説明不足を感じるので、少し仏教なるものについて言う。
どこの宗派を取り上げても、理屈のみがあるのだが、もっとも理屈を捏ねる、禅という宗派をみる。
禅のいう仏教、または、その思想は、インドの中観派という空の理論からなる。
要するに概念を構築するという、言葉の遊びを重ねるのである。
有名な竜樹という理屈屋がいる。
語りつくして、矛盾を起こし、しまいに、言語化できないという事態に陥る。
理論では解明できないという限界に突き当たるのである。そこを飛び越えて、表現出来ない世界、つまり、宗教的な実体験の世界があり、それを涅槃というから、私は笑う。
それが、禅に受け継がれて、無語底、つまり、語ることの出来ない世界というものを言う。論理的ではない言葉の行き着かないところを、言い表すという暴挙に出る。彼らは、それを知らない。
公案という、何やら怪しげな言葉の世界で、悟るだの、大悟しただのと言う。
その悟りの世界は、誰も知らない。本人の自己満足である。
碧眼録という本に、その怪しい言葉の世界が羅列してある。これ、知的好奇心のある人は、好む。死ぬまでの暇つぶしに丁度よいからだ。その内に、死ぬからいい。
仏教の修行僧という者は、花の一本、大根の一本も育てることなく、のうのうとして、言葉遊びに始終する。哀れである。
例えば、手を打つ。どちらの手が鳴ったか。どちらの手も鳴らない。鳴ったのは、お前の心だとか・・・そんな話がゴマンとある。
しまいに、言語に出来ない矛盾を悟ることが禅だとか。
もう、話にならない。
インドから中国に渡り、このような言葉遊びに汲々として出来たのが、禅である。
勿論、文学として読むには、面白い。しかし、宗教とは・・・
では、欧米の宗教が宗教と定義すると、仏教も宗教ではない。
勿論、古神道も宗教ではない。
欧米の言う宗教という概念は、欧米の宗教のみに言える。
かくばかり 恋ひむものとし 知らませば 遠く見るべく ありけるものを
読み人知らず。
人を恋することは、やむ時もなく、その人を恋焦がれるものだ。恋と言うものを、そのようなものだと知っていたならば・・・恋などせずに、遠くから見詰ていただけだろうに。
人の心は、恋の心で十分によろしい。もののあわれの骨頂である。源氏物語も、矢張り、恋の情にもののあわれを観るのである。
このような大和言葉に、彼の禅の世界など適わない。
大和言葉には、悟るとか、悟らないとかの迷いは無い。
要するに、仏教とは、膨大な迷いの言葉を撒き散らかして、人の心を煙に巻くのである。
勿論、仏陀は、そのようなことを一言も言わない。
ただ、淡々と、日々の生活の心の在り方を言う。
心静かに、あらゆる事象を見よと。そこには、すべて関わりがあり、何一つ無駄なものはない。そこに心を鎮めて見れば、物事の本質が、向こうから姿を現すのである。その自分の欲望さえも、よくよく見詰るべきである。それも、我が身から起こるものではなく、突き放して見よと。そして、ありうべき生き方を生きるべきであると。
仏陀の言葉は、決して難解、歪曲したものではない。本当に霊界を知る者は、そのようにしか語らない。
ある若者が、相談に来た。
一人の女の子が好きで好きでたまらないと言う。
何とかアタックしたいが・・・勇気が出ないし、相手は、自分をどう思うのかと。
私は聞いた。相手とどうしたいのかと。
すると、ただ、好きで、どうしようもないのだと言う。
私は言った。それは、性欲だよと。
要するに、セックスがしたいんだよと。
若者が、悟った。
晴れやかな顔になった。好きだという気持ちの真実を観たからである。性欲、それに支配されて、好きだと思い込んでいたと。
さて、次に彼は、自分の気持ちを告白する勇気が出た。当然である。理由が分ったのであるから。
要するに、こんなものである、悟りとは。
もう一つ、言う。
日本仏教の最大の汚点は、最澄が、すべての人が救われると説いた時からである。
生きとし生けるもの、すべてに仏性があるという。
勿論、人間にも、皆仏性があると言うのだ。
ならば、すでに救われているのではないか。
それが、どうして役立たずの僧になどなって、何事かするのか。
つまり、僧になるとは、そうとしか生きられないからであろう。そのようにしか生きられないから、僧になっているのである。
すると、ある宗派は言う。その仏性を顕示するために、題目を上げると。
町内会の掃除を毎日やった方が、無難である。
題目を上げて、あのインド魔界の呪術の伝統を汲む、唱えごとなどは、先祖の因縁を出すわ出すわで、とんでもないことになると知らない。
元気になると言うが、元気にならず、病気や悪因縁で、人生棒に振る人も大勢いることを知らない。
そうして、日本一の念仏である。
念仏とは、架空の阿弥陀と言うものに、帰依するというのだから、笑う。
観念に帰依して、どうする。
アミタとは、人間が作り出した架空の仏、勿論、密教の大日如来も、当然、架空の観念である。
架空の観念に帰依して、どうする。それに、護摩を焚いて、祈願するというのだから、魔界も、ここまで行けば、勝ったも同然。
魔界の勝ちである。
私は言う。この世は、在る物しか無い。
万葉の歌は、在る物しか無い。だから、素晴らしいし、真実である。
言葉遊び、つまり、言挙げせずの思想であり、言幸う言の葉のみである。
教義、教理、神学等々、万葉の歌、一首に前には、消えてしまうのである。