仏教思想の無常観というものが、いまだに誤解されている。
あれは、中国思想といえる。
特に、激しい誤りは、ニヒリズム、虚無主義のように受け取られていることである。
仏陀は、無常を超えていた。
彼は、苦として、人生を観た。
生老病死、生きること、老いること、病に入ること、そして死ぬことを、単純に苦であると観た。
しかし、これも違う。
何故、それを苦として認識したのか。
レベルが低い霊界のコンタクトから始まった、天理教の中山みきという教祖の、婆さんでさえ、陽気暮らしを説いた。
すべて、観念を作り上げて、それに従って、物事を捉えるという、馬鹿なことを人間はする。
無常観など、単に、諸行無常という、あらゆる行は、推移し、移り変わることを言う。
「行く川の流れは絶えずしてもとの川にあらず」という認識の程度である。
それならば、ギリシャの古代哲学も言った。
足を入れた川は、今の川ではない等々、死ぬまでの暇つぶしに考えたものである。
今一度、仏陀が何故、苦として物事を捕らえたのかということを、探るべきである。
それとて、仏陀の、あの境遇である。王子という、何不自由しない暮らしの中での、認識である。もし、仏陀が、貧しい生まれであれば、どうであろうか。
私は、いい気なものだと思う。
無常観について、難しく言えば、いくらでも言える。
あれは単純に、物事の推移を言う。その中に、人間の生もあるという認識である。
ただ、それだけである。
何も、特別なことではない。
おおよそ、ある年齢に来ると、無常観に、いたく納得する。アホでもである。
つまり、自分の老いを感じてくると、何となく、それが理解出来たような気に成る。
単なる耄碌であるのだが、そこは、老いたという単純な感慨である。
仏陀の苦は、仏というオリジナルを創造して、それに邁進する。
苦を越えるものは、輪廻から外れることであると。要するに、次に生まれないということである。インドの基本思想であったものを、越えるという作業である。
輪廻に在るから、いつまでも苦を体験するという。それを外れることが、仏になることであった。
しかし、実は、この仏という言葉も、怪しい。
ニルバーナ、涅槃という境地に達することを言うのだが、涅槃というのも、怪しい。
解りやすく言えば、悟りであるが、悟った者が、物を言うことが出来るのかである。
悟りは、超越を言うのであれば、言葉にならないが、禅など、よく語る。いや、饒舌過ぎるのである。
あれは、きっとウソなのであろう。
終いに、意識が拡大して、宇宙大になり、云々となれば、すでに妄想である。
座したまま、意識が上り、地球を超え、そして、我が内に、宇宙がある云々。
まあ、そう思いたければ、思っても良い。
それでは、古神道を言う。
自然から、すべてを学んだ。人間の思惑ではない。
無常観など、自然の前には、理屈である。
日本の四季には、春夏秋冬があり、循環の様を神と観る。無常観などという、代物は無い。
絶えず移り変わるからいい。
花が散り、そして種を蒔く。再生がある。それを目の当たりにして、無常観などあるわけがない。
人間も、自然の一部であると感得した。
故に、清き、明き、直き心で、十分だった。
無常観などという、曲者に左右されない、純粋素朴な情で足りた。
それが、平安期から、無常観に、勘違いされた無常観に、セックス三昧を繰り返して、出来上がったのが、日本の無常観である。
通りで、セックス三昧を体験した者が、老いて、般若心経などを、読み始める。
あんなものは、気休めであるが、救われるから、終わっている。
ハウツーの救いで足りるから、笑う。
輪廻を超えるというテーマの元に、仏というオリジナルを創造した仏陀に真似て、自分のオリジナルを創造することが、救いと言う。
日本人は、翁に、それを観た。
老いて、翁になる。つまり、爺の先に在る、神に近いものである。
神に近いとは、死に近い者ということである。
この世から、超越したものではなく、あくまでも、この人生の、延長にある。
そして翁は、お隠れになり、いつまでも、この世の人と共にある。
山に戻って、生きている者を見詰ているという、素朴な考え方であり、何も、仏や神という、超越したものにならなくてもよいのである。
死生観等々、皆、輸入された言葉の世界を持って、今に至るまで、理解の如き気分になっているが、気分になっているだけである。
死と言う観念さえ、輸入されたものである。
日本の死は、隠れることであり、消滅、あるいは、仏という、不可思議な、ウソのようなものにならない。
何が真実かといえば、真実は、今目の前にある。
それが自然の姿であった。それ以上を創造することは、実に、僭越である。
創造と言えば、聞こえがいいが、何のことは無い、妄想である。
役者は、成り切ることで役者になる。
妄想も成り切ることで成就する。
しかし、そんな力みは、いらない。
古神道に戻れ。
そして自然と共生と共感することである。
あらゆる宗教の元である、伊勢神宮を見ればよい。
何も無い。自然の中に、掘っ立て小屋のような、高床式建物があり、鏡が奉られてある。
巨大な建物を建てて、神殿でございと言わない。
先祖の住んでいたであろう、そのままが、そのままにしてある。
それでいい。
妄想はいらない。
巨大な建物を建てる宗教が、ウソ偽りであること、必至である。
無常観を言うなら、建物などいらないではないかと、気づかないアホに、無常観も何も在るわけが無い。
寺の建物を見れば、教えがウソであることが、よくよく解る。
ウソを隠すために、建物を建てる。
それを見て、神がいると思うのは、あちら人である。
私は、ウソだと見抜くのである。
イエスも、神殿に行き、ここは神の座であると、物売りの店などを壊したが、あれはやり過ぎである。
神は、建物にいないのである。
そんなことは、少し霊感や、霊観があれば解ることである。
伊勢神宮の鏡は、実に真っ当である。
鏡に映せば、私がいる。
それを拝めという。天照大神は、私の先にある者で、それを私が写す。
何と、真っ当であることか。
鏡には、私がいる。
この深遠な情を、教えられずにいる世代が団塊の世代である。
早く死んだ方がマシである。
日本人の真骨頂である、情を知らないのであるから、一度死んで、出直した方がいいに、決まっている。