恋せずば 人は心も なからまし 物のあはれも これよりぞ知る
藤原俊成の歌についてある人が、宣長に問う。
この「あはれ」とは、いかなる義かかと尋ねる。
宣長は、私は、心には悟り得たと思うが、あえて言うというと、言葉無し。しかし、思い巡らせば・・・以下、原文を書く。
「いよいよあはれと云う言には、意味深きように思われ、一言二言にて、たやすく答えらるべくもなければ、重ねて申すべしと答えぬ、さてその人のいにけるあとにて、よくよく思いめぐらすに従いて、いよいよあはれの言葉は、たやすく思うべき事にあらず、古き書または古歌などにつかへるようを、おろおろ思い見るに、大方その義多くして、一カタ二カタにつかうのみにあらず、さて、彼れ此れ古き書どもを考え見て、なお深く案ずれば、大方歌道は、あはれの一言より外に、余儀なし、神代より今に至り、末世無窮に及ぶまで、よみ出る所の和歌みな、あはれの一言に帰す、さればこの道の極意をたずぬるに、又あはれの一言より外になし、伊勢源氏その他らゆる物語までも、又その本位をたずぬれば、あはれの一言にて、これを覆うべし、・・・・・」(読みやすく書き改めてある)
あわれとは、何かと問われての答えである。
あわれという言葉は、実に意味深くして、一言や二言では、答えられない。それに、よくよく思いを巡らせば、あわれという言葉を軽々しくなど語れるものではない。古書、古歌、等々により、その意味深くして、益々軽く語ることなどできないものである。
歌道は、あわれの一言に尽きる。神代から今に至り、そして未来も、和歌の道は、あわれの一言に尽きる。また、多くの物語もあわれに尽きる。
歌の道、言葉の世界の極意は、あわれであると言い切るのである。
それが宣長の場合、源氏物語を説くということで、あわれを徹底追求した。
どうしても源氏物語に触れなければいけないのだ。
「やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、たぐふべきふみはあらじとぞおぼゆる」
大和も唐も、過去も、現在も、未来も、これほどの物は現れないとまで言う。
「すべての人の心というものは、からぶみに書るごと、一トかたに、つきぎりなる物にはあらず・・・」
これこれこういうものであるという、唐の書き物などにはない、様々な人の心の様が語られてある、それが源氏物語であり、そこに、あわれが書き表されていると断言する。
人間の喜怒哀楽のみか、潜在する意識の様、等々、あわれの事、すべてを見出している物語であるというのである。
「この物語をよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばえを語るを、くわしく聞くにひとし」とも言う。
詳しい内容については、次にするが、あわれを語るに、物語の言葉を使って、分析してゆくのである。
大変、ご苦労なことをされたのである。
あはれ、という、三文字のことである。
粘着質タイプの人柄がうかがえる。ここまでして、何故、あわれを語りたかったのか。宣長は、そこに日本を観たのである。日本という国の、すべてを観たのである。
神代から今に至り、未来に続く、日本の心、それが、あわれであると観た。
あはれ、私は、あわれと書くが、あはれ、である。
あアわアれエである。ここまでは、言霊の意味を書かないことにする。ただ、アという音とエという音霊がある。
母音が五つに統一された深い意味もある。あ、い、う、え、お、である。
言霊、音霊の秘密もここにある。
言と音、不思議な関係である。
言は音でもある。も、が入る。言は、音以外にも意味がある。
歌手は、言葉を歌う。言を音にする。ここに重大な秘密がある。長い言葉の講義や説教を聞くより、一曲の歌を聴くことの感動が大きいのは、そういうことである。
言葉の羅列を善しとしない、日本の伝統がある。言挙げせずとは、実に、意味、意義深い、言葉に対する感性があるとみる。
この日本人の感性の極みが、あはれであると言う。