名曲は何度聴いてもいい。千葉のギターも何度聴いてもいい。
リサイタルを終えて、再度、千葉のギターに確信した。音に対する信頼感である。
人が作る音は、声か、道具を使う。ギターは弦である。ほとんど人の作り出す音は、不自然であり、不穏である。自然の出す音は、すべて人間の体に宿る音である。
感動する演奏などというものは、無い。あるわけが無い。音楽とは、数学の駆け引きで作られる。西洋音楽の、芸術音楽とは、そういうことである。
ギターの音は、許容範囲が広いことが救いになる。一音に無限を感じる時、音楽の姿が現れる。厳密な音という幻想に捕らわれるピアノが野蛮である所以である。
千葉のギター伴奏で歌う時、ズレる。それを楽しむ。いやズラすのである。
微妙なズレを楽しむ。しかし一音に広がりがあるゆえ、それが豊かになる。音の豊かさである。勿論、ソロ演奏も良い。
厳密な音を追求する時に現れる音の姿こそ、思いが託される音になる。思いは、想いであり、念いである。
藤岡宣男が千葉のギターの音に、声を練っていったのが、よく解る。厳密ではなく、曖昧、たゆたう音の響きをである。
音楽評論の限界は、音を言葉に出来ない限界である。音は言葉に出来ない。聞き手の感覚のみが頼りである。そのほとんどが先入観に支えられてある。音を聴く前に、先入観が勝つ。
音楽評論の手本のようなものを読むと、そうなるのである。それは安っぽい人生論のように勝つのである。
素人の私は、それらに左右されることなく、実に自然に聴くことが出来る。知識が耳を汚さないのである。