ここで、飛鳥、奈良時代について言う。
文明開化の明治時代は、意識するが、それ以上に激しい外国文化が輸入された、飛鳥、奈良時代を言わない。
漢学や、仏教という思想が雪崩のように入ってきたのである。
それを、咀嚼したから、驚く。
祖先たちが、飛鳥、奈良時代を生き抜いたことで、日本の精神的支柱が成ったといってもよい。心は、十分に充実していたのは、歌を見れば解る。
ここで反省であるが、確かに、漢学、仏教という思想が入ってきたが、それは、後に、日本人の影となる。
清き、明るき、直き心の大和心に、陰りを帯びるのは、仏教の思想からである。
特に、平安期になると、それは貴族の生活を支配したし、それが、主たる考え方になった。あの平安期の貴族の退廃した生き方は、尋常ではない。
万葉時代の、あのおおらかな性が、平安期になると、無常に変化し、それゆえ、人は、快楽的になり、なお、そこに無常をみて、仏の救いを頼むという、何とも、救いがたい、性の退廃を生きるのである。
仏教がアクセサリーと化したのも、平安期からで、今も続いている。
信長の時代も、仏教は退廃していた。そして、江戸幕府三代将軍の家光の時の、キリシタン弾圧のための、檀家制により、確実になった。
仏教は、最初から堕落を教えたのである。
今、般若心経がブームであるという。あれは、三蔵法師玄奘が訳したものである。大般若経の心臓部であるというが、あれを読み込むと、思考が空中分解する。要するに、理屈の極みである。大和言葉で言えば、言挙げする、言さえぐの、最もたるものである。
私も、一時期、五年ほど唱えていた時期があるが、言霊として考えても、迷いを現す。
何事か、解った風に納得させるようだが、実は、無い。
大乗仏教の饒舌の故に出来た、思想、考え方である。
空観という思想は、魔界からのものである。思考の弄びに過ぎない。
最もらしく多くの者が説明するが、誰一人、救われている者は、いない。
糞は空である。空は糞である。糞即空、空即糞、と書けばよく解る。空という妄想にすべてを帰結させて、煙にまいている。言葉遊びの骨頂である。
古神道は、在るものは在ると言う。そして在るものは、それ自体に働きがあり、その働きを尊称して、神と呼ぶのである。
真直ぐにものを見れば、それで良かったのである。
仏教は、日本の思考を複雑化させ、なおかつ堕落させた。言霊の言葉を、堕落させた。延々と語ることが出来るというのが、ウソの証拠である。
多くの仏典の根拠は無い。まして中国からの経典には、偽作したものも多い。あの中国人のやることである。目的のために、手段を選ばない。
半島を通り、大陸中国から輸入されたというのが、悲劇の元である。中国思想に変形した仏教を持って、真実の仏教だと、思い込んだのである。
無常という思想は、仏陀には、無い。仏陀は、今が永遠なのである。
インド魔界の数の遊びを仏教に結びつけた者の罪は重い。
ちなみに言う。
すべての人が救われる仏の教えという考え方は、最澄からのものである。
玄奘三蔵法師の立てた、法相宗には、はっきりと、救われない者もいるという教義がある。最澄は、耳障りの良い仏教を立てたのである。
山川草木皆仏性などという言葉は、創作である。そして、空海の真言密教である。仏教とは、何の関係も無い。あれは、インドバラモン、ヒンドゥーの呪術からのものであり、それを中国の言葉遊びの極みから創作されたもので、とうてい仏教とは、信じられないのである。
それでは、鎌倉仏教とはいえば、すべて新興宗教であり、仏教と言えない。法然教、親鸞教、日蓮教、道元教である。皆々、元を正せば、中国仏教のものであり、その中国仏教は、今は、皆々滅んでいる。
ここで言えることは、すべて人間が作り上げたものであるということである。
それを仏からのものと考えるのは、愚かである。
万が一、仏という超越した存在があるとしても、言葉にして教えを説くことは無い。
超越したものが、人間の言葉で語るというのがウソである。
万葉の歌を読めば、山川草木皆仏性と言わなくても、自然のすべてに神を観ていた。理屈ではなく、自然をそのままに観て、共生し共感していた。あえて、自然は神であるなどと言わない。言う必要がないほど、当然のことだった。
言葉にすると、迷うのである。
即ち、仏教とは、あえて、人を迷わすものである。
仏陀の教えは、仏教にはない。いずれ、詳しく説明する。
三次元と四次元空間にいる人間には、それ以上の次元の世界は見えない、聴こえない。精々、うろうろとしている霊、幽霊を見るのが関の山である。
上記、話があらぬ方向に飛んだが、いずれ、般若心経のウソも書くことにする。
ニィーチェは、神は死んだと高らかに言う。そして面白いのは、神ではなく、怨念が人を、時代を作るという。
私は言う。
宗教は死んだ。
その妄想の、または、根拠なき、教義なるものは、無である。要するに、無い。
この世には、在るものしかない。
確かに、霊界にも、人間の妄想、想念で成る場所がある。
しかし、この世も、あの世も、在るものしかない。
この世の在るものは、自然である。
自然と対する思想に二通りある。
対立と支配であり、欧米の思想である
共生と共感は、日本の思想である。
欄外は、無視する態度である。
大和言葉を有する日本人には、欧米、インド、及び中国の、言挙げする思想、言葉遊びは、いらない。
何故か、大和言葉は、それ自体に意味がある。彼らの言葉は、記号であり、組み合わせである。つまり、多くの言葉により、事を説明しなければ、如何ともし難いのだ。
それを、理解し、身に付けるのは、日本の事、大和言葉を説明するに必要である。それだけである。
大和言葉でなければ、和歌も俳句も成立しないのである。何よりの証拠である。
他国の言葉に翻訳出来ないことが、証拠である。
和歌を翻訳しようとすると、膨大な言葉が必要になる。それでは、意味を成さない。