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藤岡宣男の死因

大きな嫉妬、やっかみ、その優雅な佇まいに対する怒りに似た羨望の想念の塊。そして私との仲を裂き、藤岡を我が物にしようとする魔界系人間の想念体が、塊になって、襲っていた。
この次元では、転落死、事故死となった。
しかし、目に見えない世界では、上記のような状態であった。藤岡の手帳に、そんなものに負けないと書かれてある。
人は、人の思い、念いに殺される。いかにそれらを受けずに生きるかということが、大変なことである。芸能人は、鈍感が一番である所以である。
感受性が強ければ、それらを、もろに受ける。
藤岡のみならず、それらは私にも影響を与えて、私も疲労困憊していたのである。
人の悪心を受けるということは、それも因縁であろう。否定しない。
芸術家は、自分との戦いの他に、これらの悪想念との戦いがある。
油断はしていなかった。しかし、私も藤岡も疲れていた。
だが、藤岡は、事故後、二時間で息を引き取った。その間、幽体でいた。息を引き取ると同時に、幽体を離れて肉体から開放された。悪想念を受けた体を捨てて、自由に、楽になった。
藤岡が霊体、つまり光になったとは、翌日、すぐに証明された。弟子の最も若い者に、光となって現れた。それを見たのが、その兄弟である。本人にではなく、第三者に、それを示して、冷静に判断させた。そして、もう一つは、同じく、ホームページの管理人と、その友人に光を見せた。そこでも、第三者を入れている。何と、友人の部屋に、美しい青い光を放した。
そんなことを信じない者に、冷静に判断させるというのは、藤岡が、やりそうなことである。
私は、息を引き取った顔を見て、その穏やかさに、安堵した。しかし、人の子である。泣き崩れた。私は、多次元の世界と、この世の次元の差に愕然としつつ、人として、泣いた。
感受性と、霊的感性が藤岡に災いした。しかし、多次元から見れば、その意味は違うだろう。この次元の価値観で考えればそうであるが、あちらから見れば、開放されたとみる。
馬場どもが、様々なことを言ったが、私は沈黙していた。
知らないことは、無いことだからである。この世の悲劇は、知らないことである。そして知らないことを知らないという、悲劇の上塗りをする。
知らずとも、在るものは在ることを知らない。それを、迷いとか、無明という。
多く人は、妄想の中にいる。それを裏付ける言葉の羅列がある。嘘八百の小説などが、それを象徴する。あたかもあるが如くに話を創作する。人も、人生を創作する。しかし、本当は、実態が無い。嘘の話を読んで感動するという、おめでたさである。
人生が何に支えられてあるか。それは、見えないものによってである。自分が決めているように思えることも、決めさせられていることを知らない。兎に角、意識とは、全意識の薄い膜である。感情も、実は、薄い膜である。人は、それをすべてだと思い込む。それを知る者は、幸いである。
人知で計り知れないことがある。しかし、それに挑む時、人は謙虚になる。
自分の知りえることが、風の前の塵に感じる者は、幸いである。
私は、この人生の迷いと、無明に戦いを挑んでいる。それが藤岡のあだ討ちなのである。お解りか、私は多次元を相手にしている。考えているレベルが違う。私の言葉に迷うな。私は、この世のものを相手にしていないのである。生身の人間は、私の相手にならない。
古神道の奥義は、ただ風が吹くということである。すべてが終わった後に風が吹く。この風の在り処こそ、テーマなのである。知る者は、知るがいい。

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2006年11月14日 14:14に投稿されたエントリーのページです。

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