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もののあわれについて40

蜻蛉島 日本の国は 神からと 言挙げせぬ国 然れども 吾は言挙げす 天地の 神も甚 吾が念ふ 心知らずや 往く影の 月も経往けば 玉輝る 目もかさなり 念へかも 胸安からぬ 恋ふれかも 心の痛き 末ついに 君に逢はずは 吾が命の 生けらむ極 恋つつも 吾はわたらむ まそ鏡 正目に君を 相見てばこそ 吾が恋止まめ

秋津島を、蜻蛉、とんぼと表記しているのが、楽しい。
あまつしま やまとのくには かみからと
神からとは、神が完全に作られた国であるという意味。
ことあげせぬくに しかれども われはことあげす
言葉に出して、申し必要の無い国ですが、私は、あえて、言います。
あめつちの かみもはなはだ わがおもう こころしらずや ゆくかげの 
往く影のは、空をわたり行く光で月にかかる枕詞。
つきもへゆけば たまかざる ひもかさなり おもえかも
念へかもは、思いをればかで、も、は詠嘆。

むねあすからぬ こいふれかも こころのいたき すえついに 
末つひには、将来、遂にという意味。
きみにあわずは きみがいのちの いけらむきわみ こいつつも われはわたらむ
生けらむ極みは、生きている限り、である。
まそかがみ ただめにきみを あいみてばこそ わがこいやまめ
正目にとは、直接、目と目を見合わせることで、直に逢うということ。

この大和の国は、神様が何一つ欠けることのない素晴らしい国に作られました。
言葉にだして、あれこれ言う必要の無い国です。
しかし、どうしても、私は言葉に出したい想いがあります。
天地の神様も、私が、どんなに切ない思いをしているのか、わからないのでしょうか。
ご存知ならば、こんなに長く放っておかないでしょう。
あの人と別れてから、月も日も巡り、悶々として胸が安らぐことがありません。
このまま、あの人に逢えないならば、生きている限り、恋焦がれて、のたうち暮らすしかありません。
鏡に向かい合うように、あの人と、合間見えることができた時こそ、この恋しさの止む時です。

反歌
大舟の 思ひたのめる 君ゆえに 尽くす心は 惜しけくもなし

大舟に乗ったように、深くあなたを信頼しています。そのあなたのために、どんなに心を使ったとして、惜しいとは思いません。

女性の歌である。読み人知らず。

ここで、この大和の国は、神様がお作りになった完成された国であり、言挙げする必要が無いという感覚は、当時、一般的日常的になっていたということである。

これが、今に至るまで続いている、日本人の心情である。
だから、それを理解しなければ、日本を日本人を理解出来ないのである。
今、日本人でさえ、そのことを忘れている。
良い悪いの問題ではなく、そういう民族であるということだ。
言わずとも、解っていることを言うな、ということである。
私の言葉にすれば、言って解る者は、言わなくても解るということである。

解りましたという言葉は、理解できた、それを実行、実践出来るという意味であるが、今は、単に、言葉の意味が解ったということで、解ると言う。
出来なければ、解ったことにはならないのである。
すべてを言葉にしなければならない、欧米人に、それを理解させるのは、至難の業である。

ここで、聖書の神観念を批判する。
旧約聖書の神は、契約の神、裁きの神である。
彼らには、契約という関係が染み付いている。
その契約は、言葉によって成される。モーゼの十戒が、その典型である。
選ばれた民と言われたイスラエルの民が、三千年以上も、さ迷っている様を見て、まだ気づかないという体たらくである。
何何するなという、掟を神はイスラエルの民に与えた。何何するなということは、それら公然と行われていたということである。
盗むな、姦淫するな、偶像を拝むな、神の名を妄りに呼ぶな等々である。
アフリカの神話等々からの出典もあり、壮大な物語であるが、如何に、ユダヤ民族の顕示をしたところで、今を見れば、その答えが解るのである。
私は、この神を、神もどきだと、見抜いている。
契約の神、裁きの神、もう一つ加えて、嫉妬の神である。
唯一絶対の神であるという。
単なる一つの民族神である。

それを持って、例えば、日本人がその神を信仰すると、とんでもない魔の深遠に落ち込むのである。
ユダヤの民族神を信じるというのであるから、それは大変なことである。
多くのクリスチャンがいるが、彼らの信仰告白を聞くと、私は、どうも腑に落ちないものを感じる。
ちなみに、私は、カトリックの洗礼を受けている。洗礼であり、洗霊ではない。

旧約の神は、イエスによって、切り離されたのである。
イエスを十字架に張付けたのは、ユダヤ人である。イエスを、神の子として認めなかった。
イエスは、旧約の予言がすべて成就したと言う。それは、イエスによってである。
キリスト教の誕生である。
しかし、このイエスキリストの教えも、当初の、原始キリスト教団から、変質したものである。
いずれ、三位一体という教義のウソを書く。
時の皇帝と結んで、成り上がった一派が、正統として認められる。それがローマカトリックである。
ヨーロッパのキリスト教の歴史は、この正統とされた教会の、異端審判に始終するという仰天である。
中世のヨーロッパの歴史は、それで彩られている。
今、多くは語らないで置くが、日本人が、ユダヤ教、キリスト教を理解出来ないでいる様を言う。
神より、賜りたる信仰なのである。親鸞も辿り着いた、阿弥陀の本願により、賜りたる信仰である。
私の信仰ではない、選ばれ、賜りたる信仰と言う。実に、耳障りが良い言葉である。ここに、魔の落とし穴がある。
イエスも言う。あなたが私を選んだのではない。私が、あなたを選んだのであると。
非常に危険な言葉である。

あらゆる宗教に共通しているのだろう。
私が生きるのではない、もはや、神が、キリストが、阿弥陀が、仏が生きるのであると。
私が無私になり、仏の命が生きる、神の命が生きるという境地にゆく。
信仰告白を皆々聞けば、皆々そう言う。
念仏などは、念仏が念仏しているという境地に行く。
それは、魔の境地である。つまり、魔境である。

私は、言葉にすれば、ウソになると言う。結果的に、それらを言葉にしていること自体にウソがある。
禅の道元なども、仏の家に投げ入れてと言う。悟りの境地が、魔境だと知らない。
宗教では、実に、壮大な妄想が、まかり通っている。

日本には、正確に言えば、やまとの民族には、そのような壮大な妄想の魔の境地は無い。
在るものが在るのみである。
故に、日本、やまとの国には、彼らの言う信仰形態は無い。
もののあわれがあるのみである。在るものを在ると観るだけである。
万葉の歌一首には、彼らの壮大な妄想は皆無である。
すでに、自然との共生、共感によって、そんな境地など、とうに超えている。だから、言葉にしない。
言挙げせずなのである。

それらの宗教の行くべき、霊界が、この三次元の少し上の次元で止まっているのが、何よりの証拠である。
作った言葉によって、迷っているのである。
あな、恐ろしや。

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2007年04月19日 19:05に投稿されたエントリーのページです。

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