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いのちについて

恐れ多くも畏くも勿体無いことであるが、いのちについて、古神道、霊学の立場から講義する。
命の大切さを云々というが、誰も「いのち」について知らないようである。
皆が言うのは、寿命のことを言う。いじめで自殺する子がいるが、いのちを粗末にしているのではない。いのちは、寸分も損なわれていない。
この世に生まれたという意識を損なっているのである。
いのちとは、息の霊と書くと解り易い。そのまま、いのちと読む。
息は天のもの、霊は地のもの、天地の交わりによるものが、いのちである。漢字で命と書くと、意味が違う。
天の霊と、地の霊が交わる。霊「ち」は地であり、血である。一人の人間が生きるということは、天地の奇跡である。
霊は、自然に存在するエネルギー体である。息の霊の、の、は交わりであり、のはのオという言霊であり音霊である。オは送る、贈るという意味である。お送りすると言う方がいい。
天の霊が地の霊に送る、交わりが、いのちである。
いのちの、言霊は、いイのオちイである。イという受け入れるという言霊と、オという送る言霊と音霊の意味がある。
つまり、いのちは、受け入れて送り、また受け入れるというとである。一人の人間の中で、天地の交わりが行われているのである。
イーオーイーの音霊の共鳴が、いのちである。
それは永遠である。いのちが永遠のものであるということ。一人の人間の内で、壮大な天地の交わりを行っている。
それが肉体を持って成すのが、この世の命、寿命である。生まれたくて生まれた。それを突然停止するのも自由である。しかし、自由に責任が伴う。自己責任である。主体は、すべて我である。一旦、停止させると、のオの音霊を阻害する。交わりの言霊である。それを回復するには、人それぞれの反省が必要になる。
この世の些細な物事に、いのちは、なんら損傷を受けない。幾億年の時を経て、いのちは在る。たったひとコマの、この人生をすべてだと思うことなかれ。生と死は、状態である。生が、この世で、死が、あの世であれば、死は、あの世に生まれる戻ることである。生は、あの世から見れば、旅立ちである。
もう一つ、奥義である。のオ、という音霊は、魂、たアまア、を言う。天地の霊は、タマによって交わるのである。魂とは、アの音霊のまま、ただただ開く、拓く、啓くを言う。アは歓喜の音霊であり、神を表す。神は、姿無く、沈黙である。宇宙に充満するエネルギーである。そのエネルギーは、歓喜なのである。すでに神の体内に生死を繰り返している存在がすべての生き物である。人が歓喜に生きる時、神と共感し、共鳴しているのである。
宗教的所作は、一切必要ではない。人知れず咲く花のように、ただ生きて咲いていればいいのだ。

子供たちよ、死ぬな。生きていればこその人生である。必ず、意味が解る日がくる。
死のうと思う、環境から離れよ。

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2006年11月16日 14:16に投稿されたエントリーのページです。

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