ーーーは歌詞を大切にする。詩に感情を託し、自分の人生を投影させる。それが人々の心をとらえる。歌を聴いて、そっとハンカチを目にあてる人も多い。
ーーーの歌は一曲一曲が聞き手の心の琴線に響く。ひとつの言葉が奥深い部分に届く。涸れた泉に清らかな水がひと滴ずつ降り注ぐように、その歌声は人の心を潤していく。
音楽ジャーナリストが書く、あるテノール歌手の解説とも、賞賛ともつかない文章である。このーーーに誰の名前を入れてもいい。
要するに、評論の美辞麗句である。
私は、百人百様の表現や歌があって当然思う。それを前提に言う。
詩に感情を託すのは、アマのことである。人生を投影したなら、それは実にみっともない。プロは冷静である。聞き手の琴線に響くのは、聞き手の問題である。
聞き手は、勝手に感動する。特に、日本人は、歌い手の苦悩や苦心惨憺を好み、演歌嫌いなクラシックファンというものも、実に、演歌のような苦労話を好むのである。
あのピアノ弾きのおばさんなど、苦労話がなければ、あれほど人は聴くまい。
コーヒーのコマーシャルで有名になったテノール歌手などは、歌心も感じないのは、私の感性のせいかと思いきや、やはり単なる、声出しをしているような歌である。それは、藤岡をプロデュースして解った。それ以前は、変なの、と思っていた。声楽家の歌に感動などしなかった。もし、感動をしても、ハンカチで目を拭くことはない。感動するということは、涙を流さないのである。涙を流すということは、その歌い手の苦心惨憺の人生に、よく言えば共感しているだけである。歌自体に、感動するのではない。
歌は上手でも、駄目である。舞台とは非日常である。プロは、歌の持つ力のみで勝負する。その人格のすべてをかけても、歌の持つ力のみで、聴かせるというのがプロである。つまり、冷静な計算と、冷静な計画である。
ブレスさえも計算され、何度歌おうが、一度もそれを変更せず、その声質を縦横無尽に生かし尽くす。
踊りの名手は、感情を客に見せない。舞そのものに見入らせる。勿論、心の不調も見せない。プロたるゆえんである。
芸術は、その人の過去など、ふっ飛ばす。つまるところ、芸術表現とは、その人格と別物になるほど、厳しいものである。
私は知っている。リハーサルより本番の歌の方が、見事に聴かせた藤岡の歌を。多くは、リハーサルの方が勝つ。それは心のあり方であるからだ。
本番と言う極度の緊張感を芸に高めるのがプロである。多くは、緊張に負ける。
上記のような、評論、美辞麗句を書く程度で、音楽関係の物書きをしている様を哀れと思う。
感動も百人百様であるから、これ以上は言わないが、感動しなければ駄目だと思わせるような歌い手は、アマの最もたるものである。
あるピアノ弾きは、いつも不調であり、それが逃げ道となっていた。いつも、不調が理由になる。ピアノ弾きなど止めた方が身のためだと思うが、本人は、町のピアノの先生だけでは満足しない。野心がある。しかし、いつも不調では、プロにはなれないし、ならない。
さて言う。感動は、言葉を必要としない。涙も無い。
感動は、感動のみである。要するに、絶句するしかない。
ある首相が、感動した、と一言言った。それ以外の言葉が出るのは、邪心がある。
至極の芸を見た後は、言葉が出ない。出るのは、甘い。
奇跡を目の当たりにした者に、言葉は無い。
至芸を見た者は、ただ一人、独りになるのである。そして、じっと孤独を見つめる。
芸術の凄まじさは、孤独の世界に佇ませる。己の孤独の深みに突き落とされる。
それに耐えられずに、言葉を発するのは、実に軽薄であろう。
サービスして言う。感動など、屁のようなものである。
芸の極みは「もののあわれ」に突き落として、足腰立たなくするほどの威力がある。
生まれてきたことに、無上の喜びを感じて、生んでくれた親に真こそ感謝することになる。以下省略。
コメント (3)
Hello, nice site look this:
ephedra attorneys california
See you
投稿者: Stephen | 2007年12月27日 07:35
日時: 2007年12月27日 07:35
weight ephedra
投稿者: ephedra with | 2008年03月29日 06:04
日時: 2008年03月29日 06:04
weight ephedra
投稿者: ephedra with | 2008年03月29日 06:05
日時: 2008年03月29日 06:05