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もののあわれについて その5

もののあわれの極限にある歌の道を、源氏物語から観るという行為を通して本居宣長が言う。
「物のあはれさえしらば、歌はよまるべし、又歌さえよまば、物の哀れはしるべし、然るに、何とて此物語を見て、歌道の本意をしれとはいふや」
もののあわれを知るには、歌を読めばよい。しかし、何故、この物語を読むかといえば、そこに歌道の本意があるからである。
小林秀雄が言う。
「名歌は歌の道を踏んではいようが、歌の道について語りはしない。「源氏」という物語は、その自在な表現力によって、物語の道も同時に語った。物語の道という形で、歌の道とは何かを問う宣長に、答えた」
普通は、物語というと「ただあやしく、めずらしき事をかける書をのみ好む」「物の心を知らぬ、愚かなる人」が目当てである。しかし、源氏は、「なだらかに、哀をみせる」のである。
だが、私は言う。源氏を読まずともよい。歌を読んでみればよい。万葉集を読んでみれば、そこには、もののあわれがあると。
「人にかたりたりとて、我にも人にも、何の益もなく、心のうちに、こめたりとて、何のあしき言もあるまじけれ共、これはめずらしいと思ひ、是はおそろしと思ひ、かなしと思ひ、おかしと思ひ、うれしと思ふ事は、心に計思ふては、やみがたき物にて、必人々にかたり、きかせせまほしき物也」
つまり「その心のうごくが、すなはち、物の哀をしるという物なり、されば此の物語、物の哀をしるより外なし」ということである。
めずらし、おそろし、かなし、おかし、うれし、と思う心、つまり人間の喜怒哀楽、感じなくても、潜在する心の動き、すべてを、もののあわれと言うのだ。
それはすでに、歌の道では、当然にして在るものだが、それを源氏は、語るのである。
歌の道の極意である、もののあわれの視点から源氏を観たということであり、物語は、歌の道も語るのである。
人間の心の様、すべてを、もののあわれと言う。
だが、即座に納得してもらっては困る。というのは、欧米の思想に侵された現代日本人は、実に、それを知らない。
大和言葉による歌の道のことである。つまり、日本語のことである。
日本語は大和言葉より成る。大和言葉が、いかなるものかを知らなければ、納得は出来まい。
それでは、私は、大和言葉を語らなければならない。壮大なお話になるのである。
さて、それを、どういう形で語るかと、佇む。
大和言葉の発生から語らなければならないとしたなら、これは、素人の私には、大変なことになる。
私は、別な通信誌で、伝統についてという題で、万葉集を主にして書き続けている。その中で、日本語の発生についても、書いている。それを、そのまま焼き写しにして、ここに紹介するか否かを考えている。
すると、今度は、もののあわれについてが、遠回りすることになる。
私は、論文は書かない。何故なら、大和言葉を知る私には、論文は、戯言であるからだ。大和言葉は、理屈をこねくり回す言葉の世界ではない。
欧米、及び哲学、思想等々と言う、言葉の駆け引きや、損得等々の言葉の世界ではない。例えば、大和言葉を象徴的に言うならば、志貴皇子の歌を挙げればこと足りる。
「いはばしる 垂水の上の さわらびの もえ出づる春に なりにけるかも」
これは、日本人にしか理解出来ない心情、真情であろう。
ああ、春がきた、春がきたのだ、ああ、春なのである。
他の民族は、とうてい理解し難い言葉の世界、そして、心象風景である。
これを、他国の言葉に翻訳することが出来るだろうか。
水の流れているところに、蕨が出た。春が来たという程度であろう。それを誰が感動するのか。日本人にしか、通じない心象風景である。
大和言葉とは、そういう言葉の世界である。
「久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」紀友則
これを他国の言葉に翻訳することが出来るだろうか。つまり、大和言葉とは、日本人だから、問答無用に、納得出来る言葉の世界なのである。
ただ私は、傲慢に言うのではない。出来れば、日本語、大和言葉を知ってもらい、日本を好む人には、説明を惜しまない。だが、語学の才能の無い、自分を悲観するのである。

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2007年02月05日 12:15に投稿されたエントリーのページです。

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