日本の伝統である、万葉集第一巻の最初の歌。
雄略天皇、御製である。
籠もよ
み籠持ち
掘串(ふぐし)もよ
み掘串持ち
この岡に菜つます子
家宣らへ
名宣らさぬ
空見つ大和の国は
おしなべて吾れこそ居れ
しきなべて吾こそ坐せ
吾こそは宣らめ
家をも名をも
この岡で菜を摘んでいる娘さん、家を言ってください、名を教えてください、この大和の国は、私が治めているんだよ、私から言おうか、家も名も
当時、名を名乗ることは、相手に気を許すことであり、すべてを任せることである。これは一目惚れの歌であり、恋の情である。恋の機微に掛けて、物語を進める源氏物語と同じである。
恋の心の動きに、もののあわれを観る。
君が代、国歌も恋歌である。恋の情を極めると、君が代になる。誰が、君を天皇と定めたのか。勿論、天皇の世であると言っても、間違いない。天皇は国体であり、国体とは国民のことである。天皇と国民の関係は恋に似る。しかし、これについては、省略する。
要するに、人と人との情のやり取りにこそ、もののあわれの発露があると言う。
大和の心が恋にあるという風情である。風雅の元も、恋である。日本の伝統が恋の情から観るということに、私は実に心地よさを感じる。
奇想天外な嘘八百の物語ではない。誰もが感じる恋の情である。それは、自然で平和で、豊かである。大和の心、そのものが恋である。
大和魂というのは、大いなる和の心という。誰か、大和魂を、とんでもない説にしたのは。本当の意味を知らずにいる面々に、私は言葉も無い。
やアまアとオという言霊からも、それは解る。
ア音は、開く、拓く、発する、そしてオ音は、送る、贈るのである。相手に心を送る、贈るのである。
恋とは、乞うという語源であり、相手の魂を乞うという。だが、音霊では、こオひイであり、相手から贈られた心を受け入れるのである。ちなみに、愛は、あアいイであり、開いて受けるということであり、まさに、恋の情である。
実に、言霊の国、大和、日本である。
大和言葉は屁理屈を嫌う。音の一つに意味あるゆえに、多くを語らない。
大陸、欧米の語り尽くす言葉の世界とは、全く違う。あれらは嘘を隠すために、多くを語る。すべて計算であり、損得で言葉が出来上がる。彼らの言葉の元を正すと、必ず損得計算に行き着く。そして言葉自体は、記号である。
西洋哲学等々の言葉の羅列は、喧しいの一言である。それを「言さえぐ」と言う。外国の演劇、オペラ等は、言さえぐゆえに、喧しい。日本人と彼らの言葉に対する感性は全く別物である。
三十一文字の和歌、十七文字の俳句、それに宇宙大の世界を創作出来る言葉の世界を有する。大和言葉が言霊であり、音霊に支えられてあることを知れば、この日本の伝統である言葉の世界、万葉集を、ただただ誇りに思うのである。