思考が凝り固まった人がいる。曰く、木村は否定から始まる。世の中に挑戦している。等々。
私は、何一つ否定せず、挑戦もしていないのであるが・・・
クラシック音楽の人々を批判すると、否定すると考える思考が理解できない。もし、私がクラシックを否定するなら、コンサートを開催することなどしないと、どうして解らないのか。
私は、一度たりともクラシック音楽を否定したことはない。
簡単に言う。意識しないものに関して、人間は無いものとして扱う。それに意識するということは、それを受け入れているということである。
花が目の前に飾られても、見ない人がいる。花が彼の心の内に無いからである。目の前にあっても、心に無いものは見えないのである。
何を意識するかで、自分の興味が解る。いや、ほとんどのことが解る。
簡単に言う。要するに、私の存在が目障りなのである。
人は、聞くものより見たものに九割支配される。私を見ると、その存在感に圧倒される。受付にいても、誰のコンサートなのか解らないと言われたこともある。ピアノの蓋を開け閉めするために舞台に出ても、人は、私の存在感に圧倒される。要するに、目障りなのである。
さて、目障りなものを排除する思想は、差別の意識である。
つまり憎まれっ子世にはばかるとは、私のことであろう。
さて言う。私は、この世に欲しい物は、一つもない。そして私は、側にいる人に、何が出来るのかだけを考えて生きている。私の目的は、死ぬことである。生きることは死ぬまでの暇つぶしである。私は、それを知っている。だから私は、せめて、この世の移ろうものを楽しんで眺めている。この世のものに、何一つ捕らわれることがない。