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2007年04月 アーカイブ

2007年04月08日

もののあわれについて34

欧米の思想とは、日本の思想は、全く異質なものであることを言う。
イギリスの歴史家サンソムの文である。
「日本人はその歴史を通じて、「罪悪感」の問題を識別する或る程度の無能力さと、又この難問題を解くことに或る程度の気乗りなさを示している。・・・古代から現代まで、日本人の歴史を研究する際に困難を感ずることの多くは、日本人がなべて罪悪感の苦悩を味わっていないことを想起すれば、比較的よく分るのである。」
それに関して、福田恒存の文がある。
「日本人の道徳の根底は美感であります。そして、その美感の最低限を示す原理が「汚れていない」ということであり、それがまた同時に最高原理にもなりうるのです。つまり、「汚れていない」という「醜悪の欠如状態」が積極的な最高の美になりうるのです。」

罪悪感という命題は、キリスト教の原罪という教義から生まれる。生まれたことに罪悪感を抱くように教義がある。それを解決するために、洗礼という秘蹟がある。秘蹟とは、カトリックが行うところの儀式である。
このカトリック教会というものも、初期キリスト教では、単なるキリスト教の一派であったが、時の皇帝と結び、正統とされて認証され、他の宗派を異端として退けたものである。
さて、私は言う。
原罪という妄想を教義にして、キリスト教全般は、人を裁いてきた。
原罪など、あろうはずもない。生まれて生きているということは、恵みである以外の何物でもない。
キリストの洗礼を洗礼と言っているうちは、キリスト教にも、救いは無いこと確実である。
イエスは、洗霊を言うのである。
古神道の御魂鎮めのことである。清め祓いを言う。
罪悪感を持たない日本人を、欧米人は理解出来ない。そんなものは、無いからである。
原罪は、旧約聖書のアダムとエバから始まる。智恵の実を食べた、つまりそれは、神との約束を破ったということである。そうして、男は額に汗して働くことを、女は生みの苦しみを得たのである。そして、もう一つ、最も人間の弱さである性の欲望をも、罪にしたという仰天であり、それは、支配欲である。人間を支配するに、最も弱い部分、決して逃れられない部分を支配することで教義が成り立ち、そして人を支配しやすいのである。

旧約聖書の神は、裁きと嫉妬の神であり、契約の神である。
神は、神もどきであり、人格を持つ者であり、神とは言えないのであるが、彼らは、神と言う。そして、祭上げて信仰する。
日本には、そのような人格神はいない。また、唯一絶対の神観念も無い。
無いものを在るということほど、罪はない。
この、罪という言葉も、大和言葉では、全く違った意味になる。
大和言葉では、欧米のいう罪という観念は無い。
つみ、という言葉には、海神、わだつみという如く、罪という文字は、当てはまらないのである。
現在も、日本では、近代法、法律としての罪はあるが、精神的空間における罪は無い。
原罪という罪意識を持って支配しなければならない、野蛮な民族ではないということである。

大和言葉の、つみという意味は、作り結ぶという意味からなる。
つみ、つむから、つみという関係で成り立つ。
つ、とは手の行為、手も、実は、た、という言葉である。掌とは、たなごころと、手をいう。
手の行為の、つは、空間的存在である、ま、への行為、む、とが結びついた語である。
つみとは、摘み、積みという意味であり、欧米の罪と異質である。
自然の幸をもたらす行為を、つみという。
山つみ、海つみとは、山の神、海の神ということであり、それは、自然の幸をもたらすものである。こうした、自然の恵みに対する行為を、つみと呼ぶのでありも、それを罪という漢字に当てただけである。

福田氏が言う、美感は、汚れていないということ、それは、醜悪の欠如状態であると言う。
古神道が、霊も体も、清め祓いをするのは、それである。
霊は、言霊で清め、体を水で祓うのである。
これ、すべて自然から学んだ作法である。
稲は、水がなければ育たない。水による祓いによって、成長する。それを育てる人間は、祈る、言霊を掛けるしか術が無い。後は、自然が成すことである。
自然を征服して成り立つ欧米の思想と、自然と共生共存する日本の思想は、根本的に違うのである。

だから言う。彼らの思想の言葉で、日本を理解出来ないと。
饒舌多弁な彼らの思想、その言葉で、日本を理解出来ないと。
ギリシャ思想によって、積み上げた神学なるものは、妄想の積み重ねである。人が作ったものであり、神が作ったものではない。
彼らの思想には、万葉の歌一首で解決するのである。

円借款

日本政府は、3月28日に、インドネシアの社会資本整備などを支援する998億円の円借款を決定した。
昨年よりも、33,7パーセント多い。しかし、それはインド向け円借款より、少ない。つまり、インドには、もっと多額の円借款をしている。
円借款とは、貸しているのであるが、結局のところ、差し上げているのと同じである。

タイ、バンコクに地下鉄が出来た時も、日本は、その資金の8割程度を支援している。
それを言うと、タイの人は、皆、驚く。知らないのである。
実は、もう一つ、タイの人が知らないことがある。
蛋白源として天皇陛下が、タイのプミポン国王に、魚を送った。それが増えて、今では、タイの人々の食卓に乗っているのである。

日本は、多くの国に、多くの支援をしている。
多くを語らないでおく。

さて、私は、アジアと世界と、日本を結ぶ「テラ」の会を立ち上げている。また、アジア向けの活動を「アマテラス」の会としている。
上記のような情報を元に、アジアの人に日本に対する思いを正しく持ってもらいたいということと、日本語セミナーによって、より、日本を理解してもらうこと、そして、民族音楽の交流、また、より親密な日本との関係である。
いずれ、アジアの人に日本は、多くお世話になると、考える。
特に、高齢者の介護等は、もう、目の前に迫っている。

タイ、チェンマイでは、20年ほど前に、日本語学校を成した人がいる。無料で日本語を教えた。それにより、チェンマイの人は、日本語の旅行ガイドなどで、収入を得られるようになった。
チェンマイは、売春の外貨稼ぎで成った町である。バンコクに次ぐ、第二の都市と言われるが、経済的には、大変である。

今、日本の高齢者が、多くチェンマイに長期滞在している。半年、半年と日本とチェンマイを行き来している人もいる。
年金で十分にやってゆけるのだ。
そしていずれ、彼らは、チェンマイにて介護を必要とするようになる。日本にては、介護を受けるためには、大変な時間を要するようになる。今でも、介護施設は、職員が足りずに、順番待ちをしているのである。
東京都は、団塊世代の350万人の介護の準備が出来ず、大変だと言っている。
そこで必要なのは、日本語と日本の文化の理解である。
それを私は、やろうと思っている。高齢者のためだけではない。日本を理解して貰うことである。それは、いずれ大きな形で日本のためになる。

チェンマイだけでない。そこから、ベトナム、カンボジア、ラオスにまでも広げたいと思っている。
日本理解のためには、一番良いことは日本語を知ってもらうことである。

そして、バリ島を拠点にした活動から、オーストラリア、ニュージーランドまでを視野に入れている。
あちらに行き、英語を学ぶ人は多いが、日本語を紹介する人は少ない。
いずれは、日本人が、あちらの土地に住むことも多くなる。また、彼らが日本に来るということもある。勿論、日本の支援のためである。いろいろな意味がある。

もう一つは、温暖化のゆえに、水没する島の住民、特に未開の部族の人々が、移住している。彼らとの交流も考えている。
ここまで書くと、あまりの大事に、嘘のような感じになるだろうが、私は、日本人の個人として活動したいと思っている。

日本は、多くの国に支援をしているが、それを公に公表しないゆえに、誤解されたままになっていること多々あり。
インドの経済の活気も、中国の経済の活気も、日本が無ければならなかったことである。それを、両国民が知っているだろうか。
今、中国に行くことは出来ない。反日感情の盛りである。
中国の若者にも、言われた。今は、着物姿で行かない方がいいと。
江沢民は、あれ程の日本の支援を当たり前に言うが、それに中国という国は象徴されていいる。
日本の支援で、せっせと、日本に向けて武器を作るという仰天であるから。
まあ、自己崩壊するのであるから、見ている。

インドネシアの遺跡、公共施設など、多く日本が戦後保障という名目で支援して成ったものである。
旅する日本人のアホは、そんなものを見ることも無いが・・・

日本が敗戦したことにより、どれだけのアジアの国が分離独立を果たしたかなども、皆、無視している。
正しく歴史をと言いつつ、韓国、中国の偏狭な歴史観によって、それを押し付けられている日本である。
そろそろ、民間人が動いてもいいと思う。
それを、私がする。
私の勝手でする。
私の心情でする。
私の人生最後の活動になる。

2007年04月09日

もののあわれについて35

清め祓いの世俗化は、茶の湯を見れば解る。
村田珠光、武野紹鴎、千利休へと続く、茶の湯は、まさに、唯神の清め祓いを世俗化したものとなった。
彼らは、禅と縁したが、結局、行為したことは、日本の伝統である、清め祓いを成したのである。
現代の茶道というものではない。彼らの茶の湯は、現代の茶道とは、似てもにつかいない。
その所作にあるものを見れば一目瞭然である。
炭を起こし、湯を沸かし、茶を立てるという行為に、汚れを廃した。
後に、侘び寂びといわれる、心的状態も、清め祓いの清涼感である。

仏教からの無常観を、無常美感に昇華したのも、それがあったからである。無常観を咀嚼してしまったのである。
生まれて生きることに、何の罪悪感も持たない民族である。ただ、汚れたものを廃した。
民族が罪悪感を持った、西洋の国々は、どうであろう。他民族を一掃し、他民族を皆殺しにすることを平気で成した。
一体、何ゆえの罪悪感だったのか。

日本では、一人、罪悪感を徹底して意識した人がいる。
親鸞である。
私のような罪人が救われるはずはない。しかし、弥陀の本願により、救われない私も救くわれることになるという。特異体質であった。
西洋型の哲学的思考を好んだのだろう。
法然に帰依し、徹底した他力の信仰を実践する。
ちなみに、親鸞から、日本の僧は、妻帯したというが、実は違う。親鸞の前に、すでに僧たちは、妻帯していた。親鸞が素直なだけだった。
つまり、日本の仏教家というのは、多く堕落していたのである。

さて、親鸞の弱さの強さと言うが、私は、どうもこの頃、不信に思う。
歎異抄の美しい文に魅せられて、一時、私も酔ったことがあった。そしてそれは、大和言葉であったから、なお惹かれた。
「なごり惜しく思えども娑婆の縁尽きて力なくして終わる時に、かの土へは参るべきなり」
名残惜しいこの世てあるが、縁が尽きて死に赴く時、あちらの世界へ行かなければならないと、言う。
徹底した諦めの心的状態であり、他力の極意である。
ここに、万葉人の、大らかな死に対する心的状態は無い。仏教の一派による、狭く苦しい、惨めな諦め、それを信仰と言うのである。
自然回帰の万葉人の、雲隠れの考え方は無い。
弥陀の本願という妄想に、捕らわれて、心酔する様が見える。
彼が、キリスト教に似ると言われるが、弥陀を神に置き換えると、そういうことになる。弥陀は、愛の神になるのである。

鎌倉時代に吹き荒れた新興仏教の影響を、そのまま受けたのである。
要するに、外に希望や夢を求めたのであり、内にある、真実を見なかった。見えなかったのである。
内にある、万葉の心である。

それは、他力本願の日蓮にも言える。
他力という妄想からして、すでに堕落している。
万葉には、他力も自力も無い。
在るものが在るという世界観である。
日蓮は、仏法が東の日本から、再度インドへ向けて伝道するのであると言う、妄想に取り付かれた。
自意識過剰、誇大妄想は、日蓮を強固な人にした。強固とは、捕らわれである。
日本を救うという妄想に、法華経を掲げて、誤りを犯した。
なんとなれば、邪教を信じる故に、国難に遭うと言うのである。蒙古襲来も、それゆえであると言う。狭い世界観のみが、彼を迷わせた。
今も、その日蓮の考え方を持って、国というものを意識しているが、単に、情報が少なかったせいであるとは、気づかない。
立正安国論とは、戯言である。
それ以前に、法華経が仏陀の最後の教えであるとは、何の根拠も無い。

実は、大和言葉の乱れの元は、仏典にある。仏典を読経することによって、清涼な大和言葉が、濁音や、吃音に成ったのである。
じゅ、ぎゃ、叩き潰す音や、濁りの音を仏典を読経することによって、発した。これは、非常に罪である。
経文により、邪霊、悪霊、怨霊の類を治めるという考え方は、実に、愚かである。低レベルの霊界の存在する霊を相手に、何事かを成して、霊力があると思い込んだ。
今でも、多くの霊能者といわれる者は、低レベルの霊を扱い、さもさもしく、霊力があると思い込む。単なる、レベルが低い霊を相手にしているだけである。

欧米の罪悪感、仏教の罪の意識、真に、妄想逞しいものである。
無いものを、有るものとして思い込むから、世話がない。
これにより、知識というものが、迷いであるということが解る。
日本の最初の迷いは、仏教伝来であり、それ以後は、儒教、道教による。
そして、第二期は、明治期の西洋礼賛である。
私は、それを否定しない。国際的関係を学ぶことは、他を知るということであるからだ。しかし、それによって、我が国の有るものを卑下する必要はない。
今でも、他国を評価して、日本は駄目だと言う人がいるが、それならば、即刻、その理想の国に移住すればよい。今は、そういう時代である。しかし、そういう者も、一向に日本から離れず、日本批判を繰り返す。
要するに、幸せ者の、戯言なのである。

ウイーン

音楽の都ウイーンでも大変なことが起こっている。
若者が、クラシックに見向きもしないと言う。多くの劇場、コンサートサロンがあるが、そこで出演する音楽家に、とんでもないことが起こっている。
チケットノルマが当たり前になっている。日本と同じである。

日本のクラシック界は、どうか。盛況である。
しかし、いつも同じ顔である。
私の主催コンサートは、極端にお客が少ないことが多々ある。チケットをばら撒かないからだ。
満席のコンサートは、皆々、弟子や、その眷属たちであり、本当にクラシック音楽が大衆のものになっているとは思えないのである。
その理由は簡単である。
クラシック音楽の世界、音楽家や、ファンは、音楽を知らないからである。
音楽という観念を持って音楽であると思い込んでいる。
しまいに、本当のバッハを聴いたというような評を読むと、愕然とする。本当のバッハと言う根拠が、どこにあるのかということで、唖然とする。

バッハの音楽を言えば、バッハは、自分が作曲したものは、演奏すると捨てていたのである。
奥さんが、それを残して、今、現存している。
驚きであろう。
バッハは、音楽を知っていたからである。
音楽は再現芸術ではないということである。
しかし、いつからか、クラシック音楽が、再現芸術として良しとしてきた経緯がある。

実は、音楽は瞬間芸術である。
頭の悪い下手糞なピアノ弾きが、ベートーベンを弾いても、馬鹿で下手なベートーベンしか弾けないのである。
それに小ざかしい小理屈を言うから、終わっているが、それが、日本のピアノ弾きの大勢だと思えばよい。
ピティナとか言うピアノ教育団体があると言うが、あれを野放図にしている様が理解出来ない。

私は素人だから、名前はよく知らないが、女の、たしかアルゲリッチとかいうピアノの演奏を聴いた。たまたまである。
あら、これなら喧しくなくていいと思った。
そして、映像であるから、彼女のピアノの弾き方を見て、納得した。実に、理にかなっているのである。
鍵盤を叩くのであるから、あのような手付きにならなければ、駄目である。
一体、日本のピアノ指導者は、何を教えているのであろうかと思った。
弾き方さえ満足に教えられないのである。

そして一音が一音ではない広がりを持つ。
どうして、あのように弾かないのか。方法が解れば弾けるはずであると思うが、余程、日本のピアノ弾きは、頭が悪いようである。
そして、一音に広がりがあるという意味を理解出来ないのであろう。
厳密に音程をと言うが、音程さえも知らないのである。
音程が何に支えられているのかということを知らない。

私の歌に、歌心があるので、音程さえしっかりすれば、スラバなどより、良いという投稿をくれた人がいた。
私の歌に歌心があるならば、音程ではなく、私の心象風景であろう。また、私が、その人の言う、音程なるもので歌えば、私の歌にならない。
彼らは、音程という観念、あるいは概念に毒されているのである。
つまり、クラシック界は、観念の世界であること明々白日である。

例えば、沖縄民謡など、実に幅広い音程がある。一音に無限の広がりと響きがある。
例えば、三味線や琴の音もそうである。勿論、調弦という音合わせをするが、弦というのは、狂いが生ずる、その狂いの間合いが、音になる。

音楽という、音という意味も、楽という意味をも知らないようである。
音楽学という学問があるが、あれは仏典のように、寝ぼけたことを延々と書いて、堂々としているから呆れる。
ああいう理屈で音楽を聴くから、音楽の意味など知らないのである。

西洋音楽に関しては、もう面倒なので言わない。
日本の音楽は、神楽である。
これは神と共に楽しむという意味でよい。
神呼びをして、神と共に歌い、踊り楽しむ。
簡単に言う。
演奏者と聴く者が、一緒に音楽を作るのである。
掛け声あり、踊りあり、実に楽しい。
座席に座らせて、じっと聴かせるような音楽ではない。
室町期に猿楽、能が出てきて、それを堕落させた。
それから、堕落の一途を辿った。あれが伝統芸だと言うから、笑う。
世界遺産にもなっているという。
舞台に上がっている者だけが、楽しんでいるのである。
歌舞伎にいたっては、終わっている。血筋にのみ、何か許されたものがあるかのように、狭い世界を作って、伝統だと言う。勿論、否定はしない。あれを見て、楽しむ人がいるのであるから、何をか況やである。

伝統という言葉も、曖昧になり、千年も経ていないものを伝統という根性が解らない。
能は、世阿弥で終わり、歌舞伎はお国で終わった。後は、惰性である。本人たちは、芸術だと信じ込んでいるから、何もいうことはない。

伝統とは、誰もが享受出来るものであり、その民族の者であれば、無償で成せるものを言う。
誰もが享受出来るものは、万葉集である。
そして民謡から始まる歌謡である。
そして伝統は、創意工夫によって進化する。
茶の湯の千利休は、茶の道、創意工夫であると喝破した。今の茶道家元が嘘であることが解る。あれは屑のような手前を、商売の道具にしているのである。
礼法ならば、武家礼法の小笠原流で足りる。

さて、ウイーンである。
その様を見れば、クラシック音楽の有り様が大変革の時代に入ったと見るのである。
一部の貴族のために始まった、西洋音楽の流れが民衆に開示され、今に至り、そして、音楽は、いよいよ民族音楽との融合期に入った。

西洋音楽の世界支配が終わったのである。
その底には、キリスト教支配がある。
イエスキリストがユダヤ人に殺されたように、今、イエスキリストが現れれば、世界中のクリスチャンが彼を殺すであろう。何一つ、彼の言葉を実行していないからである。
汝の敵を愛せないクリスチャンであるから、当然である。
中世からキリスト教に抑圧されていたイスラム世界が、各地の民族音楽が、堰を切ったように音楽として登場するであろう。

ピティナで儲けていた人も、音大、芸大もご苦労様でした。
ということになる。

2007年04月10日

国の借金と国民の貯金

財務省が、2006年末で、国の借金が、832兆円に達したと発表した。
地方の借金を加えると、1000兆円に達する。

日銀が発表した、2006年の家計の金融資産残高は、1540兆円である。
国の借金よりも、貯蓄が多い。

国に、万が一のことがあれば、国民の資金を調達出来るのである。

さて問題は、貯蓄の主である。
格差が言われる。持てる者と、持たない者の差は大きい。
私は、幾人も、使いきれないお金を持つ人を知っている。単に貯めるだけである。利権によって、維持する金持ちである。
彼らは、有効にお金を使うことが出来ないのである。
お金持ち程、使わないのであるから、お金持ちと言えるのか・・・

お金持ちの子孫になると、アホであるから、どうしようもない。単なる金持ちである。役立たずの金持ち程、見苦しい者は無い。

ここで、日本の貯蓄を狙う禿たかがいる。
多くアメリカ資本の者である。ユダヤ資本といってもいい。
それらに、日本の金融は、どんどん侵食されている。見えない形で成されている。
保険のコマーシャルを見れば、保険の世界がアメリカ資本にやられていることが解る。それは、今までの日本の生命保険会社が、いかに、愚かなことをやっていたかということである。
一時期、保険会社が、どんどん潰れた。潰れるべくして、潰れた。
しかし、それを成した者どもは、大枚な退職金を得て、引退しているという現状である。
日本の経済を滅茶苦茶にしての引退である。
その死後、大変であろうと想像する。
のうのうと、優雅な老後を送るのである。死後の世界を知らない、幸せである。

私も、付き合いで加入した保険会社が、二件倒産して、気分の悪い思いをした。
外交員が悪いのではないが、外交員も、その一端を負うのである。

さて、国の借金を国民一人当たりにすると、651万円である。
今、個人で651万円を借りられる人が、どれくらいいるのか・・・

国民という幻想に乗せて、政治家は、行動する。
国家という幻想に乗せて、国民がある。
いずれは、国民、後々の国民、つまり、子孫がそれを負う。
651万円など、物の数ではない政治家がいる。それらが考えることであるから、平然としている。
しかし、大半の国民は、貧しい。
貧しいが、世界的に見れば、豊かである。これが、いずれ命取りになる。

実に、日本という国は、神の国であると言いえる程、恵まれているのである。
問題は、これから始まる貧富の差である。
アメリカから入って来た、ねずみ講ばりのシステム販売のうたい文句が、日本は、貧富の差が激しくなるから、今のうちに、会員になり、準備するべきだと言っていた。要するに、アメリカのようになるということだったのだ。
アメリカでは、そういうシステム販売のデストリビューターが圧倒的に多い。
自分の下につく会員が多ければ多いほど、収益が上がるのである。一見して、良さそうに見えるが、魔界関与のシステムである。
それを成功哲学云々と言うから、笑う。
金があることが、すべてであるという哲学である。

実に、今、それで成功した者たちが、絶望の淵にある。
日本の神は、魔界の関与を嫌うからである。
どんどんと、そのシステムから離れる人が多い。当然である。
まやかしなのである。
魔界関与のものは、一時的に隆盛を極めるが、落ちるときは、直下に落ちる。

日本の貧富の差を解消するものは、日本の伝統的精神である。
日本の魂の語源は、たアまアしイである。
たは、手のこと。まは、間のこと、しは、配布である。
たましいとは、分配の法則を言う。
ちなみに、母音は、アイである。
アとは、開く、イとは、受ける。開いて受ける。これ、アイである。
手と手の間に、それぞれの収穫を配布することを、魂と言う。

精神は、言葉の世界であり、心は、息遣いであり、魂は、人と人を結ぶもの、繋がりを言う。ユングが言う、民族の集合意識に近い。
霊学から言えば、心は、霊体を、そして魂は、光であり、その光は、民族の集合の意識に集約される。
ただし、魂の意識のレベルまで、辿れる人は、稀である。
霊体で、とりあえず、次元移動する。
それが出来ない人は、例の、保険会社幹部などは、幽霊のままに、漂うことになる。

疲れてきたので、以下省略する。

もののあわれについて36

欧米で言うところの、罪と罰という観念がなかった、大和人である。
罪と罰とは、絶対神を置く民族に有る。
罪と定める神がいて、それに罰を与えるのである。勿論,それを成すのは、神の名を借りた支配者、時に聖職者といわれる人々である。
大和には、わざはひ、けがれ、があった。
わざはひは、荒ぶる神によるものであり、けがれは、感じる我が身のものである。
従って、大和人には、荒ぶるものも神であり、つまり、自然であり、欧米の言う、悪魔という存在は無い。
神と悪魔との対立するものを置くことを、しない。
脱天使を悪魔と定めるというのも、実に創作的である。
彼らには、どうしても、対立が必要なのである。それを知らず、日本人には、神がいない等々、余計なお世話である。
神不在の云々という言葉を聞く時、余程、欧米の思想に毒されているとしか言いようがない。欧米の思想、すなわち、キリスト教である。あちらは、兎に角、キリスト教の神との対決しかないのである。無いものと戦う程、哀れなことはない。
観念に対決するのであるから、ご苦労様である。
神は死んだというニーチェさえ、神との対決をしたのである。

大和人から、日本人への移行で、罪悪感を植えつけたのは、仏教である。地獄の思想を持って望んだというから、笑う。
地獄へ落ちるなら、まだ救いはあるが、インド魔界は、魔界であり、地獄も無い。
しかし、実に、大和人の死後の世界は、地獄という観念が無い。黄泉の国と言う。そこは、ただ穢れがあるのみであり、裁きなど無い。
世界広しといえども、民族の冥府観に裁きの無いのは、大和民族だけである。要するに、霊界というものを知っていたのである。
死後に裁きに合うことはない。自らが、自らを裁くというか、行くべき世界を決めるのである。これについては、いずれ書く。

仏教の影響が大きくなった、平安、鎌倉という中世では、無常観が支配したが、結果的に、大和人からの、感性が生きていて、罪悪感より、無常観が強く現れて、それが哀感となり、次第に美感になってゆくのは、大和人の思いが残っていたためである。

ちなみに、無常観とは、中国仏教からのもので、しかも、中国では、この無常感覚が、皆無であるという不思議である。
インド魔界から侵食された中国であるから、矢張り弁舌になり、仏教も中国で大きな思想体系を作り上げた。
それ以前に、膨大な思想があったからであろう。孔子、老荘思想等々である。
しかし、それらの思想には、霊界の存在が皆無であり、孔子にしても、鬼人を語らずと言う。つまり、孔子も霊的存在を知らなかったのである。
平面思想であるから、仏教にある霊的存在に、飛びついたのである。
中国思想は、人の生き方の思想であり、それ以外の何物もない。この次元でのあり方のみであり、唯一、天という人の道の先にあるものを、想定しただけである。
中国には、神も仏も無かった。天という、理想の世界を言うのみである。
中国思想をいくら研究しても、その先が無いのである。
三次元の思想のみが中国思想である。

そこに、仏教である。妄想逞しい、仏典という、根拠の無い膨大な書物に翻弄される。
日本の仏教は中国思想である。ウソの上塗りの仏教である。
天台、真言、浄土、禅に至るまで、中国仏教である。
あるが如きの言葉の世界に翻弄されたものである。
大乗仏典で、根拠のあるものは、一つも無い。しまいに、夜に、観音様が現れて教えられたと言われれば、絶句するしかない。しかし、それを後生大事に、仏典として奉ずる様は、仰天というより、哀れである。
仏陀の言葉を伝えているのは、ダンマパダ、一点である。後は、すべて創作、妄想の所産である。そのダンマパダさえ、寝ぼけたような言葉の羅列なのである。

大和人の嫌う、言さえぐ、言葉の数々をもって、何故、迷いの世界に入ったのかは、世界同時、共時性の法則であろう。
人間の精神と心をかく乱させ、混乱させて、益々混迷を深めようとの、魔界の関与である。
言挙げしない、日本にも、魔の手が入り込んだといえる。

仏教を奉じた者は、仏教が言う、迷いの道を今も生き続けている。
お経を読経して、成仏するという観念は、全く、欄外のこと。それならば、桃太郎の御伽噺を読んだ方が、霊界入りするであろう。
読経するということは、仏典を読み上げるということで、大和言葉を発するものと、全く違い、迷いの中に放り込むということである。何せ、死んだ者は、仏典の意味など知らない。それをいくら読んでも、詮無いこと。
供養と言い、読経している様は、哀れを通り越して、悲劇を通り越して、喜劇となる。
参考に、仏典の一部をここに書いてもいいが、面倒なので止める。
例えば、婆さんが滑って転んで起きたら花が咲いていた。というような、どうでもいい内容ばかりである。天上の世界を描いた、浄土三部経典などは、いい加減にしろ、と言いたくなる。
万葉の歌、一首に適わないのである。

2007年04月11日

無常観について

仏教思想の無常観というものが、いまだに誤解されている。
あれは、中国思想といえる。
特に、激しい誤りは、ニヒリズム、虚無主義のように受け取られていることである。
仏陀は、無常を超えていた。
彼は、苦として、人生を観た。
生老病死、生きること、老いること、病に入ること、そして死ぬことを、単純に苦であると観た。
しかし、これも違う。
何故、それを苦として認識したのか。

レベルが低い霊界のコンタクトから始まった、天理教の中山みきという教祖の、婆さんでさえ、陽気暮らしを説いた。
すべて、観念を作り上げて、それに従って、物事を捉えるという、馬鹿なことを人間はする。

無常観など、単に、諸行無常という、あらゆる行は、推移し、移り変わることを言う。
「行く川の流れは絶えずしてもとの川にあらず」という認識の程度である。
それならば、ギリシャの古代哲学も言った。
足を入れた川は、今の川ではない等々、死ぬまでの暇つぶしに考えたものである。

今一度、仏陀が何故、苦として物事を捕らえたのかということを、探るべきである。
それとて、仏陀の、あの境遇である。王子という、何不自由しない暮らしの中での、認識である。もし、仏陀が、貧しい生まれであれば、どうであろうか。
私は、いい気なものだと思う。

無常観について、難しく言えば、いくらでも言える。
あれは単純に、物事の推移を言う。その中に、人間の生もあるという認識である。
ただ、それだけである。
何も、特別なことではない。

おおよそ、ある年齢に来ると、無常観に、いたく納得する。アホでもである。
つまり、自分の老いを感じてくると、何となく、それが理解出来たような気に成る。
単なる耄碌であるのだが、そこは、老いたという単純な感慨である。

仏陀の苦は、仏というオリジナルを創造して、それに邁進する。
苦を越えるものは、輪廻から外れることであると。要するに、次に生まれないということである。インドの基本思想であったものを、越えるという作業である。
輪廻に在るから、いつまでも苦を体験するという。それを外れることが、仏になることであった。
しかし、実は、この仏という言葉も、怪しい。
ニルバーナ、涅槃という境地に達することを言うのだが、涅槃というのも、怪しい。

解りやすく言えば、悟りであるが、悟った者が、物を言うことが出来るのかである。
悟りは、超越を言うのであれば、言葉にならないが、禅など、よく語る。いや、饒舌過ぎるのである。
あれは、きっとウソなのであろう。
終いに、意識が拡大して、宇宙大になり、云々となれば、すでに妄想である。
座したまま、意識が上り、地球を超え、そして、我が内に、宇宙がある云々。
まあ、そう思いたければ、思っても良い。

それでは、古神道を言う。
自然から、すべてを学んだ。人間の思惑ではない。
無常観など、自然の前には、理屈である。
日本の四季には、春夏秋冬があり、循環の様を神と観る。無常観などという、代物は無い。
絶えず移り変わるからいい。
花が散り、そして種を蒔く。再生がある。それを目の当たりにして、無常観などあるわけがない。
人間も、自然の一部であると感得した。
故に、清き、明き、直き心で、十分だった。

無常観などという、曲者に左右されない、純粋素朴な情で足りた。
それが、平安期から、無常観に、勘違いされた無常観に、セックス三昧を繰り返して、出来上がったのが、日本の無常観である。
通りで、セックス三昧を体験した者が、老いて、般若心経などを、読み始める。
あんなものは、気休めであるが、救われるから、終わっている。
ハウツーの救いで足りるから、笑う。

輪廻を超えるというテーマの元に、仏というオリジナルを創造した仏陀に真似て、自分のオリジナルを創造することが、救いと言う。
日本人は、翁に、それを観た。
老いて、翁になる。つまり、爺の先に在る、神に近いものである。
神に近いとは、死に近い者ということである。
この世から、超越したものではなく、あくまでも、この人生の、延長にある。
そして翁は、お隠れになり、いつまでも、この世の人と共にある。
山に戻って、生きている者を見詰ているという、素朴な考え方であり、何も、仏や神という、超越したものにならなくてもよいのである。

死生観等々、皆、輸入された言葉の世界を持って、今に至るまで、理解の如き気分になっているが、気分になっているだけである。

死と言う観念さえ、輸入されたものである。
日本の死は、隠れることであり、消滅、あるいは、仏という、不可思議な、ウソのようなものにならない。

何が真実かといえば、真実は、今目の前にある。
それが自然の姿であった。それ以上を創造することは、実に、僭越である。
創造と言えば、聞こえがいいが、何のことは無い、妄想である。

役者は、成り切ることで役者になる。
妄想も成り切ることで成就する。
しかし、そんな力みは、いらない。
古神道に戻れ。
そして自然と共生と共感することである。

あらゆる宗教の元である、伊勢神宮を見ればよい。
何も無い。自然の中に、掘っ立て小屋のような、高床式建物があり、鏡が奉られてある。
巨大な建物を建てて、神殿でございと言わない。
先祖の住んでいたであろう、そのままが、そのままにしてある。
それでいい。
妄想はいらない。

巨大な建物を建てる宗教が、ウソ偽りであること、必至である。
無常観を言うなら、建物などいらないではないかと、気づかないアホに、無常観も何も在るわけが無い。
寺の建物を見れば、教えがウソであることが、よくよく解る。
ウソを隠すために、建物を建てる。
それを見て、神がいると思うのは、あちら人である。
私は、ウソだと見抜くのである。
イエスも、神殿に行き、ここは神の座であると、物売りの店などを壊したが、あれはやり過ぎである。
神は、建物にいないのである。
そんなことは、少し霊感や、霊観があれば解ることである。

伊勢神宮の鏡は、実に真っ当である。
鏡に映せば、私がいる。
それを拝めという。天照大神は、私の先にある者で、それを私が写す。
何と、真っ当であることか。
鏡には、私がいる。

この深遠な情を、教えられずにいる世代が団塊の世代である。
早く死んだ方がマシである。
日本人の真骨頂である、情を知らないのであるから、一度死んで、出直した方がいいに、決まっている。

2007年04月17日

もののあわれについて37

説明不足を感じるので、少し仏教なるものについて言う。
どこの宗派を取り上げても、理屈のみがあるのだが、もっとも理屈を捏ねる、禅という宗派をみる。
禅のいう仏教、または、その思想は、インドの中観派という空の理論からなる。
要するに概念を構築するという、言葉の遊びを重ねるのである。
有名な竜樹という理屈屋がいる。
語りつくして、矛盾を起こし、しまいに、言語化できないという事態に陥る。
理論では解明できないという限界に突き当たるのである。そこを飛び越えて、表現出来ない世界、つまり、宗教的な実体験の世界があり、それを涅槃というから、私は笑う。
それが、禅に受け継がれて、無語底、つまり、語ることの出来ない世界というものを言う。論理的ではない言葉の行き着かないところを、言い表すという暴挙に出る。彼らは、それを知らない。
公案という、何やら怪しげな言葉の世界で、悟るだの、大悟しただのと言う。
その悟りの世界は、誰も知らない。本人の自己満足である。
碧眼録という本に、その怪しい言葉の世界が羅列してある。これ、知的好奇心のある人は、好む。死ぬまでの暇つぶしに丁度よいからだ。その内に、死ぬからいい。

仏教の修行僧という者は、花の一本、大根の一本も育てることなく、のうのうとして、言葉遊びに始終する。哀れである。
例えば、手を打つ。どちらの手が鳴ったか。どちらの手も鳴らない。鳴ったのは、お前の心だとか・・・そんな話がゴマンとある。
しまいに、言語に出来ない矛盾を悟ることが禅だとか。
もう、話にならない。
インドから中国に渡り、このような言葉遊びに汲々として出来たのが、禅である。
勿論、文学として読むには、面白い。しかし、宗教とは・・・
では、欧米の宗教が宗教と定義すると、仏教も宗教ではない。
勿論、古神道も宗教ではない。
欧米の言う宗教という概念は、欧米の宗教のみに言える。

かくばかり 恋ひむものとし 知らませば 遠く見るべく ありけるものを
読み人知らず。
人を恋することは、やむ時もなく、その人を恋焦がれるものだ。恋と言うものを、そのようなものだと知っていたならば・・・恋などせずに、遠くから見詰ていただけだろうに。
人の心は、恋の心で十分によろしい。もののあわれの骨頂である。源氏物語も、矢張り、恋の情にもののあわれを観るのである。

このような大和言葉に、彼の禅の世界など適わない。
大和言葉には、悟るとか、悟らないとかの迷いは無い。
要するに、仏教とは、膨大な迷いの言葉を撒き散らかして、人の心を煙に巻くのである。
勿論、仏陀は、そのようなことを一言も言わない。
ただ、淡々と、日々の生活の心の在り方を言う。
心静かに、あらゆる事象を見よと。そこには、すべて関わりがあり、何一つ無駄なものはない。そこに心を鎮めて見れば、物事の本質が、向こうから姿を現すのである。その自分の欲望さえも、よくよく見詰るべきである。それも、我が身から起こるものではなく、突き放して見よと。そして、ありうべき生き方を生きるべきであると。
仏陀の言葉は、決して難解、歪曲したものではない。本当に霊界を知る者は、そのようにしか語らない。

ある若者が、相談に来た。
一人の女の子が好きで好きでたまらないと言う。
何とかアタックしたいが・・・勇気が出ないし、相手は、自分をどう思うのかと。
私は聞いた。相手とどうしたいのかと。
すると、ただ、好きで、どうしようもないのだと言う。
私は言った。それは、性欲だよと。
要するに、セックスがしたいんだよと。
若者が、悟った。
晴れやかな顔になった。好きだという気持ちの真実を観たからである。性欲、それに支配されて、好きだと思い込んでいたと。
さて、次に彼は、自分の気持ちを告白する勇気が出た。当然である。理由が分ったのであるから。
要するに、こんなものである、悟りとは。

もう一つ、言う。
日本仏教の最大の汚点は、最澄が、すべての人が救われると説いた時からである。
生きとし生けるもの、すべてに仏性があるという。
勿論、人間にも、皆仏性があると言うのだ。
ならば、すでに救われているのではないか。
それが、どうして役立たずの僧になどなって、何事かするのか。
つまり、僧になるとは、そうとしか生きられないからであろう。そのようにしか生きられないから、僧になっているのである。
すると、ある宗派は言う。その仏性を顕示するために、題目を上げると。
町内会の掃除を毎日やった方が、無難である。
題目を上げて、あのインド魔界の呪術の伝統を汲む、唱えごとなどは、先祖の因縁を出すわ出すわで、とんでもないことになると知らない。
元気になると言うが、元気にならず、病気や悪因縁で、人生棒に振る人も大勢いることを知らない。

そうして、日本一の念仏である。
念仏とは、架空の阿弥陀と言うものに、帰依するというのだから、笑う。
観念に帰依して、どうする。
アミタとは、人間が作り出した架空の仏、勿論、密教の大日如来も、当然、架空の観念である。
架空の観念に帰依して、どうする。それに、護摩を焚いて、祈願するというのだから、魔界も、ここまで行けば、勝ったも同然。
魔界の勝ちである。

私は言う。この世は、在る物しか無い。
万葉の歌は、在る物しか無い。だから、素晴らしいし、真実である。
言葉遊び、つまり、言挙げせずの思想であり、言幸う言の葉のみである。
教義、教理、神学等々、万葉の歌、一首に前には、消えてしまうのである。

ゲイは勝利する

シドニーの夏の風物詩、マルディグラの祭典が、三月上旬に行われた。
世界的に有名な同性愛者のパレードである。
29回目の今年は、八千人の参加者、そして約30万人が見物したというから、驚く。

そして驚きは、地元のニューサウスウェールズの州警察が、楽団を含む40人の制服警察官を派遣し、女性警官が山車の上から「ハッピー・マルディグラ」と呼びかけたという。
警察の同性愛者支援の専門部署のPRが目的だと言う。
地元、オーストラリア・ニュージーランド銀行は、社員120を参加とある。行進に加わったのだ。
まだまだある。
女性市長のクローバー・モア氏は、オープンカーに乗り、マルディグラを応援するとの横断幕と、支援者を引き連れて行進に加わった。
野党、労働党、緑の党、民主党も山車を出したという。

オーストラリアのゲイ人口は、2,3パーセントというが、実数はまだ多い。
政治家も、企業も、彼らを無視出来ない存在として認識している。

ところで、日本企業も、秘密裏に、日本のゲイ動向を探って、商戦に生かそうとした。
しかし、結果は、日本のゲイは、ケチだとの結論に達して、棚上げされたという。
だが、政治の方は、無視出来ない存在になっている。
札幌市で行われるゲイパレードには、市長もメッセージ参加するという状態である。

ヨーロッパEu諸国では、パートナーシップ制を導入して、同性愛者の法律を完備しつつある。ヨーロッパの思想により、同性愛を悪しきものとした、明治期の日本は、まだまだ差別意識あり、未だに、そこから逃れていない。あちらの方が種を蒔いたはずなのに、堂々と、パートナーとして認めるという状況である。

九割の人は、ゲイに成る可能性がある。
環境による。状況による。
純粋、異性愛は、一割である。
これが人間の性のあり方の発露である。
実は、ゲイへの差別の最もは、潜在性ゲイの者が行うのである。

実は、異性愛という言葉は、同性愛という言葉を意識して、作られたものである。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、ゲイが多いはずなのに、教義として、ゲイを禁止するという矛盾である。あれは、支配するために、教義としているのである。
あちらは、オナニーまで罪と定めるという野蛮を平気でする。
要するに、セックスを支配することによって、人を支配しよううとする非人道的な教義である。
それならば、仏陀の方がすっきりしている。出家者は、全面セックス禁止である。
それ以後、セックス好きの宗教家が、セックス支配で信者を支配しようと、教義を作る。邪淫の罪と。
我々は、邪淫で生まれた。
人間の誕生を、ここまでおとしめた罪は重い。

キリスト教の原罪説などは、暗に、セックスを覚えたことからの罪の意識を言う。
「生めよ、増やせよ、地に満ちよ」と言う旧約の神の言葉を、何と説明するのか・・・

人間の性欲を罪と定めるなど、野蛮の野蛮である。
性の否定は、存在の否定を言う。
性は生である。それこそ、命の讃歌である。

人殺しをしているより、明るく楽しいセックスをしている方が、どれだけ善いことか。
ゲイが、世界を変える日が近い。
ゲイが平和を先導するのであろう。

戦争は、男がする。敵と定める男と愛し合えば、すべては解決する。
ゲイが半数を超えると、確実に世界は平和に成る。

2007年04月18日

もののあわれについて38

万葉集には、作者不明の歌が、三千三百ほどある。
総数は、四千五百首であるから、半数以上を占める。その中には、「人麿歌集所出」の歌が三百七十種ほどもあり、人麿の作もあるが、兎に角、半数の作者不明というのは、一般庶民であるということだ。
ここで、公民、百姓を、大和言葉では、おおみたから、と言う。
民を、おおみたから、と呼ぶ支配者が、世界の、どこにいるだろうか。
たからに、尊称をつれけて、おおみと言う。
大美と書いてもよい。おおみである。万葉人がしたように、私も、漢字を当てはめてみる。たからは、宝であり、大美宝と書くといい。

さて、過半数を占める歌の作者が、何故不明なのか。
それは、名も無き、庶民の歌だからである。
そして、それは、歌の優劣と全く関係ない。
庶民の歌が、記憶に留められていたということは、語り伝えられていたということであり、それが、個人を超えて、共同のものとなっていたということである。
そして、それを、書き取った人がいたということ。
人々の共感をよんだ歌は、生きる共同性であり、根幹で結びついていたということである。そして、それが、こうして万葉集と言う歌集に、収められたということである。
これは、前代未聞の出来事である。
世界史上に類をみない出来事である。

民謡の元も万葉である。民謡の原点、原始の姿である。
ここで一言言っておくが、庶民の歌う多くの歌を卑下する、西洋音楽に関わる者どもの、低レベルの感性を、私は笑う。
庶民の歌こそ、文化であろう。文化的行為であろう。それも、時を超えて歌われる歌は、問答無用に伝統である。
例えば、演歌、歌謡曲などの大衆歌を卑下する理由はない。
何か、芸術歌曲が優れているという、理由は無い。単に、その世界だけでの、慰めあいのようなものであれば、芸術などという言葉も出ないはずである。
時を超えて、歌い継がれる歌こそ、人の心の真実を写す。

声楽家という、クラシック系の歌い手の歌を聴いて、感動することは、実に稀である。
私は、藤岡宣男の歌によって、ようやく歌曲なるものの、良さを知った。芸術と冠しなければならない、お馬鹿の世界の人々の存在を知った。

万葉を見よ。
名の無き人々の歌が、こうして千年の時を経て残され、読まれ、語り継がれている。
また、少なくても、日本の歌、日本歌曲などを歌うとしたならば、万葉の歌、大和言葉の歌道を知るはずである。
日本の歌道を知らずに、何を言うか。

この庶民の歌を、ある研究家は「庶民の生活の中に、綿々と息づいている日本民族の心情が、作者なのである。」と言う。
日本民族の心情が作者であるということは、また、私の言いたい言葉である。
誰がではない。民族の心情が作者であるという理解に、彼らの歌を書き留め、それを後世に残した人の功績は、大神、おおかみ、と尊称してよいほどのものである。
そうせずにはおれなかった、止み難い思いを抱いた人がいたということ、それに、私は感動する。
感動とは、そういうものである。
無償の行為ほど、崇高なものはない。
民族の心情を伝えるためにである。
万葉の神と呼ぶべき存在である。
いずれ、その編纂に関わった、人麿と、家持のことは書く。しかし、それ以外の人の名は無い。名も無い人の歌を集めて、己も名も無く去った。
これ、もののあわれの極致である。

大伴家持は、巻二十の防人の歌を編纂している。そして、巻十四の東歌は、誰が採取したのか、解らないが、家持かもしれない。
いずれにしても、その功績は、神と称えられてよい。
今まで、誰も言わなかったので、私が言う。
万葉の神である。
学者、研究家等々は、滔々として好き勝手に万葉を語るが、祈り無く、霊感無くして、万葉が解るはずもない。
瑣末なことにのみ捕らわれて、肝心要を見ないのであるから、救いようがない。
辞句や言語の考証に喧しく論議しても、もっとも肝心な祈りの心を持っていなければ、学問にもならない。
言葉に対しての、御言を、みこと、として、正しく解釈している者は皆無である。天皇の尊称であると言うのみ。命も、みとこと読む。
みことの、意味を知らず、万葉、大和言葉を知るはずがない。
書かれた物があるということは、書かれなかった物もあるということを知らない。
文献研究の限界である。

市長襲撃

あってはならないというが、あるのである。
これは、どういうことか。

長崎市長伊藤一長銃撃である。
民主主義を揺るがすものである等々、そのテロ行為に対してのコメントが多い。
暴力団幹部の男である。
そして、殺すつもりだと言う。
一体、これはどういうことか。
テロというより、この男の精神状態であろう。
言論の自由を阻害するというより、この男本人の問題である。
これで、民主主義が揺るぐことは無い。

よく考えて欲しい。
暴力団にいるということ。
暴力団という組織は、暴力を成すから暴力団と言うのである。
今更、何をか言う。

簡単なことである。
暴力団を亡き者にすることである。
要するに、頭が悪くて、言論で戦えないから、暴力に出るという単細胞の行為をする者を、暴力団員という。
これを書けば、私も暴力団に襲われることもあり得る。
が、本当のことであろう。

頭の悪いものに、頭を良くせよと言っても、詮無いことである。
そのようにしか生きられないのである。

もうひとつ言う。
人殺しは、暴力団以外の人の方が多い。
たまたま暴力団の男であった。
この記事は、新聞の一面から、社会面、そして多々枚数を割いている。どういうことか。市長が襲われると、ここまで大々的に告知される。
しかし、単なる人だと、社会面の、ほんの一部に少し載る程度である。

単なる人殺しと、どう違うのか。
同じであろう。
政治家が殺されれば、大変な問題になり、一般の人が殺されれば、単なる殺人事件として扱われる。
おかしい。
人殺しは、罪である、ということを、啓蒙することである。
また、暴力は、暴力を生むと啓蒙することである。

警察は、この暴力団に向かうのに、暴力で向かうべきである。
要するに、頭が悪くて話し合いにならないのだから、叩くしかない。
暴力団に人道で対処しても、詮無いこと。

殺すつもりだと言うのだから、確実に殺人者である。
救いは無い。
もし、市長が死んで、この男の7代が祟られても、文句は言えない。

すべての人に、良心があるなどというアホなことは考えないほうがよい。
どうしても救われない人がいるとは、三蔵法師玄奘の立てた、法相宗が言う。最澄は、すべての人に仏性があると詭弁を言う。
馬鹿は死んでも馬鹿である。手のつけられない悪霊というものが存在するのである。

警察は、すみやかに、暴力団を皆殺しにすべきである。
ただし、馬鹿は死んでも馬鹿であるから、死んでからも、暴力を起こす。それを抑えられる霊能者、宗教家は、日本にはいない。世界にも・・・

ひとつだけ言う。
暴力団の側に立つ。
暴力団の存在によって、かろうじて、少しはまともに、生きられる者もいる。生きられる場所を与えられるということだ。

日本は法事国家である。
法律で、しっかりと裁く。それでも、暴力団員は、人殺しをしても、10年の刑を受けて善しと思う者あり。
法律は、暴力団員が人殺しをした場合は、死刑であると決めればよい。
死刑を人道に反するという者がいるが、それらも殺されれば、死人に口無しである。彼らは、自分を殺す人間を傍に置いたことがないから、そんな理想を口に出来るのである。

最後にひとつ。
政治に怒りがあって、殺していいものならば、政治家は、皆殺しにされるだろう。
男は、市に対しての不満があった、公共工事の受注を巡り、市長に不満があった云々とある。そんなことを言えば、私などは、毎日、役所に出かけて人を殺さなければならないのである。
なぜ、私が人を殺しに出かけないかといえば、面倒だからである。そして、そんな暇は無い。要するに、男は、暇つぶしでやったのである。それしか、やることが無いのである。暴力団とは、その程度である。
何かにつけて、ショバ代等々と、金をせびる。ピンハネする等々、脅し、恐喝で金を得る。どこかで聞いたような気がする。
似たようなことをやっても、法に触れない者もいる。
この辺で、以下省略する。

追伸
これを書き終えた後、市長死亡の報が入った。
心から哀悼の意をおくります。

追伸
警察は、全力を挙げて銃を取り締まれ。
馬鹿に銃では、悲劇のみである。
もしくは、暴力団員の銃剣所持は、死刑にすることである。
暴力団は、オウム真理教と同じく、公安委員会の監視下に置くこと。

追伸
長崎市民は、容疑者の死刑を求める署名運動をすべきである。
容疑者が、どんなに悔い改めても、事実を消すことは出来ない。
霊界は、厳然として、自らを裁くことを許すのである。

2007年04月19日

もののあわれについて39

敷城島の 大和の国に 人さはに 満ちてあれども 藤浪の 思ひまつはり 若草の 
思ひつきにし 君が目に 恋や明さむ 長きこの夜を

磯城島、しきしまとは、大和にかかる枕詞。大和の別名としても使用される。
人さはの、さ、は大勢の意味。
思ひまつわりは、藤の花の長く垂れた花房が浪のようにゆれるので、藤浪であるが、まつはりの、枕詞である。
若草は、思ひつく、にかかる、枕詞。
君が目は、あなたの目にではなく、あなたの姿のこと。

この国には、多くの人がいますが、藤の花がまつわるように思いを絡ませ、若草が臥すように、ぴったりと心を寄せていますあなたに、一日なりとも、お逢いしたいと、この長い夜を、しみじみと恋焦がれて明かすことでしょう。

反歌
磯城島の 大和の国に 人ふたり ありとし思はば 何か嘆かむ
恋い慕う方が、二人といれば、こんなに切ない思いなど、しないでしょう。

女性の歌である。
どうであろうか、この風情を。
長歌も然り、反歌も、見事な歌である。
反歌は、女性の弱さなど微塵もない。当時の女性の気品と、教養が伺われる。
静かに、そして激しく人を恋する心である。
恋の情に、もののあわれを観る、我らの民族心である。

しきしまの やまとのくにに ひとふたり ありとしおもわば なにかなげかむ
しきしま、やまと、と、同じ意味である国の言葉が重なる。実に、国を愛する心である。
今なら、大和の日本と言う言い方になる。
大和なる この日の本の 言の葉の 深きあわれぞ この歌に知る
私の戯れ歌である。

長歌の、思ひまつはり 若草の 思ひつきにしと、思いに、まつはりと、つきにしと、まつわり、つきにしを、思いに当てている様、いかに恋い慕う様か。このように人を思う心に、もののあわれを観るのである。
名残雪などと言う言葉がある。
名残、つまり、残心、ざんしんと読むが、大和言葉で読めば、のこるこころである。
心を残すという所作を、この民族は有していた。
物に、心が着くという考え方をしていた。それが物を大切に扱うという作法、所作になった。物を大切には、物にも心があるという考え方であり、それはまた、人の心と同じであると考える。
信濃なる 千曲の川の さざれ石 君し踏みては 玉とひろわん
石っころでも、あなたが踏んだ石は、玉、宝石のようなものだと考える情である。
名残雪、名残の花、名残の匂い、等々、微かに在るものを、事の他大切にする民族である。

満開の花よりも、散る花に心を動かされるのは、教えられて成るものではない。自然に身についているのである。
これは、他民族に理解してもらうには、大変な労力だ。
例えば、味というものも、日本人には、五つあり、匂いも五つある。他の民族には、三つである。
心の綾も、複雑なのであるから、複雑でない人に理解せよと言っても、詮無いことである。知りえることしか、知ることは出来ないのである。
無いものを知れとは、言えない。

とろろが、現在の日本人の多くが、この情を忘れたのか、退化させている。また、このような情を理解出来ないで、脱日本人化しているのである。
何故か。西洋化である。欧米化である。これを善しとして、在るものの価値を消滅させた。そして、大切な伝統、つまり、伝えるものが無い者に堕落した。
伝える、という行為は生きると、同じである。
伝えているから生きている。
親から伝えられたものを、何の思索、考察も無く捨てた。
それらを、生成発展させて、伝統が伝えられる。伝統に心を乗せるのである。しかし、その方法も捨てた。
私が、日本は崩壊していると言う訳である。

徳を捨てると、人倫が果てる。不倫のみが跋扈する。
徳の道を、道徳という言葉にした。この国では、道を生きると同義に考える。
生きる道である。それを、誰かが、道徳教育は、心や精神の侵害だと言う。勿論、彼らは、心も精神も知らない。
徳を大和言葉では、のりと言う。のりは、法でもあり、秩序でもある。
のりの道とは、法の道であり、それは、集団生活をするための最低の方法である。
法律の道ではないし、仏法の法でもない。
日常生活の法の道である。
挨拶、礼儀作法、所作等々の、普段の生活における、有様である。
それが生き方に関わってくるという、習いである。習いは、学問の学である。学とは、そういうものである。
それを、道徳と言う。道徳も学なのである。最も大切な学を捨てたのである。

更に言う。
藤岡宣男の死に際しての、その知人縁者の作法である。
全く、唖然とするものであった。
それで済ませるのかという大勢の人の様を見て、私はただただ呆然として、佇んだ。
世の中は、ここまでに不倫に至ったのかという思いだった。
妻子ある者が、他人とセックスする不倫ではない。倫理が不在という不倫である。

そして更に、人が死ねば、無くなると思う神経である。
この国には、人が死んで無くなるという考え方は無い。お隠れになるのであり、実際、無くならないのである。
簡単に言う。
怨霊信仰というものがある。
死んで無くなれば、怨霊など無いはずであるが、怨霊信仰は、廃れない。今でも、天満宮は、賑やかである。あれ、怨霊である。平将門の多くの神社も、怨霊である。
いずれ解るから、これ以上は言わないでおく。

私が、藤岡に、祟れと言える者であることを、言っておく。

もののあわれについて40

蜻蛉島 日本の国は 神からと 言挙げせぬ国 然れども 吾は言挙げす 天地の 神も甚 吾が念ふ 心知らずや 往く影の 月も経往けば 玉輝る 目もかさなり 念へかも 胸安からぬ 恋ふれかも 心の痛き 末ついに 君に逢はずは 吾が命の 生けらむ極 恋つつも 吾はわたらむ まそ鏡 正目に君を 相見てばこそ 吾が恋止まめ

秋津島を、蜻蛉、とんぼと表記しているのが、楽しい。
あまつしま やまとのくには かみからと
神からとは、神が完全に作られた国であるという意味。
ことあげせぬくに しかれども われはことあげす
言葉に出して、申し必要の無い国ですが、私は、あえて、言います。
あめつちの かみもはなはだ わがおもう こころしらずや ゆくかげの 
往く影のは、空をわたり行く光で月にかかる枕詞。
つきもへゆけば たまかざる ひもかさなり おもえかも
念へかもは、思いをればかで、も、は詠嘆。

むねあすからぬ こいふれかも こころのいたき すえついに 
末つひには、将来、遂にという意味。
きみにあわずは きみがいのちの いけらむきわみ こいつつも われはわたらむ
生けらむ極みは、生きている限り、である。
まそかがみ ただめにきみを あいみてばこそ わがこいやまめ
正目にとは、直接、目と目を見合わせることで、直に逢うということ。

この大和の国は、神様が何一つ欠けることのない素晴らしい国に作られました。
言葉にだして、あれこれ言う必要の無い国です。
しかし、どうしても、私は言葉に出したい想いがあります。
天地の神様も、私が、どんなに切ない思いをしているのか、わからないのでしょうか。
ご存知ならば、こんなに長く放っておかないでしょう。
あの人と別れてから、月も日も巡り、悶々として胸が安らぐことがありません。
このまま、あの人に逢えないならば、生きている限り、恋焦がれて、のたうち暮らすしかありません。
鏡に向かい合うように、あの人と、合間見えることができた時こそ、この恋しさの止む時です。

反歌
大舟の 思ひたのめる 君ゆえに 尽くす心は 惜しけくもなし

大舟に乗ったように、深くあなたを信頼しています。そのあなたのために、どんなに心を使ったとして、惜しいとは思いません。

女性の歌である。読み人知らず。

ここで、この大和の国は、神様がお作りになった完成された国であり、言挙げする必要が無いという感覚は、当時、一般的日常的になっていたということである。

これが、今に至るまで続いている、日本人の心情である。
だから、それを理解しなければ、日本を日本人を理解出来ないのである。
今、日本人でさえ、そのことを忘れている。
良い悪いの問題ではなく、そういう民族であるということだ。
言わずとも、解っていることを言うな、ということである。
私の言葉にすれば、言って解る者は、言わなくても解るということである。

解りましたという言葉は、理解できた、それを実行、実践出来るという意味であるが、今は、単に、言葉の意味が解ったということで、解ると言う。
出来なければ、解ったことにはならないのである。
すべてを言葉にしなければならない、欧米人に、それを理解させるのは、至難の業である。

ここで、聖書の神観念を批判する。
旧約聖書の神は、契約の神、裁きの神である。
彼らには、契約という関係が染み付いている。
その契約は、言葉によって成される。モーゼの十戒が、その典型である。
選ばれた民と言われたイスラエルの民が、三千年以上も、さ迷っている様を見て、まだ気づかないという体たらくである。
何何するなという、掟を神はイスラエルの民に与えた。何何するなということは、それら公然と行われていたということである。
盗むな、姦淫するな、偶像を拝むな、神の名を妄りに呼ぶな等々である。
アフリカの神話等々からの出典もあり、壮大な物語であるが、如何に、ユダヤ民族の顕示をしたところで、今を見れば、その答えが解るのである。
私は、この神を、神もどきだと、見抜いている。
契約の神、裁きの神、もう一つ加えて、嫉妬の神である。
唯一絶対の神であるという。
単なる一つの民族神である。

それを持って、例えば、日本人がその神を信仰すると、とんでもない魔の深遠に落ち込むのである。
ユダヤの民族神を信じるというのであるから、それは大変なことである。
多くのクリスチャンがいるが、彼らの信仰告白を聞くと、私は、どうも腑に落ちないものを感じる。
ちなみに、私は、カトリックの洗礼を受けている。洗礼であり、洗霊ではない。

旧約の神は、イエスによって、切り離されたのである。
イエスを十字架に張付けたのは、ユダヤ人である。イエスを、神の子として認めなかった。
イエスは、旧約の予言がすべて成就したと言う。それは、イエスによってである。
キリスト教の誕生である。
しかし、このイエスキリストの教えも、当初の、原始キリスト教団から、変質したものである。
いずれ、三位一体という教義のウソを書く。
時の皇帝と結んで、成り上がった一派が、正統として認められる。それがローマカトリックである。
ヨーロッパのキリスト教の歴史は、この正統とされた教会の、異端審判に始終するという仰天である。
中世のヨーロッパの歴史は、それで彩られている。
今、多くは語らないで置くが、日本人が、ユダヤ教、キリスト教を理解出来ないでいる様を言う。
神より、賜りたる信仰なのである。親鸞も辿り着いた、阿弥陀の本願により、賜りたる信仰である。
私の信仰ではない、選ばれ、賜りたる信仰と言う。実に、耳障りが良い言葉である。ここに、魔の落とし穴がある。
イエスも言う。あなたが私を選んだのではない。私が、あなたを選んだのであると。
非常に危険な言葉である。

あらゆる宗教に共通しているのだろう。
私が生きるのではない、もはや、神が、キリストが、阿弥陀が、仏が生きるのであると。
私が無私になり、仏の命が生きる、神の命が生きるという境地にゆく。
信仰告白を皆々聞けば、皆々そう言う。
念仏などは、念仏が念仏しているという境地に行く。
それは、魔の境地である。つまり、魔境である。

私は、言葉にすれば、ウソになると言う。結果的に、それらを言葉にしていること自体にウソがある。
禅の道元なども、仏の家に投げ入れてと言う。悟りの境地が、魔境だと知らない。
宗教では、実に、壮大な妄想が、まかり通っている。

日本には、正確に言えば、やまとの民族には、そのような壮大な妄想の魔の境地は無い。
在るものが在るのみである。
故に、日本、やまとの国には、彼らの言う信仰形態は無い。
もののあわれがあるのみである。在るものを在ると観るだけである。
万葉の歌一首には、彼らの壮大な妄想は皆無である。
すでに、自然との共生、共感によって、そんな境地など、とうに超えている。だから、言葉にしない。
言挙げせずなのである。

それらの宗教の行くべき、霊界が、この三次元の少し上の次元で止まっているのが、何よりの証拠である。
作った言葉によって、迷っているのである。
あな、恐ろしや。

2007年04月20日

神仙の思想

安食堂でご飯を食べていた。
テレビから、馬鹿な大衆が支持する女の占い師が言う。
道教の権威だと。
自分で道教の権威と言う。私は、思わず顔を上げて、テレビを見た。

道教の権威で、仏式の先祖供養や、墓の斡旋をしているのである。
あの女の本は、至るところで売られている。ということは、買う者がいるのである。
勿論、どんな占いでも、有効に活用するといい。

成り上がり者というものは、本当に傲慢なのである。
きっと、すべて自分の手柄なのだろう。
人には、感謝を説くが、自分は、人に感謝などない。自分にしか、感謝をしない。
堂々としたものである。
恐れ入る。

普通、竜神系は、金を得ると、謙虚になるのだが、余程の根性の竜神系の霊団が背後にあるのだろう。
あれ程の強気には、なれないものである。

そういえば、天狗系霊団をバックに活躍する、スピリチュルアル何とかという者の本の広告が大きく載っている。
それも、何と言うことはないが、皆々、知らない故に、感激して読むのだろう。
新興宗教の本も、読解力が無くても、読めるようになっている。
これすべて、読解力の低下の問題である。

伝統教育がなされないゆえに、食べて、寝て、セックスして、という欲望に邁進して生活する。問題は金と、セックス相手のことである。
それの相談の相手をしているのである。
勿論、上記の二名は、貧乏人は、見ない。

再び、女の占い師である。
道教の権威であり、故に、体のことは、すべて解ると言う。
病に無い人は、病にある人の気持ちなど解るはずもない。
広く、貧乏人から金を集めて、金持ちになり、ただそれだけで、随分と傲慢だが、本人は、得意満面である。
それも、支持者がいるからである。
支持者というものは、数である。
猫も杓子も数になる。

さて、道教については、専門家でも、よく解らないはずである。
中国で起こった純粋な、宗教に似たようなものであり、内容がよく解らない。神仙の思想なども、あれから出る。
神仙というから、神と仙人かと思いきや、神は無い。仙人だけが生きている。仙人とは、化け物である。
要するに、この世の欲望充実の技を教える。
道教、儒教も、霊界の存在を知らない。
人間の延長にあるもので、それを超えることはない。
日本の平安期に、多く、これらの思想が定着してゆく。
瑣末な迷信を多く生んだのである。

学者は、日本が、それらに影響されて云々と言うが、逆である。
日本の古神道に影響されて、あれらは、上っ面を取ったのである。変形されて、日本に逆輸入された。
飛鳥、奈良時代に帰化した者たちが、日本に定着させるべく、働いたのである。
本家に戻って、布教する当たりは、大したものである。
不老長寿などに象徴される思想は、道教であり、蓋を開けると、中国地霊の集いであり、蛇に象徴される。
竜神とは、また違う。

竜とは、龍とされる場合もあるが、微妙に違う。
十二支に辰年が配されているが、辰は架空の存在としてある。自然界のあるエネルギーを辰として、置き換えた。
それは、風水などに生かされて、龍のエネルギーを使用して、土地建物を活性化するものである。自然界のある、あるエネルギーとは、何か。
それは、自然の地にある、霊的エネルギーで、地霊と言うものである。
実は、この地霊の主が、神道の産土神である。
彼らは、産土神の存在を知らず、ただ、地霊のエネルギーを得るためにと、方法を考えた。それが風水である。

神仙の思想などは、不老長寿にあるように、生き続ける事を善しとする。
これが変形して、死んでも、あの世には行かず、この世に留まり、生きるというから、奇妙である。つまり、幽霊のままに、この世にいることを善しとする。
その幽霊は、実に、肉体を得ている時と、同じ状態を保つようにとの考えであるから、魔物になる。

この世の欲望に、しがみついている様と見ればよい。
神仙の思想は、化け物になるための思想である。
いつまでも、生きるということからして、変だと思う。
地霊のみを奉ると、あのような国になる。

地霊は、産土神を通して、治めるのが筋である。それをそのまま利用すると、エネルギーが強い分だけ、とんでもないことになる。
眠れる龍と譬えられた中国の龍が目覚めて、どうなるか。言わずと知れている。混乱、混迷を深めて、収拾がつかないという状態になる。
指揮官のいない兵士が勝手に活動をする。つまり、身内争いの混乱になる。
それを治めることが出来るのは、唯一、産土神である。

産土神は、日本では国津神の系統である。
以下省略。

永代供養の嘘

偽の日本仏教教団の多くが、永代供養云々と墓地販売に、いそしんでいる。
永代とは、永遠という意味であろうか。永遠に供養するという。

供養の意味も知らずに、供養するとは、異なことである。
供養とは、生きている人にするものであり、死んだ人にはしない。これ、仏法の常識である。しかるに、矢張り、偽の仏教である。死者を供養すると、言い続けている。

三蔵法師玄奘は、至る国にて、かの地の王から供養を受けた。そして、天竺から戻られたら、何卒、立ち寄り、仏法を教えて欲しいと言われた。
尊敬すべき聖者に供養せよとは、仏陀の言葉である。
死者ではない。生きている者にである。

永代供養とは、何事か。
仏法の何一つも、実践せずに、商売には、いたく熱心である。
すべて、地獄行きである。

墓地を作り、先祖を供養するということの誤りは、仏罰に当たる。

仏陀は、輪廻から、外れることを説いたのである。
つまり、この世に、再び生まれることのないようにとの、教えである。
そして、因果応報と、自業自得を観たのである。

子孫と言う者が、いくら供養したからといって、何にもならないのである。
まして、子孫と言っても、子孫であるかどうかなど、誰にも解らない。
子孫であるという根拠がない。
密通して出来た子であれば、子孫とは言えない。そんな女は、ゴマンといる。
先祖供養とは、あまりに矛盾であるし、また、先祖とは、どこまでの先祖か。その元を辿れば、アフリカまでに至る。

20代までの先祖で、一億人に達する。
一億人の供養をする。ウソでしょう。そんなことが、出来る訳が無い。

後継者のいない方のために、永代供養をいたします。
ウソでしょう。
しまいに、ローンでもたまわりますという。
たわけ者。
鎌倉仏教といわれる、新興宗教を開いた開祖たちは、まだ少しは、真剣だった。それが、今は、彼らの苦労を元に、金儲けである。
法然の念仏、そして、親鸞の念仏という他力本願、日蓮の題目、道元の禅という自力本願、皆々、妄想である。文学としては、評価するが、宗教ではない。

彼らの、文学は、価値があるが、信仰ということには、価値がない。
知らぬ者の戯言である。
現在の浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗等々は、仏法にあらず。
その証拠は、彼らの行為を見れば、一目瞭然である。
信徒を餌にして、何をしているのか。
本願寺の門主を見よ。何をしているのか。それらの末端を見よ。何をしているのか。
浄土宗、曹洞宗、日蓮宗の、坊主を見よ。何を行為しているのか。
蒔くことも、刈ることも、捕ることも、何もせずに、何をしているのか。
読経をしているとは、笑わせる。
読経の意味を知っているのか。また、その経典の根拠は、どこにある。
誰も、答えることが出来ない。
根拠が無いからである。

坊主の中には、それなりに善なる行為をする者があるが、それとて、耕し、捕る、作る者の足元に及ばない。
善なる行為をする坊主は少ない。
大半が、食って寝て、糞して、金を集めて、のうのうとしている。
もう一つ、言い忘れた。セックスしてである。

しまいに、真言密教、天台宗となると、開祖の野心が、未だに残って、見苦しいのである。
共に、仏法とは、何の関係も無い、中国思想である。
中国思想による、仏教解釈であるという。
であるから、ウソである。
あの国の思想家は、霊界の存在を知らない者の集いであり、言葉遊びに始終する。
それなら、ギリシャ思想の方が、余裕が在る。

永代供養という名の元に、商売をして、なんら良心に恥ずることない、その根性は、ただ事ではない。
オウムのように、明らかに悪事をすれば解るが、このやんわりとした悪事は、オウムより、悪い。
ホント、仏罰が、当たるであろうこと、必至である。