紫式部の歌を、読み、もう少し、もののあわれ、というものの、心象風景を、深めたい。
もののあわれ、における、美意識というものも、そこにはある。
物語は、語られるが、歌は、あまり知られていないゆえに、取り上げることにする。

そして、源氏物語に、入ってゆく。
そこに、もののあわれ、というものの、一つの定義が、示される。
そこから、更に、進んで、新古今と、山花集を、読む。

中世から、戦国時代に至る道は、また、人々の心を、抑鬱とさせる、時代であり、時代性といえる。

紛争、戦争の地では、多くの人が、抑鬱反応を、示すことを、知らない。
アフガンや、イラクなどでは、不眠や、抑鬱で、精神不安の人が多い。
一つの精神安定剤、睡眠薬、睡眠導入剤があれば、救われる人がいるということは、知られていない。

乱世は、また、抑鬱の時代である。
うつ病は、今にはじまったことではない。
平安期の、退廃した貴族社会の、抑鬱から、乱世の中に生きる人々の抑鬱は、薬のなかった時代、何かにすがるという意味では、念仏の効果は、大きかったと、思える。

そんな中でも、美意識としての、もののあわれ、というものを、見つめ続けた人もいるのである。

日本人の精神が、もののあわれ、というものに、貫かれていたといえる。
その、時代性、時代精神に、合わせて、もののあわれ、というものは、表現された。

華やかな、江戸元禄でも、もののあわれ、という心象風景は、表現された。

室町期は、現在言われる、日本の伝統文化誕生の時代であるが、そこでも、また、もののあわれ、というものが、表現された。
能、茶の湯、いけばな、等々によってである。

戦乱の世、戦国時代でさえ、安土桃山として、もののあわれ、は表現された。

そして、江戸太平の世でも。
更に、明治維新による、世でも。

日本人は、絶えず、もののあわれ、という、心象風景を、持ち続けた民族である。

取り急ぎ、精神的時代背景を、眺めて、みた。

歌の世界では、短歌、俳句という、定型に行き着き、そして、不定形な、短文の歌が、登場した。
山頭火や、尾崎方哉である。
その、心に、一にして、通じているものは、もののあわれ、というものである。

2008年05月12日

もののあわれについて206

さて、空海の次には、浄土思想を、取り上げた、源信である。
往生要集は、寛和元年、985年の作である。

無常観と共に、厭離穢土という、観念と、そこから、欣求浄土という、観念が生まれる。
この、浄土思想が、女房文学の中に、表現されてゆくのである。

浄土思想は、当時の知識階級の、不安を、そのまま、受け止めたと、思われる。
何故、不安なのか。何が、不安だったのか。

私は、平安貴族の平和ボケだという。
頽廃した生活を送り、危機意識皆無の状態であり、なおかつ、何か、先の知れない、不安感というもの。
実は、現代に続く、抑鬱の状態を、この頃から、持ち合わせていた。

女たちも、男の愛を、ひたすら待つという、状態の中で、いつ来るのか解らない男を、待ち続けという、不安と、倦怠である。

それなのに、仏教では、何かしら、危機意識を、煽る。
その典型が、源信の、日本版、死者の書とも、言える、往生要集であった。

極楽への、往生を願うという気持ちは、飛鳥時代から、あったといわれる。
ここで、成仏と、往生の違いである。

実に、仏教の、成仏と、往生は、面倒な話である。
成仏するのか、往生するのかという、観念に、嵌めて、要するに、脅しである、それで、信仰を、強要するという、脅しである。

早々簡単に、成仏など出来るものではないと、知る者が、往生を唱えた。それが、浄土思想である。

あわれ、という、心象風景が、変質してゆくのが、この、浄土思想である。
あわれ、に、無常観を、伴うという、病理と、私は言う。

病むことを、浄土思想は、求めたのである。
それが、厭世観である。
要するに、この世は、汚辱に、まみれているという、考え方である。
汚辱に、まみれているから、この世というのであるが、当時は、新鮮な思想だったといえる。

更に、それに、拍車を掛けたのが、末法思想である。
これも、どうかと思うが、観念である。
1052年が、末法の初年と、言われる。一体、誰が決めて、誰が、それを、証明するのか、全く根拠がないが、未だに、仏教家たちは、末法と掲げている。
実は、末法とは、仏陀の教えが、無に帰すといわれるのである。
そうであれば、常識として、仏教壊滅であろうが、未だに、仏教と、喚いている辺りは、アホとしか、思えないのである。

さて、源信の、往生要集である。
「往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賎誰か帰せざるものあらん。ただし顕密の教法、その文一にあらず、事理の業因、その行これ多し。利智精進の人はいまだ難しとなさず。予がごとき頑魯の者、あにあへてせんや。この故に念仏の一門によっていささか経綸の要文を集め、それをひらいてこれを修せば、覚り易く行じ易からん」
との、書き出しである。

内容は、厭離穢土、欣求浄土、極楽の証拠、正修の念仏、助念の方法、別時の念仏、念仏の利益、念仏の証拠、往生の諸行、問答料簡、である。

つまるところ、死ぬ準備のための、ものである。
当時としては、画期的な書き物であった。

それはそれとして、善し。文学としては、非常に面白いが、それをもって、信仰を、特に、念仏行を云々ということになると、どうであろうか。

さて、深入りすることは、出来ない。
そこに、もののあわれ、というものが、何がしか影響を、与えたのか、与えられたのか。

もののあわれ、という心象風景を、持つ者、この、往生要集に、少なくても、曳かれたであろう。

新たな、救いの道のような、ものとして、現れたのである。
もののあわれ、の心象風景に、蔭を落とした。
万葉の、古今の、もののあわれ、を、更に、深めたのか、変節されたのか、いや、心を病むことにもなったと、思える。

それが、思想の深みに、至ったともいえるが、余計な観念を、植え付けられたとも、言える。

しかし、この、厭離穢土、欣求浄土は、戦国時代、いや、第二次世界大戦まで、続く、日本人の潜在的意識にまで、なったと、思える。

変な、話である。
この世を、厭い、この世に生きるというのであるから。
だから、死後は、極楽浄土にと、思うのだと、言われてみれば、それもそうだが、観念である。

しかし、確実に、もののあわれ、というものに、影響を与えた。

否定できない。

実際、厭離穢土とは、源信の書では、地獄の様を、描いているのである。
それが、また、非常に鮮明に描かれて、多くの人に、無用な恐れを抱かせた。現代でも、これを、そのままに、利用する者がいるが、想像力のものである。
ダンテの、地獄篇のようなものである。
芸術家の、想像力は、歓迎するが、宗教家の想像力は、迷惑である。

先に進むが、結果は、もののあわれ、に、怪しい蔭を落として、やや、歪んでくるのである。

これを、突き進んで、更に、もののあわれ、というものを、見つめてゆきたいと、思う。

ちなみに、源信から、法然へ、そして、親鸞へと、念仏の道は、進む。
鎌倉仏教へと、受け継がれるのである。

王朝の危機感は、女房文学の場合、主として無常感、宿世の思い、念仏の心として描かれるだけである。地獄の和風的表現などみあたらない。色好みに生ずる罪の自覚はあるが、刀葉林のような強烈であくどい描写を好まず、また罪をあのようなかたちで確認することへの嫌悪があったのだろう。或いは「神ながら」の「祓」の形式が、なお根強く存在し、仏教的罪悪感情のなかに混在していたことも考えられる。
亀井勝一郎 日本人の精神史

古代日本人の、死生観は、死者の霊は山に帰り、空に上る。または、海に帰る。
万葉の挽歌にあるように、言葉によって、霊を、清め祓うのである。

明確な、死後の世界の意識は、無いが、追悼慰霊の深い思いは、ある。
それが、たゆたい、となり、あわれ、となって、心象風景を作るのである。

源信の書は、漢語の影響大である。
ひらがな、では、あのような世界を描くことは、難しい。

一つ、残念なことは、仏教によって、
死と死後の観念が生まれたことにより、挽歌を詠むということが、なくなったことである。
これは、実に、ゆゆしきことである。

この、仏教における、追善儀礼なるもの、新しい、魂鎮めの行為になったと、亀井勝一郎は言うが、それは、甚だしく、勘違いである。
歴史としては、そのように、見えるが、実際、それにより、魂鎮めは、行われないのである。

単なる、気休めである。
そう、仏教というもの、単なる、気休めなのである。

もののあわれについて 205

空海における、もののあわれ、というものの、感覚は、如何なるものだったのかと、考える。

創造者としての、空海は、大和心というものも、自身の信仰形態の中に、取り入れた。
その一つは、「和歌はこれ陀羅尼なり。唯だ心の動くところらしたがって陀羅尼を詠ず。これ阿字の本分なり」という。
陀羅尼は、真言の、極めであり、呪術である。

漢語にも、日本語にも、訳すことが、出来ない、梵語の呪である。
阿という字は、梵語の根源といわれ、一切の文字の母とされる。
和歌が、阿字の、本分というところに、空海は、落ち着いた。

言霊の和歌である。
つまり、神ながら、という、世界である。
この、大和心との、統一を、空海は目指した。
実は、空海は、神道も、自身の宗教体系に、取り入れたいという、欲求があり、神道修行もしている。
仏道宗教だけでない。雑修と、言われる。
修験道などは、それである。

神仏混合と、言われる。
だが、それは、便宜上のものであり、神の道は、神の道であり、仏の道は、仏の道である。
いずれ、本地垂迹という、考え方が生まれるのだが。
神は、仏の化身であるというものである。

大日如来と、天照大神を、結びつける。

そして、もう一つの、空海の、もののあわれ、に関する言葉である。
能く迷い能く悟る よくまよい よくさとる
これは、大和言葉の、たゆたい、である。

大和言葉の、言霊を、自身の語密に、結びつけた。

密教の、実践は、祈祷と、修法である。
そして、修法とは、印実を結ぶという、指で様々な形を、表すものであり、真言を唱え、三昧の境地に没入するということである。
これで、成仏という、境地に達するという、空海の、オリジナルである。
その、是非は、今は、問わない。

仏という、強烈な、印象を持った対象を、描いて、それに、成りきろうとする。実は、仏とは、誰も知らない、存在である。
それを、このようであると、断定した。
それは、後の、浄土教の考え方にもある。
仏になれない、この身であれば、弥陀の本願に頼るという、他力である。

いずれにせよ、時代性を、反映する。

空海に、おける、もののあわれ、というものは、その野心に、隠されて、中々理解しずらいものがあるが、和歌を、真言といい、よく迷いよく悟る、などという、言葉には、大和心を無視できなかったのである。

大和心と、断絶したものではないと、言いたかったのであろう。

前回も、言ったが、空海は、天才である。
その創造力は、他を圧する。
宗教的天才というより、芸術的天才と、私は、思う。
曼荼羅の中に、すべての、存在を認めた。

だが、ここで、一つだけ、空海は、付け加えて、体系を作るが、大和心は、削り取って、ゆくという、相違がある。

空海の、密教は、インドバラモンの、行法に、大和心を、加えたものである。
そういう意味では、新である。
彼は、独自の宗教体系を、創造したのである。

平安初期の画期的な、言動であったが、それは、奈良に入っても、揺るがないほどである。
以後の、宗派にも、その芸術美術的装飾の影響を、与え続けた。

当時の人に与えた、影響は、計り知れない。

それでは、和歌を、真言と言う空海の、密教に、和歌の世界は、影響を受けたのだろうか。
もののあわれ、という、情感と、心象風景に、影響を、与えたのかといえば、無い。
和歌は、その姿を、変えずに、別の道に進むのである。

決して、空海の、密教により、和歌は、変質も、変節もしなかった。
もののあわれ、は、厳然として、揺るがない。

たゆたう心も、それを、よく迷い、よく悟りと、言うが、変わらないのである。矢張り、たゆたう、のである。

更に、空海の行為行動にある、無限定とも思えるものも、もののあわれ、という、心象風景には、適わないのである。

もののあわれ、は、何一つも、曼荼羅のようなものを、作ることがなかった。
一筋に、心の、あわれの様である。
描くことも、秘密にして、語ることも出来ないものであった。

平安期の、女房たちが、心を寄せたのは、浄土の、教えの方だった。
当然である。
弥陀の本願に、すがるという、あわれ、というものを、更に深めた、浄土思想に、曳かれた。
たゆたう心に、憧れという、心象風景を、与えたのである。

浄土への、あこがれ、は、新しい、情緒、新しい、心象風景だった。

浄土信仰の、静かさを、好んだといえる。
空海の、信仰は、男に許されるものであり、女の世界ではなかった。しかし、浄土思想は、女房だけを、取り込んだのではない。
多くの、貴族、武士までも、取り込んだ。

あこがれ、という、心象風景は、時代性であった。

もののあわれにある、たゆたう心と、儚き心に、あこがれ、という、情緒が、生まれた。

加持祈祷より、念仏を申すことの方に、心の安らぎを得たのである。

それが、和泉式部の歌
暗きより 暗き道にぞ 入りむべき 遥かに照らせ 山の端の月
と、なる。
山の端の月とは、仏の慈悲である。

空海の行動力は、国家を相手のものである。
東寺を任せられた空海は、自由自在に、その野心を、満足せしめたであろう。
その、著作は、空海の創造の野心に、満ち溢れている。

ちなみに、密教とは、既成仏教の中では、一宗と、名乗るほどのものではなかった。一つの、呪術部門であった。
中国、唐が、そうである。
しかし、空海は、一宗とし、更に、他の宗派の上に、置いたのである。
それが、十住心論をもって、体系化された。
他宗と、対等ではなく、他宗の行き着くべき、最高の段階としたのである。
ここに、空海の野心がある。

東寺を、頂いた時に、他宗の僧を、拒んだのも、今までにないことだった。
宗派間では、自由に行き来して、学ぶことが出来たが、空海から、それを、廃止した。
独立性という、凄みである。

バラモンの、呪術を、ここまでに高めた人物は、いない。
空海の真言密教を、信仰し、解説、解釈する人はいるが、空海の密教に、更に、何かを加えて、新なるものを、創造する者は、今だかって、現れない。

2008年05月11日

もののあわれについて204

もののあわれについて、を書いている。
それは、藤岡宣男の歌にある、もののあわれについて、を、言うために、書いている。

万葉集から、古今集、そして、和泉式部日記を、書いた。

これから、更に、進むために、一つ、どうしても、もののあわれに、影響を与えた、無視できないもの、仏教といものを、少し見渡すことだと、思っている。
しかし、仏教史を、書くわけに行かない。

本来は、仏教を、語ることなく、進むはずだったが、どうしても、もののあわれ、というものの、陰影を、見るためにも、仏教に影響されつつ、ジグザグに、進まざるを得なかった、もののあわれ観というものを、見なければならない。

紫式部も、日記、源氏を書きつつ、浄土信仰に、傾いた。
色好みから、王朝を舞台にした、源氏の物語であるが、矢張り、そこに、多くの問題意識と、我が身の、心の置き所を、当時流行の、浄土信仰というものに、曳かれてゆくのである。また、言葉の世界である。
仏教にある、言葉の世界に、救いというものを、見いだそうとする。

それは、また、日本人の精神史の上からも、検証することは、必要である。

歴史家の、誤りは、事柄のみに、捕らわれて、その、根底にある、精神というもの、つまり、言霊の信仰や、仏教に傾倒する心の問題、深層心理に触れない。
歴史は、精神である。
精神は、言葉である。
そして、言葉は、意識である。

そういう意味でも、、仏教の言葉の世界を、無視できない。

もののあわれ、というものを、側面から理解するためにも、仏教全盛の、流れを少し、俯瞰することにする。

仏教伝来から、宗派というものが、発生したのは、南都六宗からである。
それは、現在、廃れずとも、細々と、奈良に、残滓を留める。
ちなみに、奈良の仏教は、檀家を置かない。布教もしない。ゆえに、金にならないから、入場料を、徴収する。それは、理解する。
葬式もしないはずだか、どうなったのか。

日本仏教の、転換は、最澄と、空海である。

天台宗、真言宗、真言宗は、それに、密教と、わざわざ付け加えた。それは、天台宗の最澄も密教の要素大であるが、空海は、最澄を超えるということからの、密教である。

彼らの、加持祈祷というものが、いかに、重要視されたかは、自然災害から、病気治癒までを、取り扱ったのを、見れば解る。
その、無力にあるものに、加持祈祷は、一つの、解決手段を与えた。

天台からは、多くの新興宗教、鎌倉仏教が、生まれた。
しかし、空海の真言密教は、その体系が、重層であり、やすやすとは、新興宗教に、分派できなかったといえる。

空海については、天才的宗教家といえるので、それを、解説することは、実に、膨大な言葉が必要である。
それを、簡単に言うということは、僭越であるが、ここは、もののあわれ、に、焦点をあてているので、理解して欲しい。

空海の最初の、著作は、24歳の時の、三教指帰である。
それは、儒教、道教、仏教の三教を検討し、優劣を論じたものである。
結果的に、仏教による救いに、至るというものである。

その後、空海は、最澄と、共に、唐に渡る。
桓武天皇の延暦23年、804年である。30歳であった。

空海の、20歳過ぎから、唐に行くまでの、10年間は、不明である。
一人、仏道の修行をしていたと、察する。
頭脳明晰と、行動力は、並外れていた。

山岳は彼にとって「法身の里」であったということは、孤独に沈滞して禅定をこころみる場であったということだ。・・・死との対決の場であったと言ってよい。無常観は生を凝視するとともに死を凝視する眼であり、「死」眼を通じて生の意味をさぐる行である。それは同時に自己の空無の確認である。
そういう心を携えて今度は世間に還り、世間の煩悩や紛糾を携えて山岳へ環るという、この循環に空海の「行」があった。換言すれば、このような「行」を通して、彼は常に惰性からの脱却をこころみたと言ってもよかろう。
日本人の精神史 亀井勝一郎

空海の、目的は、究極の救いであり、国家の導きという、希望だった。
それは、壮大な目的である。
空海の著作を、検証している、暇は無いので、結論から言う。
野心である。
救いを、国家を、導く壮大な思想である。

空海の、想像力の最大のモノは、大日如来であった。
究極の、理想の如来であった。
勿論、大日如来とは、観念である。
しかし、今は、その、云々に触れない。

実は、大日如来は、仏教というより、古代インドの太陽信仰による。
光明遍照とも、訳されている。
それを、仏性の根源とした、空海である。
つまり、空海は、新しい宗教を、創造したのである。しかし、当時の状況から鑑みて、それは、仏教の一派でなければならなかった。

仏性即我
これは、大乗仏教の教えであるが、空海は、それを、実践したところが、偉大である。
著述、詩作、書における、造形指導、私学経営、社会事業等々。
仕事といえば、膨大な量である。

既成の仏教が、成さなかったことである。
そして、今でも、空海を、超えての、行動をする、宗教家は、いないと、断言できる。
宗教的巨人といってもいい、存在である。

彼は、その行動を、身秘密を生ず、と、言い切るのである。
密教信仰の、秘密信仰の、所以である。

さて、問題は、空海の密教は、当時の人々に、どのように、受け入れられていたのかである。
人の心に、何をもたらしたのか。

国家安泰と、自然災害、そして、個々人の幸福、不幸に関した、現世利益の、加持祈祷を成すものである、という意識で、受け入れられた。
呪術の一言に、尽きる。
それを、空海は、最大限に演出したのである。

当時は、画期的な試みであり、創造行為である。

秘密荘厳心というもの、目に見えるものとして、表現した。
造形と、言語表現、祈祷の、総合芸術である。
言語表現は、声と言葉と、文字による。
声明という、音楽芸術である。

私は、日本史上、稀有な存在として、空海を、認識している。
その、良し悪しは、別であるが。

天皇をはじめ、貴族、支配者たちのための、壮大な祈りの場を提供した。しかし、それに、参加することは出来ない。ただ、その、修法に、従うのみである。

空海に帰依する以外に、それに、参入することが出来ないのである。
凄いことである。
それだけの、モノを、空海は創造したのである。

そこには、もののあわれ、というような、微妙繊細な心の、有り様は、入り込む余地はない。

もののあわれ、というものを、破壊するに足りる行為行動であったと、私は理解する。

究極的に、空海は、日本人ではないといえる。
もののあわれ、というものに、身を置かない、普遍的人間というものを、演じきったといえるのだ。

それは、別物だと、私は、考えている。
良し悪しは、言わないと、言った。

空海の、もたらした、脅しは、今も生き続けている。
空海の弟子たちに、更に空海のエネルギーがあれば、世界宗教にも、高めることが、出来たと思う。

日本の言霊でさえも、空海は、語密とした。
徹底した、オリジナルである。
それについては、大いに評価する。

たゆたう、もののあわれの、はかなさ、というものを、空海は、結果的に、否定したと、思える。

いずれ、別の場所で、空海については、論じたいと、思っている。

神仏は妄想である。80

しかし、その十字架を支える神学と懲罰理論は、それよりさらに悪いものだ。アダムとエバの罪は男系の系譜に沿って伝えられてきたと考えられている。―――アウグステイヌスによれば、精液によって伝達されることになっている。すべての子供に、生まれてくる前にさえ、はるかに遠い祖先の罪を受け継ぐように強調するというのは、いったいどういう種類の倫理哲学なのか? ついでながら、アウグスティヌスは当然のように、自らを罪に関する個人的な権威をもつ人間だとみなしていて、「原罪」という表現を造語した張本人である。彼以前には、それは「先祖の罪」と呼ばれていたのである。
ドーキンス

この、アウグスチヌスというのは、カトリックでは、教父とされ、聖人である。
ちなみに、彼は、さんざん女遊びをして、飽きた。そこで、改心して、神の信仰に、のめり込んだ。
女の次に、神にである。
聖人の中には、そいう者、多数。
いい気なものである。

女と、365日セックス三昧で、三年も続ければ、飽きるに決まっている。
その次に、改心をして、神の信仰に生きたという。
これが、聖人という者の、定番である。

更に、悪いのは、そのセックスを罪、罪、罪、罪、更に、罪と、よく言うものである。

人の人生に君臨しようという人物にしては、なんという意地悪くけちくさい偏見であることか。サム・ハリスは、「キリスト教国への手紙」において、爽快なまでに手厳しい。
「あなたがたの主たる関心は、宇宙の創造主が、人間が裸でするような行為に腹を立てるだろうか、ということにしかないようだ。あなたがたのこの潔癖さが、日々、過激なほどの人間の悲惨さに貢献しているのだ」。
ドーキンス

宗教は、夫婦の寝室を、監視することで、成り立つという、不自然さである。
セックスに介入することで、人間を支配しようとする。

本能を、罪とするのだから、終わっている。

ちなみに、日本の古神道、及び、民族伝統宗教は、多く、本能を、恵みとして、捉える。
欲望を、恵みという、健康的なものとして、捉えるのである。
更に、欲望を、命の讃歌とする。
実に、真っ当である。

罪の意識を、抱いて、シコシコセックスするという、真似はしない。

さて、このキリスト教神学を作ったのは、イエスではない。
その弟子たちでもない。
イエスの死後に、一人の強迫神経症の男が、イエスに、突然改心したのである。
その名を、パウロという。

話をサドマゾヒズムに戻そう。神は、アダムから受け継いだ罪の贖いとして拷問され処刑されるために、人間イエスとして自らを顕現させた。パウロがこの不快な教義を説いて以来ずっと、イエスは私たちすべての罪の救い主として崇拝されてきた。アダムの過去の罪だけではない。未来の罪までも救うのだ。本来の人々がまだその罪を犯そうとしてもいないのに。
ドーキンス

ここで、主イエスの十字架により、我々の罪が許されているのだ、さあーー、遊び尽くせという、教義が、現れないのが不思議だ。
親鸞ならば、主イエスが、すでに、未来の罪も許している、私は罪人だから、どんどん、女と寝る。この、どうしょうもない、罪深い人間である、私は、主イエスに救われている。
南無イエスと、念仏、いや、念主を、作り上げるだろう。

手のつけられない、屁理屈を、作り上げるのが、宗教家の、得意技である。

それを、後世の人が、あんたら、こんたらで、こんたら、あんたら、である。と、解説するという、愚劣である。
深い迷いこそ、信仰の深さである、等々、しょうもない、屁理屈を、あたかも、考えているかのように、考えるという、頭の悪さである。

空海ならば、その悪魔の神を、縦横無尽に使い、護摩を焚いて、招霊し、おどろおどろしく、ヤーウェ曼荼羅を作り上げて、奇跡を行い、密教の上前を跳ねるだろう。

知能レベルが、低いほど、あの、曼荼羅というものに、曳かれるらしい。
さらに、宇宙を表すものだというから、呆れる。

芸術というなら、解るが、拝むものでも、奉るものでもない。

ユダの失われた福音書と称される写本が最近になって翻訳され、その結果、広く世間に知られることになった。その発見の状況には論争があるが、1970年代あるいは60年代のいずれかの時にエジプトで発見されたように思われる。それはパピルスに書かれた62ページのコプト語写本で、炭素年代決定法によって西暦300年前後のものとされるが、おそらくは初期のギリシャ語原本から写されたものである。著者が誰であれ、この福音書はイスカレオテのユダの視点から書かれたものであり、ユダがイエスを裏切ったのは、イエスが彼にその役割を演ずるように頼んだからこそであったことを証拠立てている。イエスが磔になったのはすべて、人類を救うための計画の一部だったのだ。この教義は胸くその悪いものであるが、ユダがそれ以来ずっとけなされてきたという事実は、不愉快さをさらにいっそう募らせるように思われる。
ドーキンス

私も、すぐに、ユダの福音書を読んだ。
その手の、危険な書物は、最初、日本語に訳される。
日本では、ユダヤ教もキリスト教も、騒がないからである。

ちなみに、「キリストの棺」という、本が出て、センセーショナルを巻き起こしている。勿論、キリスト教国である。
イエスの妻の、マリアと、息子との、墓が、見つかったというものである。
新約聖書に、出ている、マグダラのマリアが、妻だという。息子もいた。
その墓が、見出されたというものである。

科学で、実証されたものである。
しかし、すべての、キリスト教は、無関心を装う。
当然である。
すべてが、覆る。

イエスの死体は、無い。
昇天したからである。
今更、墓が、見つかり、死体があったなどと、認めるはずが無い。

事実は、どうでもいい。
宗教とは、妄想で、いいのである。

2008年05月10日

神仏は妄想である

「新約聖書」神学の核心に位置するこの教えは、道徳的には、イサクを焼き殺す準備をしたアブラハムの物語とほとんど同じくらい胸くその悪いもので、またよく似ているーーーそれは、ユダヤ学の専門家、ゲザ・ヴェルメンシュが「イエスの変貌」で明らかにしているように、偶然ではない。原罪そのものは、「旧約聖書」のアダムとエバの神話から直接に由来するものである。彼らの罪―――禁断の木の実を食べたことーーーは、単なる叱責ですみそうな、軽微なものに思える。
ドーキンス

この、アダムとエバの、話は、よくよく、考えてみれば、如何に、聖書の神というもの、捻くれたものであるかが、解る。
旧約聖書の神が、どんな人格であったのかは、すでに、述べたが、手のつけられない、自作自演のものであることが、理解できる。

魔神、悪霊と、呼ぶに相応しい、これ以上の、魔神は、いないという存在である。

人間に、生まれ持った、原罪という罪があると、信じるという、精神異常は、計り知れない、妄想を、人間に抱かせた。


しかし、この実の象徴的な性質(善悪についての知識、実際上は、自分たちが裸だという知識であることが明らかになる)のゆえに、リンゴを盗むといういたずらが、すべての罪の源泉とみなされるのに十分だった。彼らとその子孫すべての子孫はエデンの園から永遠に追放され、永遠の命という天からの贈り物を奪われ、田畑と出産においてそれぞれ、何世代にもわたる苦痛に満ちた労働を強いられることになった。
ドーキンス

私も、更に、しかし、と言う。
田畑を耕すという、苦痛に満ちた労働を、強いた神は、それさえも、否定することになるのである。
それは、アダムとエバの子供である、カインとアベルの、話に出るものである。
これは、後で、書く。

旧約聖書、創世記から、神は、その正体を明かすのである。

まず、エバをそそのかした、蛇に神は言う。

「おまえは、このことをしたので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最も呪われる。おまえは腹で、這い歩き、一生、ちりを食べるであろう。わたしは恨みをおく、おまえと女のあいだに、おきえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おきえは彼のかかとを砕くであろう」

そして、エバには、
「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」
そして、アダムに言う、
「神はあなたのために呪われ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る」

ここでは、呪い、恨み、苦しみ、という言葉が、ずらりと、並ぶ。
通常、呪いというのは、悪魔のすることである。
神は、呪うということを、しない。
あらゆる宗教の原点をみれば、呪うのは、悪魔、悪霊である。

旧約聖書に、悪魔というものが、出てこない。
何故か。
神が悪魔だからである。

余談であるが、ユダヤと、日本の関係が深いという、想像をもって、語る人々がいる。
旧約聖書と、日本の古代史の、接点や、統合である。
有り得ない。
事後預言と同じで、如何様にでも、意味をつける。想像、妄想できる。

ユダヤ十二支族の一つが、日本だという、大ばか者もいる。
文様や、言葉を取り出しての、接点である。
一つは、日本が先だ。一つは、ユダヤが先だと、言う。
妄想もほどほどにと、言っておく。

カインの捧げた、農産物より、アベルの捧げた、血の滴る羊の捧げ物を、何の意味も無く、アベルの捧げ物を、善しとしたのである。

はっきり言っておくが、日本には、血の滴るような、獣を神に捧げるという、伝統は無い。

そして、更に、神は、善良なカインに、弟を殺させるという、人類最初の殺人を犯させる。
この、捻くれた神は、そこでも、更に、カインを、追い詰める。

「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の上からわたしに叫んでいます。今あなたは呪われてこの地を離れなければなりません。この土地が口を開けて、あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」

これは、完全な、イジメである。

地を耕せと言う。しかし、その実りを拒み、血の滴る獣を受け取る。更に、嫉妬を起こさせて、弟殺しをさせ、それで、更に、あなたが土地を耕しても、実を結ばないという。

完全に、人間を、捏ね繰り回している。

更にである。
まだ、ある。

カインは主にいった。「わたしの罰は重くて負いきれません。あなたは、今日わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならなければなりません。わたしを見つける人はだれでもわたしを殺すでしょう。主はカインに言われた。「いや、そうではない。だれもイカンを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」そして主はカインを見つける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。

善良なカインを、散々弄び、結果、カインは、ならず者として生きるしかなくなるという、おぞましい、話である。

善良なカインは、主から受けた、しるし、によって、今でも、その末裔は、殺戮を繰り返している。
それが、復讐という言葉に、現される。

神が、復讐を言うのである。

自作自演も、ここまでくれば、完全に狂っている。

勿論、私が、教会で、習った、カインとアベルの話の、意味合いは、全く別の解釈により、
神の本当の姿を、考えないようなものになっていた。

物語から、神の正体を逸らし、弟殺しをした、カインは嫉妬により、人類最初の殺人を犯した。すべての罪は、嫉妬からはじまった。
さらに、サタンという、悪魔も、神が人間を愛するのを、御覧になり、嫉妬を起こして、大天使だったが、サタンに落ちたと、教えた。

大天使ルチフェルが、悪魔サタンになった。
嫉妬で。

妬みの神と言ったのは、誰か。
最初に、嫉妬したのは、誰か。

神自身が、悪魔であることを、宣言しているのである。

復讐、報復という、言葉は、旧約聖書から、始まる。
これを、正典としている、ユダヤ、キリスト、イスラム教の、本当の姿が、解るというものである。


このあたりを見ると、あまりに容赦がなさすぎる。これは「旧約聖書」では当たり前のことだった。だが、「新約聖書」神学はそれに、その悪質さにおいて「旧約聖書」さえも凌ぐほどの、新しくサドマゾヒズムで仕上げをした不当な処置を付け加える。宗教が、しばしば首にかけられる聖なるシンボルとして、拷問と処刑の道具である十字架を借用しなければならないというのは、よくよく考えてみれば、驚くべきことである。
ドーキンス

神仏は妄想である78

さて、道徳的な観点からして、イエスが「旧約聖書」の残忍な鬼畜よりもかなりまともになっているのは否定できない。実際イエスは、もし実在したのであれば(あるいは彼でなければ、実際に聖書を書いた誰かでもいいのだが)確かに、歴史上の偉大な倫理革新者の一人であった。
ドーキンス

私は、新約聖書のイエスに、少年時代、浸りきった者である。
イエスの言葉、つまり、新約聖書の言葉を、拡大解釈する、司祭、牧師の話を、支持していた。
ところが、イエスの言葉は、世界的に、拡大解釈して、考えられないものであると、知る。

ユダヤ教と、二千年前の、当時の、ある地域を、検証すると、それが、解る。
イエスは、日本のことを、知っていたのか。
イエスが、日本にまで、やって来たというような、お話は、楽しいものだが、それは、ほら吹き話である。

聖書を、書いた者は、日本の存在を知らない。
世界の果てにまで行き、私の言葉を、述べ伝えよ。
あの当時の地域の人の、世界というものが、如何なるものだったのか。

拡大解釈をして、世界の果てまで行き、人殺しをしたのは、誰か。

私が、キリストの絶唱を、書いたのは、イエスの奇跡を、絶対肯定した。
教祖たるものになるには、奇跡が、必要不可欠である。
今でも、病が、癒えると、ほら吹き嘘を、喧伝して、信者を集める宗教もどきが、多い。
普通のことを、言っていては、信者は、集まらない。
奇跡を起こすのである。

宗教を、立ち上げた時、教祖、及び幹部たちは、まず、伝言ゲームのように、奇跡話を、広める。
関西にある、有名教団の最初も、そうだった。
関西弁で、おもろ奇跡の話を、広めた。
なおるんやて
何が
病気が
ホンマ
ホンマ
銭かからんって
ホンマカ
ホンマ
行こ
ほな、行こか

そして、紙袋を渡されて、毎日、一円でも、十円でも、百円でも、いいから、感謝の心で、入れなさい。それを、教団に持ってゆくという、愛は地球を救うという、胸糞悪いテレビのように、金を集めた。
金は、貧乏人から、広く集めるというのが、大阪商人である。いや、近江商人か。いや、瀬戸内商人か。どうでも、ええは。

兎に角、人を集めることなのである。
人が集えば、金が集う。
どんなに、いいことを、言っても、それは、透けて見える。
それで、会館、学校、あらゆる施設を建てる。
信者は、我が教団は、と、誇るが、皆、信者の金である。
ところが、指導者、教祖を、崇めるという、愚かさ。

拝みたい、騙されたいと、いう人多く、矢張り、この世は、地獄である。
拝まれたい、騙したいという、者あり、この世は、地獄である。

山上の垂訓は時代のずっと先をいくものだった。彼の「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」は、ガンジーやマーティン・ルーサー・キングを2000年も先取りするものである。

イエスは自らの倫理を、彼の成長のよりどころとなった聖書から導き出すだけでよしとしなかった。彼ははっきりと「旧約聖書」と決別し、たとえば、安息日の掟を破ることについての怖ろしい警告を諌めた。「安息日は人間のためにつくられたのであり、安息日のために人間がつくられたわけではない」という彼の言葉は、賢明な言葉として一般化されている。本章の主要なテーマは、私たちの道徳を聖書から導き出していないし、また引き出すべきではないということだから、イエスは、まさにこのテーマを実践した模範として、讃えられるべきである。
ドーキンス

イエスの言葉が、当時画期的だったことは、安息日に行動することは、死刑なされたということである。信じられないことだが。

つまり、イエスの言葉は、当時のユダヤ教に対する、最大の挑戦であり、いずれは、殺されること、必至なのである。

これは、聖書作家の、イエスの十字架への道の、伏線でもあると、私は、見ている。

まず、人の心を、掴むには、二つの方法がある。
特に、宗教においては。
まず、既成の教えを、延長したところから、新しいものを、重ねる方法である。
新興宗教の方法である。

しかし、中には、日蓮のように、すべて否定して、斬新、新鮮な、教えを、掲げる者もいる。それでも、既成のものから、抜けてはいないのだが。

神道系の教団は、必ず、古事記からの、お話を、盗み、教団の教義、経典を、作る。
仏教系は、既成宗派の、教義を、盗む。

何とでも、言えるのだから、何とでも言う。

天理教は、天理王の命、大本教は、丑寅の金神とか。
教祖の妄想、彼らは、霊能力と言うが、それが、どこのレベルの霊能力かを、知らないのであるから、哀れである。

普通の生活が出来る程度の、狂いが必要なのである。
その、狂いが、教祖たる、資格を持つ。

そして、教祖を、見ていて、私も、教祖になって、拝まれたいと思う者が、また、宗教を、作る。
懲りない面々である。

一々例を上げるが、面倒なので、言わない。

「もし、だれかが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない」アメリカのコメディアンであるジュリア・スウィーニーは、自分のワン・ウーマン、ショー「神様さようなら」の中で、自らの困惑を次のように表明している。「それはカルトがやることじゃない? あんたに教えを授けるために、あんたが自分の家族を拒絶するようにさせるなんて? 」そのいくぶん危なっかしい家族観にもかかわらず、イエスの倫理上の教えはーーー少なくとも「旧約聖書」が倫理に関しては惨憺たるものであったことに比べてーーー賞賛すべきものた゛った。
ドーキンス

ここでも、私は、気付くことがある。
夫を、捨ててとは、出てこないのである。
男に対する言葉であるということだ。
イエスは、女を弟子にしなかった。
何故か。
以下省略。

さて、ルカの福音書では、
私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架をせおって私に従え。自分の命を救おうと思うものは、それを失い、私のために命を失う人は、それを救うのである。

明らかに、イエスの死後を経て、解釈したものであること、明々白日である。
新約聖書の、四つの、福音書は、すべて、後からの解釈により、書かれたものであることが、解る。

上記の、訳は、私が中学の頃から、読んでいた聖書である。
実に、最低の訳である。
そのせいで、私の文章も、このようになったと、思う。しかし、今更、変えられない。

さて、キリスト教徒は、旧約に、問題があっても、新約に救いがあると信じる。
しかし、新約にも、重大な、キリスト教の中心教義にある、暴論がある。
それが、パウロ神学として、現在のローマカトリックの教義を作っている。

決して、イエスの教義ではないところが、ミソである。
パウロという、イエスを知らない者が、打ち立てた教義である。

ちなみに、聖書の最初にある言葉である。

カトリック教会は、ヴァチカン公会議において、聖書を次のように定義した。
聖書は、最初普通の本のように書かれ、後に公教会の認可を得たか、あるいは、啓示された教理を純粋に含んでいるという理由のためではなく、実に、聖霊の霊感のもとにしたためられ、その著者として神をいただき、またそうした著書(霊感によるもの)として公教会にまかせられたという理由のために、「正典」として認めるものである。

上記、この感覚が、カトリックの、まとも、なのである。

支離滅裂な、暴言としか、言いようが無い。

平然として、嘯くあたりは、宗教の見本であり、手本である。

世にある、宗教の経典とは、皆々、この類なのである。

いかに、ギリシャ神話、源氏物語、千夜一夜物語が、真っ当であるかが、解る。

聖書を定義する。聖霊の霊感という。霊感とは、教会が魔と決定しているのではないか。公教会に任せられたという。誰か任せた? 勝手に、そう言うだけである。
単なる、権力により、ユダヤキリスト教徒から、奪ったものではないか。
そして、だから、正典として認めるという。何の根拠も無いのである。

明日から、私が、主イエスキリストの、唯一の、後継者であると、言ってもいいのである。

韓国の、イエスキリストの生まれ変わりだという、最低最悪の統一教会の教祖と、変わらない。金集めには、手段を選ばないという。今でも、霊感商法をもって、日本で金集めをしているのである。

話にならない。