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お遍路

誤解されないように言う。これは否定ではない。注意である。
四国八十八ヶ所のお遍路である。
団塊の世代も巻き込んで、ブームにあるという。

まず、基本は歩くことである。
今は、アスファルトが大半であり、そこを歩くと言うのは、お馬鹿としか言いようが無い。意味が無いのである。
足腰を痛めてしまえば、元も子も無い。
バスやタクシー、レンタルカーなどで行くというのは、全くの無意味である。

何故、遍路に出るのかと言えば、暇つぶしである。
自分を見つめるために歩くというならば、四国でなくてもいいはずだ。
それに、四国という土地柄を知っているのだろうか。
あの地は、島流しの地である。
弘法大師空海の云々というが、彼は、京都、禁裏の近くに野望を抱いて、寺を建てたのである。また、高野山である。比叡山の最澄に対抗してのものである。
空海の野望に付き合うことは、いかがなものか。

勿論、空海の成したことを否定するのではない。民のためにも、様々な福祉活動をしたことは、十分過ぎる程、評価できる。それと、彼の信仰、宗教観は別ものである。

では、心霊から見る。私の霊学からみる。
まず、多くの巡礼をする土地は、多くの人の思いが溜まる。願いの渦巻きがある。そして、浮遊する霊である。幽霊である。
怨霊となって、今もそのままになっている者もいる。
仏教で言う、成仏出来ない霊体がいる。

誰も言わないから、私が言うが、空海は、仏法、彼の言う、密教だけでは、解決しないこともあり、神道の有り様も取り入れたのである。
神道に関しては、多く、言挙げせずという常識があるので、口伝が多く、また、知ることは難しいことが多々ある。
神道の、古神道の修法とは、実に、個々人によって違うために、体系づけることが難しいのである。
つまり、空海の密教だけでは解決しない問題を、神道の修法を持って成したということである。
真言とは、呪術の言葉であり、それは、インドバラモン等々の、仏法とは言えないもののことである。しかし、仏法だというから、しょうがない。
仏法に絡めて、仏法の一派として起こった宗派である。要するに、新興宗教である。また、それは、中国思想に加味されたものであるということ。

さて、お遍路は、寺をお参りする。
寺をお参りして、具合の悪くなる人は多い。
不成仏霊のせいである。
死んだ者が、寺に住み着いていると思えばよい。霊界に行かずに、現世に捕らわれている。つまり、寺に捕らわれている霊である。
勿論、その寺の僧たちもいる。
お遍路の古株も大勢いるだろう。
そこで波動が合うと、一時的にせよ、影響を受ける。体調不調であり、精神的に不安定になる。
もっと悪いのは、般若心経など唱えて回る。
あのお経は、思索の手引きであり、唱えてよいものではない。
簡単に言う。
迷いのお経である。一時期、私は、法華経などの後に、法華経の強い言霊を鎮めるために、唱えていたことがある。
法華経は、因縁を出す力があるゆえ、それを消滅させるべく唱えたのである。

言霊を学べば解るが、お経は意味ではなく、いや、宗教の祈りの言葉は意味よりも、言葉の力が動く。それを、大半が知らないということである。
勿論、宗教家もである。

思索の手引きとは、ものを考えるための、手引きであり、あれを、唱えるということは、不安定な波動を受けやすいということである。
霊能者等々、霊を祓う際に、唱える団体もあるが、誤魔化しである。消えたように感じるだけで、次元移動をさせる力は無い。
成仏ではなく、往生させるのである。
往生とは、単に、別空間に移動させると考えてよい。
つまり、ここではなく、あちらに行かせる程度のものだ。

般若心経は、言葉の遊びに過ぎない。インド人の好む思考である。解ったようなつもりになるが、何も解らない。解った振りをするのみ。
あれに、人生や宇宙の秘密があると思うのは勝手だが、唱えて、どうなるというものでもなく、魔物がつけ込んでくるだけである。
いや、効力があると言う人がいるだろう。
当然である。
魔物と魔物の取引や戦いをするのである。

大和言葉には、あのような、汚い音は無い。
最後の、ぎゃてーぎゃてーはらそうぎゃーてぼーじそわか、になると、呪文の最もたるものてあり、意味は、彼岸に行くものよ、汝に幸あれのようなものであるが、言霊としては、最悪である。
それなら、梵語で、ガテーガテーパラサンガーテ、ボディスバハァーと唱えた方が、まだよい。

お経を漢語で読むから、おかしくなるのである。
それを、延々として成してきた、日本仏教なるものは、何も知らないと言える。
陀羅尼と言われる経文は、まだ梵語で唱えるからいいが、漢語で読むと、魔界に通ずる。
それでも、勧められない。
余程の、覚悟と信仰があって、成すことができる。

京都、奈良の寺寺寺、等々、皆々、お参りに勧められない。
観光ならばよい。下手に拝むと、とんでもないことになる。
見よ、僧侶たちは、とんでもない生活をしているだろう。
彼らを見ればよく解るのである。
邪霊、悪霊にやられているのである。彼らが宗教家などと言えないだろう。
信徒から、大枚な金を巻き上げて、豪華絢爛たる生活をしている。さらに、その集めた金で、信徒相手の商売である。信徒から集めた金で、信徒相手の商売である。
僧侶といえるか。
仏陀の仏法など無い。
彼らは、習慣と慣習に生きているだけである。

信徒を持たない奈良の寺は、ましかと思えば、まだ武士の霊がうろうろしているという有様で、往生させることもできないでいる。
奈良の寺にボランティアで、改築工事に行った人が、武士の霊に憑かれて、両足の複雑骨折という、交通事故に遭った人を知っている。横浜の日蓮宗の僧に祓ってもらい、何とか、立ち直った。

要するに、霊を扱う者は、生半可なことでは成らないということだ。
だから、霊を信じないというアホな僧もいるほどだ。
さて、それでは、どこにお参りするかといえば、ただ一点のみ。
伊勢神宮である。
多々ある神社仏閣で、私が納得したところは、無い。
皆無である。
申し訳ないが、皆無である。
伊勢神宮のみである。

高祖皇宗の天照大神の臨在する正宮のみ。
ただし、周辺の伊勢神宮、つまり、それにまつわる社を回るだけでよい。
何も無い。それがいい。
古代の森に、高床式の小屋が、大神の臨在する建物である。
小屋である。
後は、何も無い。
世界の宗教の聖地といってもよい。
あれほど、慎ましい社を見たことがない。
そして奇跡は無い。神の証拠である。
神は、奇跡を起こすことはない。今、生きていることが奇跡であるから、他の奇跡を求める者の、願いは聞かれない。
感謝をする場所としてある。ただ在る。それが、私の霊感に響いた。
この地にしか、高い霊界の波動は無い。
在るということの臨在のみでよい。
ぶらぶらと玉砂利を歩いていると、それだけで身が清まるのである。
正宮の前で、何事もなく、礼拝する。それで終わり。
親のいる場所であるから、安心するだけである。

アスファルトの上を1400キロも歩くことは無い。
経を上げることも、説教を聞くこともない。
自分に説教していれば十分である。
普段の生活の中で、経をあげるより、説教を聞くより、遥かに素晴らしい教えを受けているのであ。
伊勢神宮に行くと、それが解る。
後は、ゆったりと、食事をしたり、その辺りを歩いて、終わりである。
ただし、好きな人は、末社等々を回ると、100社以上あるから、回ればいい。

ちなみに、伊勢神宮は、今年創建2000年である。

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2007年04月22日 15:04に投稿されたエントリーのページです。

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