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ウイーン

音楽の都ウイーンでも大変なことが起こっている。
若者が、クラシックに見向きもしないと言う。多くの劇場、コンサートサロンがあるが、そこで出演する音楽家に、とんでもないことが起こっている。
チケットノルマが当たり前になっている。日本と同じである。

日本のクラシック界は、どうか。盛況である。
しかし、いつも同じ顔である。
私の主催コンサートは、極端にお客が少ないことが多々ある。チケットをばら撒かないからだ。
満席のコンサートは、皆々、弟子や、その眷属たちであり、本当にクラシック音楽が大衆のものになっているとは思えないのである。
その理由は簡単である。
クラシック音楽の世界、音楽家や、ファンは、音楽を知らないからである。
音楽という観念を持って音楽であると思い込んでいる。
しまいに、本当のバッハを聴いたというような評を読むと、愕然とする。本当のバッハと言う根拠が、どこにあるのかということで、唖然とする。

バッハの音楽を言えば、バッハは、自分が作曲したものは、演奏すると捨てていたのである。
奥さんが、それを残して、今、現存している。
驚きであろう。
バッハは、音楽を知っていたからである。
音楽は再現芸術ではないということである。
しかし、いつからか、クラシック音楽が、再現芸術として良しとしてきた経緯がある。

実は、音楽は瞬間芸術である。
頭の悪い下手糞なピアノ弾きが、ベートーベンを弾いても、馬鹿で下手なベートーベンしか弾けないのである。
それに小ざかしい小理屈を言うから、終わっているが、それが、日本のピアノ弾きの大勢だと思えばよい。
ピティナとか言うピアノ教育団体があると言うが、あれを野放図にしている様が理解出来ない。

私は素人だから、名前はよく知らないが、女の、たしかアルゲリッチとかいうピアノの演奏を聴いた。たまたまである。
あら、これなら喧しくなくていいと思った。
そして、映像であるから、彼女のピアノの弾き方を見て、納得した。実に、理にかなっているのである。
鍵盤を叩くのであるから、あのような手付きにならなければ、駄目である。
一体、日本のピアノ指導者は、何を教えているのであろうかと思った。
弾き方さえ満足に教えられないのである。

そして一音が一音ではない広がりを持つ。
どうして、あのように弾かないのか。方法が解れば弾けるはずであると思うが、余程、日本のピアノ弾きは、頭が悪いようである。
そして、一音に広がりがあるという意味を理解出来ないのであろう。
厳密に音程をと言うが、音程さえも知らないのである。
音程が何に支えられているのかということを知らない。

私の歌に、歌心があるので、音程さえしっかりすれば、スラバなどより、良いという投稿をくれた人がいた。
私の歌に歌心があるならば、音程ではなく、私の心象風景であろう。また、私が、その人の言う、音程なるもので歌えば、私の歌にならない。
彼らは、音程という観念、あるいは概念に毒されているのである。
つまり、クラシック界は、観念の世界であること明々白日である。

例えば、沖縄民謡など、実に幅広い音程がある。一音に無限の広がりと響きがある。
例えば、三味線や琴の音もそうである。勿論、調弦という音合わせをするが、弦というのは、狂いが生ずる、その狂いの間合いが、音になる。

音楽という、音という意味も、楽という意味をも知らないようである。
音楽学という学問があるが、あれは仏典のように、寝ぼけたことを延々と書いて、堂々としているから呆れる。
ああいう理屈で音楽を聴くから、音楽の意味など知らないのである。

西洋音楽に関しては、もう面倒なので言わない。
日本の音楽は、神楽である。
これは神と共に楽しむという意味でよい。
神呼びをして、神と共に歌い、踊り楽しむ。
簡単に言う。
演奏者と聴く者が、一緒に音楽を作るのである。
掛け声あり、踊りあり、実に楽しい。
座席に座らせて、じっと聴かせるような音楽ではない。
室町期に猿楽、能が出てきて、それを堕落させた。
それから、堕落の一途を辿った。あれが伝統芸だと言うから、笑う。
世界遺産にもなっているという。
舞台に上がっている者だけが、楽しんでいるのである。
歌舞伎にいたっては、終わっている。血筋にのみ、何か許されたものがあるかのように、狭い世界を作って、伝統だと言う。勿論、否定はしない。あれを見て、楽しむ人がいるのであるから、何をか況やである。

伝統という言葉も、曖昧になり、千年も経ていないものを伝統という根性が解らない。
能は、世阿弥で終わり、歌舞伎はお国で終わった。後は、惰性である。本人たちは、芸術だと信じ込んでいるから、何もいうことはない。

伝統とは、誰もが享受出来るものであり、その民族の者であれば、無償で成せるものを言う。
誰もが享受出来るものは、万葉集である。
そして民謡から始まる歌謡である。
そして伝統は、創意工夫によって進化する。
茶の湯の千利休は、茶の道、創意工夫であると喝破した。今の茶道家元が嘘であることが解る。あれは屑のような手前を、商売の道具にしているのである。
礼法ならば、武家礼法の小笠原流で足りる。

さて、ウイーンである。
その様を見れば、クラシック音楽の有り様が大変革の時代に入ったと見るのである。
一部の貴族のために始まった、西洋音楽の流れが民衆に開示され、今に至り、そして、音楽は、いよいよ民族音楽との融合期に入った。

西洋音楽の世界支配が終わったのである。
その底には、キリスト教支配がある。
イエスキリストがユダヤ人に殺されたように、今、イエスキリストが現れれば、世界中のクリスチャンが彼を殺すであろう。何一つ、彼の言葉を実行していないからである。
汝の敵を愛せないクリスチャンであるから、当然である。
中世からキリスト教に抑圧されていたイスラム世界が、各地の民族音楽が、堰を切ったように音楽として登場するであろう。

ピティナで儲けていた人も、音大、芸大もご苦労様でした。
ということになる。

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2007年04月09日 19:01に投稿されたエントリーのページです。

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