豊かな思い出は、豊かな人生である。
愛しい人を亡くした人は、それを実感として知る。
生きるとは、思い出を作り続ける行為であると言う。それは虚である人生にあっても、色あせない。思い出は、心象風景だからだ。
すべては思い出に尽きる。
それは旅をしたとか、何か大事を言うのではない。日々の生活の中にこそある。
私は、藤岡との何でもない会話、藤岡の行動を思い出す。それが宝物になる。それは失われることなく、色あせることなくある。
長く生きれば思い出が多く豊かであるということもない。
質的充実感である。
豪華外国旅行をしても、何ら思い出にならない人もいる。
そして重大なことを言う。どんなに楽しい思い出も、痛みを伴うということである。この意味が解る人は、幸いである。
二度と繰り返せない人生を生きているということ自体に痛みがある。別の言葉で言えば、苦である。仏陀が言う。私は、痛みと言う。日本の伝統では「あわれ」と言う。
月をこそ眺めなれしか星の世の深きあわれを今宵知りぬる
建礼門院右京太夫の歌である。
いつもは月を眺めて歌にしていたが、今宵の星空は、一体なんであろ。この星空に、深いあわれを思うのである。
愛しい人を亡くした人がたどり着いた、境地である。
あわれは、哀れであり、憐れであり、慈悲である。優しさと、悲しさを通り越した心象風景。
確実なもの、それは心にある。
こオこオろオ、すべてオという母音に行き着く。オとは、送る、贈る、御送りする、お贈りするのである。神の降臨を願い、そしてお帰りいただく時に、オーとしてお送りした。
縄文期から列島の民族は、一音を、そうして扱っていた。言霊である。
これ以上の説明を避ける。
生きる痛みの知らない人には、決して理解できないことである。
私は、遥かに、はろばろと思い出を持って生きる。はろばろの意味は、音霊を知れば、すぐに解る。日本語には擬態語が多いというが、意味があるから多いのであり、語呂の問題ではない。知らないことを無いことと考える人には、解らないことである。