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もののあわれについて その23

言霊の力を感じる歌を紹介する。
天智天皇の皇后、倭姫の歌である。
天皇窮不予之時大后奉御歌一首
すめらみこと おほみみやくさ みたまいしとき おおきみの たてまつれる みうたいっしゅ
天の原 ふりさき見れば 大君の 御命(みいのち)は長く 天足らしたり
あまのはら ふりさけみれば おおきみの みいのちながく あまたらしたり

天の原とは、天空である。学者は瑣末な文献をもって、色々と議論するが、天の原といえば、天空に決まっている。
ふりさき見ればの、ふりは、振り切る、振り捨てるというように、動詞に冠し、意味を強める接頭語である。
さけは、放つである。
御命長くは、永遠を言う。
天足らしたりとは、満ちるという意味である。
天空を遥かに仰げば、大君の命は、窮することなく、永遠に満ちている。そういう意味になる。
これは、天智天皇が病床に臥されてからの歌である。
初期万葉の命に対する思いが、ここではっきりと言われる。
人の命は、永遠である。今、この肉体が衰えても、その命は、永遠であるという確固たる信念である。
命を漢字で書くから、限定されるが、いのち、と書くと違う。
いイのオちイなのである。受けて送って受けるという、母音の一音の意味から、いのちは、息と同じように、繰り返されるということである。
私は、瑣末な文献により、万葉集を読まない。祈りつつ、万葉集を読む。
天に満ちる、いのちなのである。
いのちは、いのちの大本から流れている。それを、頂いて人のいのちがある。その、いのちにつながる、皆々、つまり、祖先、御親、みおやという、連綿として続くいのちの輪に在るということだ。
縄文から続く弥生の精神である。縄文の思いが、弥生に理念として、花開くのである。国生みも、弥生から始まるが、その原点には、縄文が息づいている。その息づく、連綿とした祖先とのつながり、そこに、いのちが在る。

天の原に、天足らしたり 天に満ち満ちるいのちの充実である。
これを現代は、失った。
再び、この、いのちの充実感を取り戻すことである。
万葉に、振り返ることである。
この歌は、単なる病気平癒の歌ではない。いのちの、永遠性を歌うものである。
生命感覚と言う。いきる、いのちを かんじることの おぼえ である。
御命、みいのちと言い、いのちを、一つの人格のように扱う作法に、感嘆する。
私の内に、御命が宿っているという感覚である。
いのちは、いのちというものに、帰結する。一人のいのちは、一人のものではない、皆に平等に充満して与えられている、大いなる、いのちなのである。

古代の人々の、いのちの感覚を見出して、日本の伝統の神道というものが解る。
いのちは、かみなのである。
その、かみへの道を、神道という。唯神の道と言う。
御とは、神と同義であるから、日本人は、神という言葉を尊称して扱う。
神は、人間を超越したものでも、何でもない。人間の延長にあり、いのちを生きるものを、神と尊称して呼ぶ。これを理解しなければ、万葉の時代、それ以前の時代を理解できない。
何とか、日本の神観念を、取り戻したのと思う。欧米の思想にある神という概念でも、観念でもないということを、繰り返し言う。

もののあわれの、ものとは、いのちのことである。
いのちが、あわれなのである。
あわれが、慈しみの感情に、情緒にあるということは、以前に書いたが、繰り返し言う。
慈しみも、あわれの、一つの場面なのである。

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2007年03月08日 18:23に投稿されたエントリーのページです。

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