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観念まみれ

藤岡が枕元に立つというアホな女も、一年を過ぎると、そんなことは言わない。自分が特別、藤岡に思いをかけられたという気持ちは、解らないでもないが、私は幽霊の専門家である。幽体を藤岡は、二時間ほどで捨てた。よって幽霊として立つことはない。
事故死であるから、変死と云うアホも、今は言わない。事故死が不幸なことでもない。布団の上で死ぬのが一番であるなどとは、観念である。人は、野垂れ死にするのが理想である。
肉体に捕らわれると、死後は、とんでもないことになる。それを説明する気力はない。
経験は観念を生む。経験が多ければ観念まみれになる。それでいい。経験の少ない人の、限られた観念には辟易する。
私の言いたいことが理解できれば幸いである。
目に見えないものは無いと考える人は、自分が見てないものは無いと考える。愚かである。
見えていないものは山ほどある。しかしそれを説得しない。死後の世界も、説得しない。死ねば解ることだ。
勿論、死んでも死んだことに気づかない者もいる。それが幽霊になって立つ。交通事故の多い場所に幽霊が立つはずである。その幽霊に引かれて事故を起こす者もいる。
観念まみれになることは良いことだと云った。それは観念は、いつか突き崩されるからだ。突き崩される観念を多く持つ者は幸いである。
死によって潜在意識が開かれて、見回す世界が広がるとよく解る。
観念の少ない人は、死後も、その観念を捨てないことが多い。そして幽霊となる。
アホは死んでもアホである。
死んだことを説得することほど、疲れることはない。
そこで私の観念である。死者を粗末にすることなかれ。死者は生者より自由である。太陽のニュートリノと同じで、岩をも突き通す。神出鬼没である。
陰陽師が流行ったが、あれは死者というより、レベルの低い霊もどきを使用して、何事かを成したもので、今も陰陽師などという者は、時代錯誤も甚だしい。
藤岡は、死後奇跡を、目に見える奇跡を起こさない。目に見えない奇跡を起こす。高い次元にあることが解る。勿論、私の観念である。
哲学者で観念という言葉を使う者に、観念の真実は解らないはずである。次元の違う世界から見て、観念の所在が解るというものである。
解らないことは何かと問う姿勢が、人生の救いになる。それが解れば幸いである。

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2006年11月23日 14:25に投稿されたエントリーのページです。

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