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善意について2

藤岡とよく善意についてを話し合っていた。
ある時、心臓病の幼児の手術をするための資金に、募金とコンサートの売り上げを差し上げたいということで、そうしようということになった。ところが、その子は、亡くなってしまった。
落胆した。
今、出来ることは何か。

藤岡は、札幌の財団ヤマハにいた頃、ダウン症の子供たちのための音楽教室、療法を立ち上げた。それは善意の気持ちであるが、善意というものは、実によく計算され、実に、よく考えられなければならない。
単なる気分の善意は、善魔となる。
インドのアシュカ王は、仏の供養のために、全財産を捧げた。
主イエスも言う。あの老婦の献金は、彼女のすべてであると。
すべてを捧げる善意というものが、本当の善意であるが、そうすれば自分が成り立たなくなる。
一億を持つ人が一円の募金をする。これ、単なる気分の善意である。
ボランティアということを、考え直す時である。
欧米の人がボランティアという時は、主イエスの言葉「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」という言葉に支えられる。
さて、非難を受けること承知で言う。
インドの聖者となった、マザーテレサの行動である。
誰もが認める善意の行為を成した。しかし、私は言う。彼女は、その行為を、この世ですべて報われたのである。
そして、インドという地の環境を何一つ変えることが出来なかった。仏陀も然り。
今でも、カースト制の中で、つまり魔界の中で生きる人々である。

最低のカーストにいる者も、いつ最近、学業によって、地位を得られる政策を取ったが、最高位のカーストの若者が、それを阻止するデモをするという土地である。
あの国での善意は、大海に一滴を注ぐ行為である。
そして善意を、最も象徴的に成せる国である。
マザーテレサは、カトリック教会の広告塔の役割をしたに過ぎないと私は言う。
ローマ法王の許可を受けて、その修道会を設立した。何故、個人として成すことを、しなかったのか。
それは、魔界の関与である。
9割以上の人の反感をかえうであろうことを、私は言う。
捨て置かれた人に愛をとは、嘘である。捨て置かれる因縁がある故の、捨て置かれるである。
主イエスは、障害者を見た弟子が、何故あのようなことになるのかと尋ねると、彼らの上に神の栄光が下ったと言った。それは、因縁、自業自得のことである。
自己責任を言う。

だから、この世で、ただ今幸せ、溢れる程の金を持ち、施しの気持ちも持たない者は、来世、どのような試練を自分に果たすか、知れないのである。すべては、吾が、決めることである。
人は、生きられない生き方は出来ない。
生きられる生き方のみ出来る。
そのようにしか生きられないのである。
善意の人は、善意に、悪党の人は悪党に・・・
それを誰が決めたか。自らである。
この意味が解る人は、幸いである。
これを語るに、全世界の本を持っても語ることは出来ない。

あえてすべての人の非難を承知で、私は書いている。
善意については、もう語らない。私は、ただ行為することにする。それも、そうでしか生きられない私ということである。
私は、非常に苛立っている。言語は通ずるが、言の葉は通じない、この世に。

千利休の辞世の句にある、我が、この宝剣祖仏共に殺す。今このときぞ天に上げ打つ、という心境である。

新興宗教の開祖、親鸞は、父母のために念仏はしないと言う。自分が仏になれば、父母を救えると言う。嘘である。
それでは、日蓮は題目を唱えて救われると言う。嘘である。
一人でも人を幸せにすることが使命であるという教祖がいる。嘘である。
実相の世界に病は無いという教祖がいる。嘘である。
すべて、因果応報、自業自得が、この宇宙の法則であること、真実である。
それでは共産主義が救いとなるか、嘘である。
それでは民主主義が救いとなるか、嘘である。
すへで進化の段階にあるということを言って、終わりにする。
語りきれないゆえに、私は語り続けてゆく。

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2007年02月09日 08:02に投稿されたエントリーのページです。

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