私は言霊研究をしている。しかし言霊の本を書くつもりはない。研究をすると本にすると勘違いする人がいる。研究して、それを実践するから研究が生きるとは思わない。本にすると、偉いともう。馬鹿な学者がするようなことはしない。
藤岡宣男の日本語の歌が美しかった訳を、今、考えている。しかし藤岡も最初は、舞台用の発声、発音を練習していた。
ある時、初恋の歌詞の、思いいずる日という歌詞の、ヒという発音が、ヒを強く、母音のイが
弱くて、シという音に交じることに気づいたので、それを言った。藤岡は、即座に正して、練習した。ヒは弱く、母音のイを強くすることによって、最後のヒが、見事に美しくなった。
それでは、シはシをやや強く、母音のイを弱くすると、美しい。
日本語は、母音に返って美しくなる。それは母音に深い意味があるからだ。
ただ奈良時代には母音は、七つあった。それが五つになった訳がある。それは省略する。
言霊は、母音の解釈に帰結する。それは音霊、おとたまと呼ばれる。それも省略する。
声楽家で日本語の美しい者は、藤岡以外を知らない。他は、日本語もどきである。
驚いたことは、佐賀県の人、そして沖縄の歌い手に、見事な日本語の名手がいることである。
佐賀県は日本語の発祥の地てあろうか。そして沖縄は・・・
さて、これは結論を避ける。
もう一つの面目は、日本語の心的模様である。「もののあわれ」を言うことにする。藤岡は、それも兼ね備えた。
言葉は記号と考える野蛮な欧米人の言う声楽と、言葉の一音に神が宿ると考える古の日本人では、格が違う。言霊である。欧米の声楽家の真似をして日本語を歌うと、それは醜いを超える。酷いのは、日本語に聴こえない。
日本語を叫んで、どうするのだと思う。しかし、日本語のプロがいない。指導者にである。
言霊など知らない者が、日本歌曲などを教えるという仰天である。これ以上は詮索しない。
初恋をテノールに歌わせて、その風情の無さに愕然としたことがある。アホ馬鹿間抜けを超えた。ソプラノも然り。
ファルセットのカウンターテナーであったから、あの風情と「もののあわれ」を表現できたのかと思いつつ、私は、藤岡宣男を歌うことにした。これで止めて置きたいが言う。
説明不足であろう。藤岡を歌うとは、藤岡の心を歌うということである。それは藤岡の「もののあわれ」を突き抜けて行かなければならないということである。
そうすると忙しくて、死ぬ暇がなくなるのである。ああ無情・・・
本日は、藤岡宣男「神上がり」425日祭である。
さきはえたまえ まもりたまえ