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もののあわれについて その20

わたつみの 豊旗雲(とよはたくも)に 入日さし 今夜の月夜(こよいのつくよ) あきらけくこそ  天智天皇御製

海上遥かな大空に、大きな豊かな雲が旗のようにたなびている。その雲に、赤々と夕日が射している。今夜は、きっと月が美しいことであろう。
わたつみ、とは、わだのはら、と同じで、海のことである。海神と今は、書く。海の神とは、海に神が在るという意識だ。つ、とは、遠つ御祖(みおや)というのように、畏敬の、つ、である。み、は御で、神の、みである。わたつみ、とは、大海原といってよい。
豊、とは、豊かであるということ。豊葦原、とよあしはらの、と、である。旗をなびかせているような雲を美称する。ただし、美称といっても、単なる美称ではない。自然に対する尊称でもある。霊妙な自然の働きを神と観る。これが、列島の民族の自然観であった。

月夜は、夜に添えた言葉、月夜を意味する以上に、煌々と照りわたる月の光を言う。
あきらけくこそ、とは、明らかに輝く、である。
すみあかくこそ、さやけしとこそ、さやけくもこそ、きよらけくこそ、さやけかりこそ、等の言葉かある。
最も、日本人が好む言葉であろう。
こそ、とは、そうであれ、そうであろう、という。
あきらけく、実に、人の心の有様を言う。心は、明らかに輝いていなければならない。
清く、明き、直き心とは、古神道の奥義である。
きよらけく、あきらけく、なおけく、とは、心の在り様である。

次の、御歌は、長歌の反歌である。
大和三山を歌われた反歌である。

中大兄 近江宮御宇天皇 三山歌 なかちおひね あふみのみやに あめのしたしらしめし すめらみこと みつのやまのうた
香具山は 畝傍雄々しと 耳梨と 相諍ひき(あいあらそいき) 神代より かくなるらし 古へも 然かなれこそ 現身も(うつせみも) 嬬(つま)を 争ふらしき

香具山が畝傍山が勇ましく悠々としていると、耳成山と相争ったという。神代の頃から、このような争いがあったことである。昔からそうであれば、今の世の人も争うのであろう。
嬬とは、配偶者を言う。妻の場合も夫の場合もある。
詩人や学者の解説を私は取らない。これは、天智天皇と、天武天皇との、額田王の関係を云々するが、それは浅はかであり、物知らぬ者が言う。
私は、大化の改新を断行した、中大兄皇子の人柄、性格を観る。これは、省略する。

反歌の方を、読む。
万葉の歌は、何事もない自然を読むものが多い。実に大らかである。しかし、その大らかさにある、自然畏敬と、自然共感は、言葉に絶するものがある。
ある研究家は、この歌を、万葉集第一の歌、最高傑作だという。
人と自然との心的交流は、確かに絶大なものがある。このようにして、自然を捉えていた。また、自然も、ありのままにあった。自然がありのままとは、自然破壊がないということである。
人の生命感と自然の生命感との響きを感じる。対立はない。互いに融合して、結び合うのである。これこそ、縄文期以前から培われてきた列島の民族の、感受性であり、感性であろう。
すべてを、自然から学んだのである。そして、その自然に畏敬の念を持って、神と尊称して臨んだのである。
自然崇拝、これこそ、自然であり、それと同体になることが理想だったのである。つまり、自然と同化することが、神への道であった。唯神、かんながらの道とは、自然との合一である。
万葉集における心は、それに尽きる。

人の死も、自然に同化してゆく、ゆえに、隠れる存在になったのである。また、人の死は、自然に抱かれることなのであり、無くなったことではない。この延長に、祖先崇拝がある。祖先と自然は、同体であり、生きている人間も、自然と同体になるのであるから、死者とも、共にあるということになる。
日本人の死生観は、ここに尽きる。
もののあわれを語る時、この基本を忘れてはならない。
存在するもの、すべては自然の内にあり、何物も、自然の外にはない。それが、もののあわれの、もの、である。あわれは、人間の心的状態を言う。
この、あわれを観るべく、万葉集を進む。

万葉集巻七、作者不明の歌。
大海の 島もあらなくに 海原の たゆたう波に 立てる白雲
大海の 水底とよみ 立つ浪の 寄らんと思へる 磯の清けさ
海原の 道遠みかも 月読の 明すくなき 夜はくだちつつ

どうであろうか、この天真さを。自然の生命感と一体になり、何の揺るぎも無い。
精霊信仰などという、小賢しい考え方などない。
渾然一体の自然との共感である。
あわれの姿、ここにあり。

夜は、くだちつつ、とある。
この意味が知りたければ、調べるとよい。
読書家という者どもは、すべて解説されるのを、求める。
実に、見苦しい。
本を読めば、すべが理解できると思う、根性が、私は、気に入らない。
本を読めと言うが、考えろとは言わない。
本を読むだけでは、詮無いことである。本だけを読む者は、行為しない。それで、何事かを解ったつもりになる。愚かである。哀れである。もののあわれの哀れと違う。
文献主義の学者の様を見れば解る。何も、知らないと、一緒である。
知らないことを、本を読んで知るという。それも誤りである。知るとは、霊感を持って望むことである。霊感の無い学問は、無学問と言う。
霊感の無い学問、学者は、無用である。

私の霊感は、いつも戦っている。妄想とである。
これが理解出来れば、幸いである。

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2007年03月03日 00:26に投稿されたエントリーのページです。

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