事務所に一通の手紙が届いた。藤岡の古い友人からである。玉ぐし料が添えられてあった。
曰く、僕は君のことを忘れて、君の分まで生きます。と。
一年を経ても、なお同じように藤岡の死を悲しむ人がいる。深い想いにかられた。
もし、藤岡を忘れて生きるというならば、それを否定することはできない。
忘れるという言葉には、忘れられないという想いがついていると思われる。
私も、ある高齢の方から、忘れて生きることですと言われた。
それは人生の処世であろう。忘れた振りをして生きるということだと思う。
思い出せば、悲しいでしょうとも、言われた。その通りだ。
忘れた振りも私は出来ないので、藤岡を心に抱いて、生きると、決めた。
そう遅くない時期に、私も死ぬ。
死ぬということが救いになるのである。
焦って死ぬことはない。確実に死ぬ。それでいい。
コメント (2)
忘れることができれば、どれだけ楽でしょうね。
そんな、忘れっぽい人になりたかったとつくづく思います。
多くの人が悲しく思うその心の正体は、どこかで「無くなってしまったのだ」という思惟が働いているのかもしれません。
投稿者: miffy | 2007年02月12日 23:21
日時: 2007年02月12日 23:21
人はそう簡単に忘れられないですよ、ましてや思い出深い記憶などは。
過去の記憶の断片を繋ぎ合わせても過去は過去であること、宣男君は戻ってこないと言う現実を受け入れるための苦しみは理解してもらえないでしょうね。
投稿者: 匿名 | 2007年07月28日 19:42
日時: 2007年07月28日 19:42