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2007年05月 アーカイブ

2007年05月01日

藤岡宣男 歌の社祝詞

藤岡宣男の命 尊称 歌の社大神

歌の社大神祝詞
うたのやしろ おおかみのりと

かけまくもかしこき大御神
かけまくもかしこき おおみかみ

天照大御神の御前に謹んで祝詞を申す
あまてらすおおみかみの みまえに つつんしで のりごとを もうす

歌の社大神の遺徳
うたのやしろおおかみの いとく

涼しき歌声をもって
すずしきうたごえをもって

美空のこどく千尋の海のこどく
みそらのごとく ちひろのうみのごとく

広く平らけく
ひろく たいらけく

清く清く鳴り響きたるがごとく
きよくきよく なりひびきたるがごとく

我らがために
われらがために

祓いたまい清めたまうことのよしを
はらいたまい きよめたまうことのよしを

天津神、国津神、八百万、千代万の神たちと共に
あまつかみ くにつかみ やおよろず ちおよろずの かみたちとともに

聞こし召せと
きこしめせと

かしこみ かしこみ 申す

解説
藤岡宣男は肉体のある時は、普通の人間として生活し、人間としての欲望を持ち、バランスを保ちつつ生きていた。
バランスとは、偏ることなく、生活を楽しんでいたということである。
特別な修行をするから、神や仏になることはない。
また、特別な修行というものは、本来は無い。
禁欲、断食、肉を食べないなどという、アホなことはしない。
食べるものは食べて、寝る。
苦難を選んで、あの宗教的というべき、マゾ的行為も無い。
生きるということは、生きることを楽しむことであり、それを否定するような病にはないということである。
そのようにしか生きられない人が、マゾ的、修行をするという真実である。
ここで、あたかも、藤岡を神様のような扱って思われると心外である。
普通に生きたから、いいのである。
喜怒哀楽を持って人間として生きたからいい。
勘違いして捕らえられては困る。
人間として生きること。そのために、生まれてきたのである。
神や仏になるために、生まれたのではない。
人間というものが、何であるのかを問うために生まれたのである。
日本の祖先は、それを生きた証に、死者を尊称して、命、尊、みとこ、と呼んだ。
はっきり言うが、宗教で言うことろの修行なるものは、妄想である。
私は、全面否定する。
すべての人間は、女の股から生まれた。
処女懐胎のキリストも、女の股から生まれた。
修行して、特別な能力を得た者は、魔界のものである。
人間は人間から生まれる。
主イエスは、肉から生まれた者は、神の霊によって生まれ変わらなければならないという。
誤りである。
それならば、何故、人間を神の子というのか。
この矛盾を、主イエスは、言う。
肉から生まれた者は、肉から生まれて当たり前である。肉から生まれなければ、どこから生まれるのか。
詭弁に、感動する無かれ。
結局、洗礼によって、罪が許されると言うが、古神道では、禊のことであり、禊は、一時的なものであることを知っている。
洗礼ではない。洗霊が必要である。それを知らない。
それでは、洗霊とは何か。
生きることである。生きることにより、自らを洗霊するのである。
生きること自体が洗霊である。
愚かに生きても、アホに生きても、生きることである。
洗霊とは、自業自得、因果応報を言う。
人間は、すべて自己責任による。
だから、馬鹿は死んでも馬鹿である。これ、至上最大の真実である。

2007年05月02日

支給漏れ、不払い、そして道徳

年金の支給漏れ、22万人は、氷山の一角という。
社会保険庁とは、語るに落ちた。
だから、これ以上書かない。
兎に角、彼らは、非国民であるということである。
それで、大枚な給与を得て、家族、妻子を養っているのであろう。
ずさんな記録管理、不親切な職員対応等々、何度も書いたので、これも省略する。

これで許されると思っているとは、信じられないのである。
解散、解体して、失職させるべきである。
自業自得である。
要するに、仕事をしていないということである。民間ならば、潰れる。

と、言いたいが、その民間の生保、損保の、不払いの額を聞いて、空いた口が塞がらない。
生保は、359億円、損保は、294億円である。
支払うのが仕事であろう。

仕事をしていないということである。
こうして、国に守られている者どもは、皆々、非国民になる。

金融庁は、各社の報告と合わせて、行政処分を行うとある。
不祥事が起これば、口先の謝りだけは、一人前である。しかし、その裏は、舌を出している。
社長、幹部は、切腹である。
まず上の者は、死を持って謝罪する。死を賭けないから、不祥事も平然としていられる。

要するに、ここから察するところ、自分の身は、自分で守るということである。
何のための保険か、何のための年金か。

ある生命保険会社が、営業成績を上げるために、保険の切り替えをした。
二重に保険加入する形になり、契約が増加したように見せかけた。
それが発覚して、お詫びである。
お詫びで済むなら、警察は、いらない。

私は、会社という法人は、社会のために役立つものだと信じていた。しかし、社会のためなど、露も無い。ただ、自分たちの利益のみである。
いつから、日本は、こんな愚劣な国になったのか。
しかし、犯人探しはしない。詮無いことだ。

匿名を武器に、中傷などの書き込みが、無法地帯化している。
全国の警察に寄せられた、被害相談は、昨年、8000件を越えた。
やりたい放題、言いたい放題の匿名という暴力である。

これも、何度も書いたから、多くは言わない。
不払いの問題と、この問題には、大きな共通点がある。
人道無視である。
だが、今、人道という言葉の意味が、解る者は少ない。
ジンドウと、漢語で読むからだ。
大和言葉で読むと良い。
ひとのみち、である。人の道。
人の道とは、人倫の道である。
別名、道徳とも言う。ドウトクと漢語で読むから解らない。大和言葉で読めばよい。
道の徳、みちのとくである。

教育審議会議が、道徳教育の復活を掲げた。
このことについて書いた文が、神の配慮か、消えてしまった。
要するに、私の書いたことは、誰が、道徳を教えるのかということだった。
日教組に代表される、道徳に、最も遠い者ともが、道徳など教えられる訳が無い。
何故なら、道徳とは、伝統教育だからである。彼らは、道徳を、日本の伝統を全面否定して成り立つ。

日本の伝統とは、自然と共感、共生する、古の教えである。
総称して、古神道と言う。
古神道を知らない者が、道徳など教えられないのである。

古とは、いにしえ、つまり、我らの祖先たちの教えである。
祖先を漢語で読むと、解らない。
大和言葉にする、みおや、御親の教えである。
みおや、実に、美しい呼称である。

親に、御という尊称をつける民族である。その先に、神という尊称を用意してある。
日本の神は、御親なのである。

ああしかし、唇寂しくなるゆえに、ここで省略する。
これ以上書くと、命が、幾つあっても、足りないことを、書かなければならない。
以下省略。

2007年05月03日

三度、千の風

千の風のCDが80万枚を突破したという。
売れたことは良いことである。
私は言う。
天邪鬼と言われようが言う。

あれは、意訳した作家の方が、個人的に、密かに曲をつけて、亡くなった方を慰めるためにとの思いでと、聞いている。

いつから日本人は、伝統を捨てて、忘れて、あのような、単純な言葉の世界に填まるようになったのか。
私のファンの方も、実に良い歌であり、心が和むという。それはそれでいい。
また、団塊の世代の人が、多くファンになるという。
団塊の世代とは、日本の伝統教育は勿論、日本的情緒の何物も知らない世代である。
老後は、ログハウスに住み、畑を耕して云々という、アホ、馬鹿、間抜けである。それが、自分の考えかと言えば、そうではないからである。
すべて、段取りされたものであることを知らないから、悲劇である。
作られた、イメージに乗り、単に得体の知らないものに指示されていることを知らない。つまり、自分の幸せというものを、持たないのである。
要するに、主体性の何物も無いのである。しかし、彼らは、主体的であると信じ込むのである。
不動産の企画という新興宗教に似た、教えを私の考えだと思い込む当たりは、アホというしかない。
それらが、多く、千の風に感動するという。

千の風に感動して、自分の墓を、どこに作るかと考えているのである。
要するに、千の風の意味など知らない。
私は、墓にいないという歌詞である。
墓地や、墓販売の会社には、大打撃であろうと思うが、そんなことはまったく無い。
要するに、気分なのである。

万葉古歌
寂しさの 極みに耐えて 天地(あめつち)に 寄する命を つくづくと思ふ

万葉の古人たちは、観ていた。
ここでは、歌の解説をしない。
人間がいかなる存在であるかを。
そして、死というものを、明確に明晰に観た。
それは、孤独である。絶対孤独である。

私たちの伝統は、死を、隠れると言った。
無くなるとは言わない。
身を隠すのである。
欧米の思想にある、断絶した、死という観念は無い。
彼らは、自然を破壊し、征服し、他民族を支配し、唯一絶対の神という観念を置いて、極悪非道にして、人生を捉えているのである。
死ぬと、天国に行くと云うあたりは、救いようが無い。
転生輪廻を説くと、支配するに、憚りがあると、教義にしなかった。

また、インド魔界の関与を受けた、大乗仏教は、なんと、菩薩が衆生を船に乗せて、彼岸へ渡らせるという妄想を説く。
皆々、全体、みんなで一緒を説くのである。実に、耳障りが良い。

私たちの伝統は、こうである。
西行が歌う。
願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ

歌の解説はしない。

建礼門院右京太夫
月をこそ 眺めなれしか 星の夜の 深きあわれを 今宵知りぬる
のである。

皆、絶対孤独の中に佇み、そこから死ぬことを観たのであり、安易な慰めを、一切求めなかった。

亡き人の死を、我が身の死として、捕らえた伝統である。
愛しい人が死ぬ、つまり、それは私が死ぬことなのである。
菩提を弔うという仏事があるが、あんな程度のものではない。
死ぬ人と共に死ぬのである。

私の、もののあわれを読まれるがいい。
私はお墓の前にはいません。千の千の風になって、吹き付けています。
日本の伝統は、すでに、それを凌駕していた。
知らないだけである。そして、知ろうとしなかったのである。

私のバリ島に住む友人は、あの歌に感動する程、日本人は、多くを失ったのかという。
あれは、当たり前のことであり、あの世界が前提にあっての、語りが始まると。
要するに、あの程度の、言葉で感動する程、伝統教育を受けなかった。また、拒んだのだろう。そして、最低、最悪の言葉の世界に、感動するという、お粗末さである。

直接的表現である。
私は墓にはいない。
当たり前だろう。墓にうろうろするのは、浮遊霊である。
以下省略。

また、無味乾燥なテノール歌手の最低、最悪の歌唱は、いかんともし難い。
氷川きよし、より悪い。
以下省略。

伊勢神宮

伊勢神宮という奇跡。

事の起こりは、第10代天皇、崇神天皇から始まる。
天下に疫病などが流行り、天皇は、お奉りしていた天照大神を皇居よりお出しして、奉ることを決心し、皇女を斎王(いつきのみこ)として大和笠縫邑にお奉りされた。
そして次の第11代垂仁天皇の皇女が、斎王を継いだ。
倭姫である。
この倭姫が、伊勢神宮を起こした。

「御杖代」みつえしろ、として天照大神、皇大御神、すめおおみかみに奉仕されて、大和を発ち、伊賀、近江、美濃等の諸国を巡り、御大神の住まいに相応しい地を求めて、伊勢の国に入る。
御神慮により、現在の地に、御創建されたのが、神宮である。
今年、創建二千年を迎えた。

伊勢神宮に関しては、美辞麗句を尽くして語ることを避ける。
端的に言う。
世界の聖地である。
その訳は、簡単である。
巨大な建物は皆無であり、正宮の建物は、日本最古の建築様式である、神明造である。
高床造りであり、ただそれのみ。
ワンルームであり、他に何も無い。
見事である。鎮まるとは、こういうことなのであろう。静かに佇むのみ。その存在を誇示することなく、ただ在るのである。
そこには、仰天する奇跡無く、在るだけ。
深い緑の中に、ひっそりと在る。

この神道と言われる、神宮の有様は、教祖や開祖と言われる者無く、教義として体系されることも無い。
自然の有り様そのままが、教義である。
入信の手続き無く、誰もがお参りすることが出来る。

二千年来、粛々と行われているお祭は、ここにしかない。巨大宗教建築は、すべて思い出の建物として、観光に晒されているのみ。
伊勢神宮だけは、今も祭祀が行われている。
言挙げせずという通り、沈黙を善しとし、ひっそりと佇むあたりは、見事と言うほかに無く。これが日本の祖先の大元であるのかと思えば、自然、心が静かに満たされる。
総氏神と言われると、各地の氏神を思い起こし、自分が育った土地の、氏神、産土神を思い起こす。つまり、私の先祖たちである。
素晴らしい信仰である。私に続いてる流れを感じる。
対立してある、神という観念ではない。
観念というものを置かない、神と尊称する祖先の御親である。

ここに至ると、議論する言葉が無い。
言葉を超えている。

鏡を持って我であると称した、御大神の御言葉。それ以外に無い。
かアがアみイ。
か、がは、みである。あ音とい音の母音である。
ア、 イである。開いて、受ける。
イ、 そして鏡の有り様は、写すこと。それを覗く人を写す。
そこに、神がいる。それは、私である。
御大神は、我を写して神と言う。
単純素朴な、有様を理解する人は幸いである。

この世も、あの世も、まず我が在ること。
我が主体であること。
我と我が対座する様を奉りという。
これ以上理屈を言うのを止める。

私は、伊勢に行く気はなかった。毎日、太陽を拝して十分であった。
太陽を化身として御大神があると信仰するのである。
信心と言えば、我の心が入り、それは邪念にもなる。信仰は、ただ仰ぐのみ。
恐れ多くも畏くも、それだけで私はよい。
神宮の様は、それを善しとする。
そこに小賢しい人間の想像する妄想の教えなど無いことが解る。
清めるということが、自然に同化することであり、特別なことではないと解る。
神道の奥義というような、怪しい作法など無い。鎮魂帰神の法など必要ない。
自然と共生し共感することで得る、禊祓いである。
心を清めるということは、自然の中に心を入れるということである。
海、山、川、草木、そこでしか生きられないのである。その恵みを受けて生かされている。神宮は、それを象徴して在るのみ。

最後に私の霊学から言う。
私が回った宗教施設で、このような波動の細やかな建物や土地はなかった。
名古屋から近鉄で向かったが、ある処まで来ると、波動の違いが感じられた。その波動は、次第に、近づいて来るといった感じで、伊勢に到着して、成る程と思った。
申し訳ないが、神宮に適う神社は無い。また、他の宗教施設も無い。
ここまで清らかさを保つ地は無い。

何度も言うが、私は、神社本庁、伊勢神宮の神職等々は、全く興味が無い。
便宜上あるだけであり、彼らが去れば、誰かが、神宮をお守りするだろう。そういう建物である。
天武天皇が定めた遷宮が、20年に一度行われる。それが天武天皇の皇后であった、持統天皇の代に、国家的事業として行われた。そして、今に続く。
唯一奥義があるとしたならば、この遷宮の意味であろう。
霊学から見る。
息吹の奥義である。
二十歳を成人として見ることも、あながち不思議ではない。それが二十歳であることが問題である。
40、60と一生のうちで、少なくても、二回から三回、多い人は、四回、五回と遷宮に合う。
風水による云々という考え方もあるが、私は、違う。
正宮をお移しして、建物の息吹を新たにする。それは国家の息吹であり、留まることをさせずに、いつも新たなるものであること。
自然の生成に預かる作法であろう。
人間で言えば、改める年になる。
つまり、いつも新しく成れるということである。
一日、24時間であり、半分は12時間である。人間の生態リズムは、20時間である。
天は24時間で、地は20時間である。4時間のズレが生じる。
天地と供応させてズレの息吹を合わせる。
生成発展の奥義だろう。しかし、それは理屈ではないと思われる。

天武天皇は、閃いたのである。思いつきである。しかし、この思いつきとは、自我意識を超えたものであり、人間は、自分が考えているより、別の意識の方が、激しく動いている。決定したことは、自分の意識であると思うが、実は、計り知れない、意識の大海から出る。
主体的に自分が決定しているように思うが、その実は、大いなるものに生かされているのである。
それに気づくことが、人生の奥義であろう。
ただし、それを神や仏と言う無かれ。
私である。私の私である。
以下省略。

2007年05月04日

あなたの宝のあるところに

あなたの心のあるところに宝があると、主イエスは言う。
人は、自分の宝を持って人を判断する。
赤字コンサートを長年続けた私の心を理解出来る人は少ない。
ある人は、宗教の布教のためにと言う人もいた程だ。何か、理由がなければ、出来ないと思う。そして、自分の考えの器を越えると、妄想、想像になる。
藤岡宣男を広告塔に使って、宗教の布教をしていると聞いた時は、笑った。
また、すべてを金儲けと考える人は、セミナーも、金儲けのためにしていると言う。

勿論、世の中の活動力には、お金が必要不可欠である。
私は、老後の資金を費やして、コンサートを開催した。
唯一つ、藤岡宣男の歌声を皆に、多くの人に聴いて貰いたいという一念である。
それも、理解出来ない人が多い。
なんとなれば、そういう人に逢うことのない人は、そんなことは考えないからである。
また、藤岡を好きな人も、不思議なことに、藤岡に嫉妬した。つまり、藤岡に私のような者が支援しているということをだ。

それは、嫉妬である。好きな人をも嫉妬する。
あるピアノ弾きなども、その一人で、何かにつけて、藤岡に私の批判、非難を行っていたことは、藤岡から多々聞いていた。
自分には命がけで、そういう行為をしてくれる人がいないのである。藤岡には、いる。それが嫉妬である。しかし、藤岡のことは好きだ。
どうする。
引き剥がすしかない。
故に、
私の批判と非難を繰り返した。
それは簡単なことである。私がクラシック音楽に素人であるから、いくらでも、批判や非難が出来たのである。

さて言う。
人は、その器でしか、人を計ることは出来ない。
だから、主イエスも言った。
あなたが計った秤で、あなたも計られると。

最初に新しいことを始める者は、必ず批判や非難に晒される。それは、世の習いである。
だから、私は明治維新を感激して眺める。
明治維新は、皆々、若者が立ち上がり、それに和して、年老いた者が従ったのである。だから、新しい国を作ることが出来た。
普通ならば、無理である。
年寄りが若者に習うとは、出来ないことである。
しかし、あの当時の年寄りは、若者に習ったのである。

要するに、分を知る心を持っていたのである。

さて、個人主義が遂行されているように思われる現代であるが、その個人主義は、単なる自分勝手と同じ理解であり、未だに、個人主義など遂行されていないのである。
なんとなれば、皆、自分の器に入れて考え、また、器に入らない者を、排除するのである。
例えば、結婚である。
結婚している者は、結婚したことを後悔していても、結婚していない者に、結婚は、まだかと問うのである。そして、自分と同じ境遇に置きたい。
ヤクをやる者は、他人もヤクをやることに誘う。
皆、その程度のレベルである。

理解出来ない行動を取る者を理解する必要は無いが、批判し非難する必要も無い。
自分とは違う人間であると思えば良い。これが一番理想的な、行動である。

私は、金儲けを止めて、寄付を募り、新しい活動を始める。
それは私の人間教育である。私の金で、新しい活動をした時に、私は批判や非難する者を、徹底的に叩くだろう。
しかし、寄付を得ている身であることで、謙虚という学びを実行出来るのである。

あなたの宝のあるところに、あなたの心がある。
主イエスは、実に、含蓄のある言葉を残してくれた。
何もクリスチャンが、そうなのではない。世のクリスチャンは、口ではそういうが、宝は、この世のものである。
彼らの宝は、神でも、主イエスでもないことは、証明済みである。

私は言う。
あなたの器以上のものは、見えないのであると。

もののあわれについて45

作者不明の歌を続けて読む。

うち日さつ 三宅の原ゆ 直土に 足踏み貫き 夏草を 腰になづみ 如何なるや 人の子ゆえぞ 通はすも吾子 諾な諾な 母は知らじ 諾な諾な 父は知らじ みなの腸 か黒き髪に 真木綿もち あざさ結ひ垂れ 大和の 黄楊の小櫛を 抑へ挿す 刺細の子 それぞ吾が妻
うちひさつ みやけのはらゆ ひたつちに あしふみつらき なつくさを こしになづみ ひとのこゆえぞ かよわすもあこ うべなうべな はははしらじ うべなうべな ちちはしらじ みなのわた かくろきかみに まゆふもち あさざゆひたれ やまとの つげのおぐしを おさえさす さすたえのこ それぞわがつま

これは、親と子の共作である。
前半は、三宅の原を通って、たんぼの土に足を捕られ、生い茂った夏草を腰の辺りで押し分け押し分け、そんな苦労をして、どこのどんな人に通うのですかねー我が息子よ
後半は、息子の歌。
お母さんは、まだ知らないでしょうね。勿論、お父さんも。真っ黒な黒髪に、真木綿をもってあさざを結い垂らし、大和の黄楊の櫛を抑えに挿した、ほれぼれするほど小意気な娘、そけが私の妻なんです。その人にために通って行くんです。

反歌
父母に 知らせぬ子ゆえ 三宅道の 夏野の草を なづみ来るかも

実に、ユーモアのある歌である。
恋人の家に通う成長した息子と、両親の掛け合いが楽しい。
恋人は、即妻になる。
通い婚である。庶民は、それで結婚になった。
待つ女、行く男。
結婚の儀式のようなものは、豪族以上からあったが、庶民は、そんな儀式は基本的に無い。結ばれれば、結婚と同じである。
一人の男が、多くの女と交わっても、それが当たり前である。
子供が出来れば、女の里で育てる。

結婚制度というのは、後々のこと。
家族と言う意識も違う。それは専門家に任せる。

ここでは、現在言われる貞操観念等々は無い。
貞操とは、性の抑制である。そんな意識は、当時無い。性は、大らかで、自由なものだった。農民は、乱交である。月夜の晩に、皆々、野に出て、乱交する。
要するに、当時の人の心に沿って考えないと、理解出来ない。
性を楽しむ。純粋に楽しむ。
今言う、乱交ではない。一定の秩序があった。
自由奔放は、性の解放であり、病のような、性の拘りではない。

恋とは、性であった。性の交わりは、即、妻、夫、ともに、つまと言う。
ただし、年から年中発情していたのではない。
性の堕落は、平安期の貴族からである。
あれは、どうしようもない。仏教の無常観にかこつけて、性の遊びを繰り返した。性は遊びではない。命懸けの恋だった。

性の喜びは、豊穣の喜びと一緒にあった。
つまり古代の人の性は、豊穣のための性だった。これを理解するには、万葉を読み込むことである。
豊作の祈りが性に昇華したとも言う。
テクニックを持ってセックス三昧の捕らわれではないということだ。後に引かない性の行為である。
捕らわれが無いというところに、意味がある。

捕らわれは、観念を作る。
古代の人は、恋即性であり、何の曇りもない。純粋無垢な性だった。
観念を作り始めて、堕落する。
観念は妄想である。
この世に、何一つも、観念なるものはない。
古代の乱交と、現代の乱交は、全く意味が違うので、間違いのないように。

2007年05月05日

もののあわれについて46

うつくしと 吾が念ふ妹は 早も死なぬか 生けりとも 吾に寄るべしと 人の言はなくに
うつくしと わがおもういもは はやもしなぬか いけりとも われによるべしと ひとのことはなくに

この歌は、読み人知らず、人麿歌集に収録される、旋頭歌である。
577 577の六句を歌体とする。
古く記紀の歌唱には577の三句で歌われるものあり、片歌という。
これは実に、面白いのである。
一人が三句を歌い掛けて、他の者が、また三句で答える。つまり片歌二首を一組とする。

代表的な歌を上げる。
日本武尊やまとたけるのみこと、が、東征の折に、酒折の宮にて
新治 筑波を過ぎて いく夜か寝つる
にいはり つくばをすぎて いくよかねつる
と歌うと、御火焼みひたき、の老人が
日々並べて 夜には九日 日には十日を
ひびなべて よるにはここのよ ひにはとをかを
と返すのである。

日本武尊と、火炊きの老人が歌で和すとは、実に歌の道とは、平等であることが解る。
歌の場になると、誰もが平等になるのである。
だが、このような二人の問答形式にある旋頭歌も、万葉の時代になると、一人の人間によって歌われる民謡風な問答形式になり、さらに呼びかけ形式に、そして繰り返し形式になり、やがては、個人の心情を露土するものに至る。
しかしそれは、和歌の世界であり、旋頭歌は、和歌に吸収されることになる。

万葉の時代は、旋頭歌の衰退の時代である。
しかし以前にも書いたが、577の形は元からあったのであり、五七調、七五調とは、日本語の息遣いであろう。

上記の歌は、うつくしと、とは、愛しい、可愛い、愛すべきものという意味である。
吾に寄るべしとは、寄るは、思いを寄せる、なびき寄せる、妻となってくれるという意味である。
愛しい、可愛いと思っているあの子は、いっそのこと死んでくれたらいい。生きていても、いつかこの私に心を通わせてくれるとは、誰も言わない。
そんな意味である。
裏を返せば、愛しくて辛過ぎるのである。
自分に対する相手の無関心さに、絶望しているようである。
これ程、純粋無垢に恋をしたのである。

人を愛しいと思う心は、どこから起こるのであろうか。
未だに、それを解明するものは無い。
あの人は、許せるが、別の人は許せない。何となく気の合う人、合わない人、どこにその問題があるのだうろか。
また、何となく似た者同士が一緒になる。グループを作る。
これは、実に奇跡的である。人の縁というものである。
縁は、エンとは漢語であり、えにし、と読めば大和言葉である。
人の縁とは、不思議である。それは、その真実が見えないからである。潜在意識の奥に隠されたもの。
親子として、夫婦として、兄弟として、友人として等々、様々な人間関係は、深い意味があって成るものである。

親子は一世、夫婦は二世、師弟は三世と言われる。血のつながりのない師弟の関係が深い縁という意味である。これについては、多くを語らないでおく。

読み人知らずの旋頭歌を、もう一首。
玉垂の 小簾の隙に 入り通ひ来ね たらちねの 母が問はさば 風と申さむ
たまだれの おすのすけきに いりかよいきね たらちねの ははがとはさば かぜともうさむ
玉を突き通した簾の隙間を入ってくる風のようにいらしてください。母が訝って誰だい、誰が来たのと問えば、誰も来ませんよ、風ですねと申しましょう。
恋する人の来るのを待つ女の心境である。
これで当時の状況が伺える。
通って来る恋人、夫である。それを待つ女。
待つ女、行く男。万葉からの作法である。
しかし、今は言うだろう。女が行く。男が待つ。それでもいい。
時代は変わる。だが、人の心模様に万葉と大差は無いはずである。

キリストの絶唱

キリストの絶唱を書く。
何故、書くか。
カトリック、プロテスタント、その聖職者、聖書研究家、神学者、そして、諸々の識者、作家等々のイエスキリストに関する考察を批判する。

誰も、他の物の見方から、主イエスに関して、書くことはなかった。
私は、古神道と、私の霊学から、主イエスの言葉を観る。
なんとなれば、多くの聖書解釈は、教会による教義としての解釈であり、それは、人為的に作られたものである。
真実、主イエスの言葉を理解するというのは、霊感による。
主イエスの言葉を借りれば、聖霊による。

聖霊とは、何か。
誰も明確に出来ないでいる。
父と子と聖霊の、三位一体という妄想は、ただ事ではない。
これを唱えた原始キリスト教の一派が、皇帝と結び、正統として、異端審判を行ったのが、あの中世の歴史である。
その反省もないいまに、未だに、それを正統とする。

三位一体とは、古神道の考え方であり、古神道の中にこそある。
天人地である。天と人と、地により、この世はある。天と地を結ぶ者は、人である。

聖霊とは、何か。
主イエスは、父と子の関係に、聖霊が関与することを言う。
聖霊は、別の働きをする。
三位とは、同じ格であるということである。
実は、神と呼ばれる御方は、聖霊のことである。それは、目に見えることは無い。
父とは、主イエスの指導霊である。
聖霊こそ、神である。
聖霊の元に、父と子がある。
キリスト教教義の誤りが、そこにある。

無批判にして教えを信じるのが、信仰ではない。
信仰とは、迷いである。
地の果てまでも、私の言葉を伝えよと言う主イエスの真意は、どこにあるのか。
「主よ、主よ、と言う者が天の国に入るのではない。父のみ旨を行う者が入る」と言う。父のみ旨とは、聖霊のみ旨である。

そして、聖霊として、総称される霊は、単独ではない。
聖霊とは、宇宙に充満するエネルギーである。
聖霊に対する罪は許されないと、主イエスは言う。当然である。それを否定すれば、我が身を否定することになるのである。

旧約には、神の名が出る。ヤーゥエ、エホバ、しかし、それは、魔神であるから、神の名を妄りに呼ぶなと言う。
主イエスが、一人で祈る時に、語り合ったのは、神といわれるものではなく、預言者たちである。
いずれ、おいおいと、それについては書く。

キリストの絶唱は、今も続いている。
大きくズレたきリストの言葉の解釈による。
ただ今、一番、主イエスに近い者たちは、ゴスペルを歌う黒人たちである。
旧約の神ではなく、主イエスにのみ向いている。正解である。

旧約の神から、ユダヤ教、イスラム教が生まれた。
勿論、キリスト教も、それらを神と定める。
主イエスは、旧約を成就するために来たと言う。つまり、旧約の神の正体を観たのである。
そこからの、独立だった。
嫉妬と裁きの神、律法の神と言われる旧約の神との対決である。
でなければ、あの壮絶な言葉は生まれない。
聖霊の、愛の神を伝道したのである。

しかし、古神道では、愛も慈悲の神とも言わない。
自然と共生、共感することにあり、すべてを抱擁する。
仏陀は、慈悲を掲げた。キリストは、愛を掲げた。
その地域にのっとり、説教を繰り返した。
古神道には、それらは必要なかったのである。

今、キリスト教徒であると思い込んでいる者多数。しかし、主イエスに繋がる者であるかは、別である。
教団という組織のキリストであり、主イエスキリストを信奉するものではない。
そして、その誤りに気づかない。
天国に行くと信じているのであろうが、霊界に天国は無い。
あるのは、キリスト教霊界である。非常にレベルが低い霊界である。
キリスト教の霊性は、その低いレベルの霊的波動を受けるのみ。だから、奇跡のようなことが起こる。奇跡は、低レベルの霊界の仕業である。

そして、その霊界には、主イエスはいない。当然である。

私は、唯一、新約で正統と認める、マルコの福音書を引用する。
ルカ、マタイ、マルコは、共観福音書と言われるが、ルカと、マタイは、マルコの焼き写しである。
そして大切なことは、書かれたものがあるということは、書かれなかったこともあるということである。
それを埋めるためには、聖霊による。つまり、霊感による。

キリスト教で言う、原罪説などは、聖霊に対する冒涜であること、誰も疑問に思わない程、やられているとしか言いようが無い。
原罪とは、人間が生まれるということである。それを原罪とは、聞いて呆れる。
生まれたことを、最大の罪とする教義を二千年来教えているという罪である。
端的に言う。
セックスを罪とする、肉の欲望とする、極めて遺憾である。


2007年05月06日

キリストの絶唱2

洗礼者ヨハネから、水の洗礼を受けた後、主イエスは、霊に導かれて、荒れ野に行く。
40日間、サタンの試みを受けるとある。
サタンとは、悪魔の親分である。

サタンから、誘惑されるというものである。
わざわざサタンの試みを受けるとは、どういうことか。

サタンとは、元、大天使ルチフェルのことである。
天使がサタンになるということからして、お話じみている。
アメリカ映画の、SFXのようだ。

仏陀は、悟った後、そのまま死ぬべく準備をすると、ブラフマー梵天が現れて、教えを述べよと促す。
この梵天というのが、魔神であるからして、頭を捻る。

お話の前段階であろうか。序章である。

エクソシストという映画があった。
悪魔に取り憑かれるというものである。それを、エクソシスト、悪魔祓いの司祭が対決する。
神道では、悪魔の存在は無い。皆、荒ぶる神と言う。
悪魔とは、何か。
単なる、馬鹿な霊である。ごろつき、頭の悪い霊である。
そして、奇跡を行う。要するに、奇跡を行う霊である。
それでは、主イエスも奇跡を行った。後で、その奇跡については書く。

サタンの試みは、この世の欲望の誘惑である。
それを主イエスは、すべて跳ね除けた。
しかし、考えてみるに、この世の欲望を捨てたら、生きられるだろうか。生きられない。とすると、すべての人間は、悪魔の側に立つのである。
悪魔の勝ちである。

この世の欲望を、どう捉えるかが、問題である。
欲望否定が、キリスト教の主たる教義になる。おかしい。
欲望を罪として、罪を犯す。それは、罪であるという意識の快感を持って罪を犯すのである。要するに、教義は、実は、悪魔から出でいるのではないかと思わせる。
何故、生きることの欲望を罪とするのか。
ここに、最大の問題がある。

端的に言う。
欲望は、恵みである。人間に与えられた恵みである。
それを、何故、罪に結びつけるのかといえば、それは、人間支配のためである。つまり、教団とは、支配する団体の何物でもない。

人間の世界に、暴力団や、やくざ、マフィア等々がいる。
霊界にも、それらがいる。悪魔とは、そういう集団である。

それに関わって試みを受けるということを、真実考えたキリスト教徒は、いるか。
悪魔の試みを受けるだろうか。
主イエスは、それらと質も次元も違うはずである。
伝道に先立っての自己対話であろうが、悪魔の試みを受けたと書かなければならない事情がある。
悪霊や、悪魔、魔王等々を持ち出さなければ、よく理解できないのである。
神と悪魔との対立。実に解りやすい。
対立の思想は、欧米の考え方の中心である。
中世の異端審判も、正統とされた一派が他を、悪魔の存在として、裁いた。魔女狩りも、そうである。土着の信仰形態をも、悪魔の仕業と考えた。

仏陀も、静かに瞑想している時に、多くの悪魔の試みを受けたとある。
それは、自分の中にある欲望の種である。
美しい女たちが、仏陀を性の快楽に誘う。仏陀は、それを撥ね付ける。すると、彼女たちの本性が現れる。醜い、悪魔の姿である。
どうしても、快楽を罪としたいのであろうか。
快楽の陥ることを、罪とする考え方の、どこかおかしい。

古神道は、欲望を恵みと捉える。
それでは、古神道は、悪魔のものであるかといえば、全く別物、質も次元も違う。

聖書は、この世を悪魔の支配する場所として捉える。
しかし、それは一面的である。
この世は、悪も善も共に在る。味噌も糞も一緒の世界である。

実は、欧米では、神と対立する悪魔に関しての、想念が強く、その想念が生み出した悪魔というものが多い。
キリスト布教の当時は、魔王の働きが強かったことは、事実である。
しかし人間の欲望を手玉にとって、人間を支配するというより、それは、偽善という形で、魔王は、人間を支配した。あたかも、神の側にいるように見せかけて、敬虔に見せかけて、人を指導するという。
簡単に言う。人から尊敬を受ける者の、多くが魔王に支配されていたのである。
キリストは、それとの対決をした。

人間の欲望を手玉に取るのは、悪魔より、教団である。そして、教義を作り信徒を支配する。
信仰は,極めて個人的情緒にある。
内村鑑三は、実に、それを見抜いて、無教会派を名乗り、キリスト教徒となった。
日本の伝統を持って、キリスト教を理解したのである。

悪魔は、その正体を暴かれることを嫌う。
明らかに、悪魔の試みを受けたと書く意図は、何か。
おいおい、それを書くことにする。

2007年05月09日

勃起するもの

パワフルな勃起が・・・
という歌い文句のDMが送られてきた。
多くのDMを捨てる前に見ることにしている。
勧誘、特にお金儲けのもの、そして健康食品等々、各種機具等々、そして海外からのDMである。どこから、私の情報が出るのか不思議だ。

勃起が5分以内に起こり、勃起力が24時間ノンストップで持続することが保障されています。と、ある。
凄いものである。
試した人のコメントが凄い。
二晩ノンストップのセックスという。
そんなにまでしてセックスがしたいのか・・・
世の中は、いつも情欲している様を言うのである。
確かに、セックスは最高の情緒であり、生きるエネルギーであり、人生の讃歌ともなろう。夫婦のセックス、そして恋人のセックスは、生きる喜びになろう。

しかし、二晩連続ノンストップセックス云々となると、意味合いが違ってくる。
これは、病気である。
昔、セックス無しではいられないという女性の相談を多く受けた。毎日必要である等々。そうでなければ、精神的におかしくなるというもので、そういう体質の人もいるのであろうと感心した。
セックスの喜びは否定しないが、これはないだろうと思う。

そして、大人の玩具のDMを見て、仰天した。
男も可能、女の喜びである。
アナル玩具である。男のためのである。前立腺刺激と、射精官、直腸前壁、会陰部の刺激により、女のエクスタシーを得られるというものである。
こうなると、セックス遊びも堂に入るのである。
いや、オナニストとして一人前であるのか。
そういえば、ダッチワイフがブームであるという。生身の女よりも、いいという。どうりで、セックスレスである。要するに、生身でなくても、楽しめるものが多数あるということだ。
空しくなければ、死ぬまでやっているとよい。

妻のいる男の相談で、マスターベーションにのみ快感を得る。妻との関係が苦痛であるとのこと。
アドバイスのしようがない。妻の協力が必要であるが、妻には言いたくないという。方法が無いのである。
性の多様化は、脳の複雑化である。
人間だけが前頭葉の発達がある。ここが複雑化しているということだ。

最早、男と女のセックス、交わりにより、子供が生まれるという考え方を変えなくてはならない。子供は、試験管で、セックスは機具でということになるのかもしれない。
えっー、あなたまだセックスしているの、という会話が普通になることも。
ということは、家族関係も変化する。
そして、先進国と後進国での格差が激しくなるというものである。
今の家族関係は、南の島の民族などが継続して、昔は、こうでありましたとか、説明を受けるのであろうか。
それぞれ、子持ちの女三人が、家族を作り、子持ちの男三人が家族を作る日は近い。
一番困るのは、先祖供養を金儲けにしていた檀家制の寺である。気の毒に。遂に滅びるときがきた。

古代の通い婚から、戦国時代に定着した夫婦関係からの大家族から、核家族へ、そして新たな大家族へと転進するのである。
夫婦ではない子持ちの男女が家族を作り、実に幸せに暮らすということもある。
ヨーロッパでの、同性愛者に対して成った、パートナーシップ制が、思わぬところで、功を奏する。
それ程、時代が動いているということである。

ちなみに、オス、メスという形になったのは、地球の歴史から見れば、いつ最近のことである。
夫婦、めおと、という言葉は、つい最近の言葉だということである。
夫婦、家庭という幻想の作り直しが必要になってくるのである。
これを最も恐れるのは、政治と宗教である。つまり、根本を叩かれる訳である。
人間を区分けするものが、男女ではなく、何になるのか、楽しみである。

2007年05月10日

スピリチュアルについて

スピリチュアルについて言う。
このところ、マスコミを始めとして賑わしている。書店にも、ハウツー物の本が多い。

それらは、スピリチュアルというものを、非常に狭めている。
それの前進は、スピリットである。霊、魂、精神等々の意味がある。
特に、医療、看護の世界の言葉だった。
中でも、末期医療に従事する方々がテーマとした。
死を前にした人を対象にする、医療と看護である。
ホスピスという言葉もある。

スピリットに準じてと、私は訳す。
つまり、人間の最大の尊厳を総称して、スピリチュアルという。
霊が見える。オーラが見える。死者が、何かを言う。興味本位な、ある種の人生に対する逃げのような、心霊のことではない。

シュバイツァーは、「命の尊厳」を訴えた。
そして、生涯を医療に賭けて、命の尊厳を表現した。

人間の霊性ともいう。
人間には、霊性があるという価値観である。
それが無ければ、人間もただの物ということが出来る。
本来の意味を、正しく若者に伝えるべきだと思う。

ある種の特殊能力、では無い。
皆に求められる精神活動である。

私は、精神と、心と、魂とを、区分けして考える。
心とは、霊である。
精神は、言葉の世界、心の言語化である。
魂とは、人間の最も尊ばれるところの働きである。ここに、尊厳がある。

日本スピリチュアルケア学会というものが、立ち上げられた。
医療関係者と宗教家が多く参加している。
実に、有意義な集いであると思われる。
期待する。

ここで問題なことは、精神、心、魂にしても、欧米の思想を主にした言葉の扱いである。
本来、日本語、大和言葉での言葉の理解を必要とするが、皆々、それには気づいていないようである。
大和言葉の意味に気づけば、理解は、もっと早くなる。

スピリチュアルはオカルトではない。
オカルトの要素もあるが、それが、すべてのようなものではない。
名乗ることは勝手なことだが、人間の崇高な人間性に関わることを、単純なオカルトにしてはならない。

一つだけ言う。
大和言葉の、魂の意味である。
たアまアしイいイである。
たは、手である。まは、間のまである。しは、イの音霊、受け入れるということである。
手と手の間、それを受け入れる。
手と手の間とは、作物、獲物を手渡しで分ける。それを受け入れる。
つまり、集団生活の規則である。
分け与える行為を、たましいと言う。
想像していた意味と違うはずである。

魂とは、集団の意識。ユングに言わせれば、民族の集合意識を言う。
大和言葉の意味である。
つまり、祖先につながる意識を魂という。
人間の崇高さ、尊厳を魂にあるというのは、大和言葉では、祖先につながる意識という意味になる。
これ、スピリットの意味である。

単純な、霊の動きではない。また、オカルトにある霊現象ではない。
その、スピリチュアルである。
魂的なもの。

私が伝統と言う時、それが必ず前提にある。
大和魂とは、伝統なのである。
大和の民の集合意識を有する、それを魂と言う。
英語のスピリットは、非常に狭い意味になる。
必ず神という絶対者が出てくる。人間と対立する存在を置く。そこに限界がある。しかし、現在、この欧米の言葉の意味を持って、精神に向かおうとする。誤りではないが、手薄である。

日本の医療関係者、及び宗教関係者に言う。
日本の本来の言葉の意味を明確にしてから、人間性にある尊厳すべき、魂の扱いを考えるべきである。
そして、個々人が有する、心である。
欧米のスピリットは、心に近い。心は、霊である。目に見えない。
これも、大和言葉から、考えるべきである。
しかし、今は、省略する。

ホスピスケアでも、何が主かは、死を前にした人の心の有り様である。
死と、どう向き合うか。死を、どのように受け入れるかである。
その時、必要なことは、伝統である。
祖先の意識に合流することの魂を、説くことである。
その時、初めて、心霊というものの考え方が必要になる。
心霊は、個々人の心である、霊である。
死によって脳の働きが止まった後での心の働きである。
しかし、これ以上になると、オカルトと勘違いされるので、止める。

死者の声を代理として、紹介する程度の霊能力では、解決しない。
イタコではない。
その程度で、安心するならば、終わっている。
スピリチュアルを、大和言葉にして言えば、大いなる和らぎの心の有り様である。
大和魂を、戦争時の言葉と勘違いしないように。

大和の民の魂の有り様は、大いなる和らぎにあるということ、明確である。

キリストの絶唱3

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
主イエスの第一声である。

神の国、福音、それは、イエス自身のことである。
当時は、ユダヤ教全盛であり、改めて、神の国、福音を言うまでもないことである。
そのシステムは、完全だった。

悔い改めてとは、物騒である。
今更である。皆々、毎日、悔い改めているのだ。
これは、旧約との決別である。しかし、主イエスは、旧約を完成させるためにと言う。
これには、既成の宗教家たちが、猛反発するひこと、必至である。

「時は満ちた」とは、いかなることか。
それは、過去との決別である。今までの宗教的所作からの開放である。そして、新しく生きること。新しい神の姿を主イエスは、皆に提示する。それが、「愛の神」である。
古きものを否定して、新しい価値を置くとは、過去の遺物を守る人からは、総攻撃される。それを、知っての宣言である。
つまり、死を賭けた。

「神の国」とは、何か。それは心の状態、あり方である。その心のあり方を伝えるというのである。
雁字搦めの教義に支配される人は、主イエスの言葉など聞けない。現に今、主エスが現れて説教を始めたら、確実に、キリスト教徒に殺される。

悔い改めとは、いかなることか。
悔いて、改めるのである。何を悔い、何を改めるのであろうか。
聖書解釈では、悪魔のとりことなっていた人間の世界に云々とある。
欧米の思想は、いつも何か、対立したものを置く。理解しやすいのである。神の存在までも、人間と対立させる。彼らは、この対立から逃れられない。実に、単純馬鹿である。
悪魔の支配にあった人間の世界とは、何事か。それでは、キリスト以前は、悪魔の支配に晒されていたということか。
この程度では、主イエスの言葉など理解も出来ないだろう。
善と悪との対立である。
頭の悪いものが考えることである。

それでは、今でも悪魔の支配が続いている。そう、キリスト教団も悪魔の支配により、成っている。さて、どうする。自分たちだけは、神の側にいると思い込んでいるだけである。当時の人と一緒だ。

キリストは、そこからの解放を言う。
今までのユダヤ教の教えに、全面対決を宣言するのである。
これこそ、命懸けの行為である。

しかし、人は愚かである。単にそういう説教では、如何ともし難い。そこで、主イエスは、奇跡を見せる。
これを私は、悲しむ。
奇跡を見せるということは、魔物のすることである。それで今まで、魔物が人々の支配に君臨していた。それを主イエスも行うという悲劇である。
手品を見せなければ信じない、アホ馬鹿間抜けである。

そして、非常に危険なことが書かれてある。
「ときに、汚れた霊につかれた人が会堂にいて、こう叫んだ。「ナザレのイエスよ、わたしたちをどうしょうというのですか。あなたはわたしたちを滅ぼしに来たのですか。わたしは、あなたがどなたであるかを知っています。神の聖なるかたです」イエスが叱って「黙れ、この人から出て行け」と言われると、汚れた霊はその人をけいれんさせ、大声を上げて出て行った」
悪霊に憑かれた者に、あたなは、神の聖なるかたですと、言わせる。
おかしい。実に、おかしい。
これが、真っ当な霊能者に疑問を起こさせるのである。

果たして、主イエスが、悪魔と、どのような取引をしたのであろうかと。
荒れ野で、悪魔との誘惑を退けて、宣教に立つのであるが、聖書に書かれない部分に疑問を持つのである。
書かれたことより、書かれなかった部分を観る。

神と悪魔の対決、善と悪の対決。それを聖書は提示する。そして、神を強調する。
どこか、シナリオが見える。
ぎりぎりのところで、主イエスは、悪魔から出た者ではないかと疑いが出るのである。
悪魔との、やり取りの筋書きである。
聖書学者等々は、それを知らない。知るはずもない。

仏教で言うところの天上界も、魔神の支配にある。
仏教に極楽など無い。魔界につながる霊界というか、霊界と、魔界は、別物であるが、真っ当な霊界は、無いと断定出来る。
インド魔界の支配にある。

旧約の神というのも、複数であることは、常識である。また、旧約の物語は、アフリカの神話から多く出ている。
果たして、旧約の神は、いつから、神と名乗りを上げたのか。
いずれ、追々と書くことにする。

確実に言えることは、主イエスは、死を持って、自分の言葉を成就させた。これが真実である。
悪魔との取引。それが何であったのか。
新約のテーマである。
そして、悪魔の正体とは。

私は、別波動にて、それを解明する。
古神道に関して、悪魔は、手出し出来ないからである。
つまり、やり取りする次元ではない。そして、古神道の霊界が悪魔と言われる存在とは、異質である。悪魔は、古神道の霊界と、コンタクトする何物もない。

兎に角、主イエスは、高らかに、過去との決別を宣言した。
何を「悔い改める」のであろか。

2007年05月11日

キリストの絶唱4

マルコ福音書の冒頭は、キリストの奇跡、病気治しと、悪魔祓いが多い。
福音を伝える手前の段階である。
奇跡を見せなければ、人は、その説教を聞くことがなかった。

一時、手当てにより、病を癒した者が映画にもなった。
たまたま得た能力である。しかし、その能力の意味を知らず、病気治しをした。突然与えられる、そのような力は、実に、危ない。
低レベルの霊が作用するからである。動物の霊でも、そのような奇跡を起こす。
動物の霊も、霊界では進化する。その過程で、自分の力を過信し、人に憑いて、奇跡を起こす。

キリストの悲しみは、その時点で、すべて始まっていた。
本来は、その病により、あることを知るためのものである。病に、人生の秘密が隠されてある。それを知ることなく、奇跡によって治るということ、その意味を知ることなく、知るチャンスを失ったということである。
しかし、それを行わなければならなかったキリストの悲しみを思う。

奇跡を起こすことは、霊界のあるレベルと接触すれば、簡単なことである。しかし、その後、その霊界の支配を受ける。それが、魔界の場合多々ある。

私も多く、病を癒す気功家を知っている。
霊能力で癒す人も知る。しかし、その多くは、レベルの低い者だった。つまりレベルの低い霊界との接触、または、動物の霊であった。
その証拠は、その人間性である。それを見れば、一目瞭然である。
気功家では、自分を失ってしまった人もいた。痴呆のようになってしまった人もいる。
一時期の隆盛は、瞬く間に消えた。

日本で、病を癒すようになったのは、大陸の呪術が入ってからである。
加持祈祷などは、その典型である。
すべて、魔界のものである。特にインド系は、そうである。霊験あらたかとは、別名、魔物の仕業である。
多く渡来した神によって、大和の人は、奇跡を見た。
しかし、本来の神道では、奇跡を成さない。
奇跡は、神よりのものではない。

キリストは、当時の価値観の転換を図った。
それは大変なことだった。すべての既成の戒律、律法を否定することになった。
何故、断食をしないのかと問われて、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れる」と答える。
これは、既成の価値観を破るものだった。
しかし、その言葉の意味を、彼らはすぐに悟ることがなかった。
キリストは、今までの方法を前面否定したのである。

「安息日は人のためにもうけられたものであって、人が安息日のためにあるのではない。それゆえ、人の子は安息日に対しても主である。」
当時、安息日には、何事を行ってはならないとの掟である。
しかし、キリストは、それを無視した。

今、キリスト教徒は、キリストを神であると信じるから、抵抗が無いが、当時は、それは大変な挑戦だった。

ファリサイ派の人々は、主イエスを訴えようと、人を癒すのを見ていた。
すると、案の定、キリストは、その片手のなえた人を癒した。
「安息日に善を行うことと、また、命を救うこととと、殺すことと、どちらが律法にかなっているか」とお尋ねになったとある。

規則に縛れた者たちに、キリストは、あることを示した。
しかし、それを理解する器が無い。
今のキリスト教徒も、教会の規則により、キリストの真実を忘れた。
キリストは、キリスト教徒によって、殺されること、必至である。

参拝は伝統である。奉納は伝統である。


安倍首相が靖国神社に真榊を奉納した。

信教の自由は憲法で保障されている。
首相といえども、自由である。
真榊を奉納したことを批判する何物もない。

更に言う。
内閣総理大臣と書くことが公人として云々というが、公立学校の先生は、学校内では、公人でありながら、国旗掲揚、国家斉唱の際に起立しないという。
知人の中学生が、国歌は、歌いたくなければ歌わなくてもいいと担任教師が言ったという。そして、その子は、親に、どうすればいいのと聞いた。その子は、歌いたいというらしいが、どちらでもいいといわれると、歌わない方がいいのかと思うらしい。
こうして、個人的な勝手な思いによって、子供たちを迷わす。
公人と私人という理屈さえ、もうあやふやである。
なにせ、国歌斉唱に、良心に恥ずるという人もいる。公立学校の教師を辞めるべきだと思うが、それは、言わないでおく。

靖国神社は、英霊を奉る社である。国のために亡くなった人を奉る社に、参拝、榊を奉納することの、どこがおかしいのか。
A級戦犯が云々というが、日本の法律には、戦犯という罪は無い。
戦犯の合祀に昭和天皇が不快感を示したということの意味は、深く、一般人が理解できるものではない。

韓国が強い口調で、批判することなど、身の程を知れということである。
日本に統治されず、他の国に統治されれば、もっと悲惨なことになっていた。統治される前の半島の情勢を調べてみれば解ることである。国の体を成せなかったのである。もっと、韓国は、お勉強すべきである。
更に言えば、飛鳥奈良時代に、半島の支配者、関係者大勢を日本が、受け入れて保護している。その他、半島は、日本に、どれ程世話になったか。

ただし、私は靖国神社へは行かない。
宗教施設を好まないからだ。
唯一、伊勢神宮のみである。
歴代首相は、伊勢神宮に参拝している。当然である。国の長が、伊勢神宮に参拝しないとは、ただ事ではない。

田中角栄は、総理大臣になり、ローマ法王に謁見しなかったということで、世界の常識を知らないといわれた。しかし、ローマ法王に謁見することが、世界の常識であるという、常識の方がおかしい。

伊勢神宮に参拝することは、常識である。
それについて書くと、長くなるので、省略する。
また、いくら説いても、豚に真珠であれば、詮無いことである。

欧米の宗教観をもって、日本の神社を宗教と、規定することが、そもそもの間違いであるが、それも詮無いこと。
日本に欧米の言う宗教は無い。政教分離などとは、誰がいうのか。あちらは、キリスト教である。アメリカの政教分離は、キリスト教の各派に対して自由であるということである。現大統領は、原理主義のキリスト教徒である。
日本は、信徒という考え方は無い。
神社参拝は、伝統である。
各神社には、氏子という組織があるが、信徒の組織ではない。

靖国神社は、明治に建てられた神社である。
伊勢神宮とは格も質も違う。今年、創建二千年である。
日本の、みおや、御親に続く、我らの親を奉る。
しかし、これ以上は語らない。

ちなみに、靖国神社に奉られるというのは、名前が奉納されてあるということである。
その皆々を、神と尊称してお祭する。
これも伝統である。
人間と対立した神という存在を置かないのである。
超越、絶対者のような神観念は無い。
良い悪い、正しい、正しくないという問題ではない。伝統である。

伝統を、漢語で、デントウと読むと解らないだろう。
大和言葉で言う。伝え統べることを言う。
つたえ、すべる、とは、何か。それを、まつりと言う。そこから、政、まつりごとが、始まるのが、日本の有り様である。
つウたアえエ、すウべエるウと、読む。一音それぞれに意味があるが、省略する。

何を伝え、何を統べるのか。
平けく、安らけく、である。
大いなる、和らぎの心をである。大和心である。
その根幹は、自然との共感と共生である。自然支配ではない。
自然支配を許す、唯一絶対の神観念は無い。
自然は神である。それらを神の被造物と考える傲慢は無い。
天を奉り、地を崇める。実際、人間は、それ以外に生きる手立ては無い。それを忘れて、今に至る。その先にあるのは、破滅であろうか、破壊であろうか。

言葉の音にさえ、神を見出した日本人である。この感性は、いずれ世界を救うことになる。
思念の波動が、細やかなのである。
日本が神の国であるというのは、すべてに神を見出す能力があるからである。

2007年05月12日

先祖の宗派

新興宗教の布教が、このところ激しさを増している。
私のところにも、多くの宗教勧誘がくる。

さて言う。
先祖の信じていた宗教、宗派である。
日本は、江戸時代、家光の時から、全国民が寺に所属して、仏教が実質的に国教のようになっている。
元を辿れば、天武天皇からであるが、もののあわれに書いているので参考に。

今朝、タバコを買いに行くと、一人の夫人から声を掛けられ、一枚のチラシを受け取った。天理教の講演案内である。
ああ、懐かしいと思った。
私の母方の祖父母は、天理教の熱心な信者であった。
しかし、その死後、誰も継ぐ者なく、二人は、寺に納骨されている。

信徒に対して、私は、言うことが無い。
だが、霊学から言う。
先祖が熱心に信仰していた宗派、宗教をないがしろにして、新興宗教にのめり込むと、どんなことになるのかである。

昔、そういう相談を多く受けた。
ある新興宗教に入ってから、トラブルばかり起こる。果ては、事故、病気、様々な凶変である。
霊現象もあった。
大きな仏壇が夜中に動くというものである。

例えば、禅宗であった先祖の、子孫が題目を唱えると、拒否反応を示して、それを伝えるために様々な事を行う。その逆も然り。

関が原の合戦の頃からの家系図を持つ家族から相談を受けた。
そして、そのお宅に伺った。
実に、古い家系図であり、他者に見せるなとの、但し書きがある。

その先祖は、皆、熱心な日蓮宗であった。
まず私は、法華経を読経して、挨拶した。
問題は、屋敷のお祓いと、その跡継ぎの長男の原因不明の狂いである。
突然、狂い始めたという。私が行く時も、入院中だった。
しかし、私が法華経を読経した時間から、落ち着いて、何と、翌日退院した。

古い家系であるから、仏壇と共に、大きな神棚がある。
その神棚を解体して整理をすると、出るわ出るわ、古いお札が、わんさと出る。
要するに、何十年も、誰も整理をしていないのである。

父を亡くし、母を亡くして、何も手をつけずにいた。
別に新興宗教に入信したわけではないが、そういうことである。
居間で亡くなった母親を発見したのが、死後三日後であったという。
母親は、まだ居間にいた。
死を意識させるべくの読経でもあった。

代々熱心な日蓮宗の信徒であっても、神棚もしっかりと御祭りしている。
当然である。
神と仏は、共に信仰の対象であった。

宗教、宗派に関係なく、祝詞は、すべからく平らけく、先祖の心に適うのである。
それは、皇祖皇宗に続く者であるという意識があり、天皇に対する思いは、また、ひとしおである。
宗派が解らなくても、祝詞であれば、問題なく、受け入れるのである。
この日本の伝統というものは、実に素晴らしい。

私は、最終的に祝詞により、清め祓いをして鎮めた。

戦後、この伝統を否定した。
最大の過ちである。
しかし、私も、実に、それに気づいたのは、40過ぎである。
15歳に、カトリックの洗礼を受け、その後、仏教の各宗派の読経をして、様々な宗教を学んだが、神道に行き着くまでには、相当な時間を要した。
誰も、教えてくれなかったのである。
当たり前過ぎてということもあるが・・・

言霊研究から、古神道研究へ、そして、伝統にあるものを、今は知る。
その間に、奇跡を求めなかったことが、実に幸いした。
霊能力等の、まやかしを求めなかった。
普通の生活の中にこそ、それらは、在ると信じた。
そしてその通りだった。

米を研いで、ご飯を炊く。
そこに真実がある。
そこに至るまでの過程は、奇跡であろう。
米は、自然に生えるのではない。米を作るのに、どれ程多くの労苦が必要か。そして、私の手元に至るまでの、関わりである。誰が作ったのか知れない米を食べる。
奇跡であろう。
これ以上の奇跡を、私は求めない。
そして、日本の伝統は、それを言う。

先祖を、伝統は、みおやという。御親である。
そこに私も続く者である。

先祖供養が嘘であることが解る。
生きることが、御親に手向ける真実である。
この私の生き方により、御親は、納得する。
もし、迷っている先祖の霊がいるならば、私の生き方により、それを知る。それが、正しいことである。

私は、信徒であることを否定しない。
しかし、すべての宗教を否定する。
神道は、宗教ではない。伝統である。
もっと言う、古神道である。
神社神道ではない。教派神道でもない。
古神道である。
それでは、古神道を掲げた、大本教かというと、違う。
大本教は、誤りである。
天皇を認めない古神道は、誤りである。
私は、現人神であるが、天皇は、現人御神、あらひとみかみ、である。
民の代表である。それは、皇祖皇宗と、並ぶ者である
それを否定して、伝統は成り立たない。

天皇の血統に対して、南朝と北朝を持ち出すものがいるが、それは、結果的に現天皇に意味がある。
そして、誤った歴史認識である。学者というものは、アホ、馬鹿、間抜けである。
天孫族は、渡来の人だという。
天孫とは、霊体で、降臨した。天津神である。霊体は、ニュートリノで証明される。

これ以上になると、終わらないので、いつか書く。
兎に角、新興宗教とは、迷である。いや、宗教とは、迷いである。
アメリカでは、信じる力によって、末期がんが治ったという報告が多数ある。だから、宗教を持つことは、正しいと言う。あまりに、短絡的である。
末期がんが治っても、人は死ぬ。
10年長く生きて、どうする。その10年を、どう生きる。
長く生きれば、いいというものではない。
死ぬべき時には、死ぬことである。

追加。
仏陀は、一言も先祖を供養せよとは言わない。
先祖供養を説く、多くの宗教の教義は、実に誤りである。供養を説くのではない、生き方を説くのであり、本当の先祖に手向けるものは、生き方にしかない。
先祖は子孫の生き方を見てこそ、霊性を高めるものである。
あえて言うならば、先祖崇敬である。
それは、神道にある。
神と尊称して崇敬するのである。

みたび沈黙を破る

みたび沈黙を破る。
藤岡崩一年半を過ぎた。
ただ今も、私は、喪中にある。

まだ、藤岡を私から切り離そうとした多くの人々である。
何故、私と切り離したかったのかは、明白である。
心、正しくないからである。
つまり、自分の心の様を、私に写すのである。
その姿を持って、私であると、思う。それは、自分の姿なのであるが・・・

生前の藤岡は、よく言っていた。
木村さんに、自分の心の有様を写すから、木村さんを敬遠する人は、心にやましいものがある。木村さんに対する態度を見れば、その人が解ると。

さて、札幌の自称陶芸家は、カトリック作家と銘打っていた。
藤岡のファンを任じていた。
私も、彼女の陶芸品に、書を書いて売った。残りもあった。それも、売るはずだったが、何が気に入らないのか、突然の宣戦布告である。木村に対して信用を失ったというものである。
新潟で販売する計画を、私が中止しにたことが、気に入らなかったのか・・・
よく解らない。
そして、言う。作品を返してくれと。
自分の権利は主張するが、人の権利は認めない。
書は、私のものである。
しかし、それには触れない。
私は、即座に、縁切りの、清め祓いをして、送った。それで終わり。
しかし、藤岡には、私と縁を切れとのアドバイスである。

カトリックとは、あの悪名高いキリスト教である。
汝の敵を愛さない、キリスト教徒である。
私も、洗礼を受けた、カトリックである。言うなれば、魂の兄弟と言う。
同じ、カトリック同士でも、こうであるから、他は、押して知るべし。

そして、自分のホームページに、勝手な解釈を堂々と載せる。
七ヶ月、私は、放置していた。しかし、多くの人から、問われる。どういうことなのですかと。私が、彼女に非礼をしているようなイメージである。
まず、県警に通報し、彼女に、削除の依頼をした。すると、即座に、木村から脅されていると藤岡に電話が入った。
藤岡から、それを聞いて、私も驚く。

自分が、そうだから、人もそうだと思う証拠である。

何度かのやり取りの後で、事はすべて済んだ。
私が訴えを起こせば、どうなったのかを考える頭の程度がない。
自分の作品には、権利があり、私の書には権利がないと考える程度の、アホである。

この程度の者が、藤岡に、私と縁を切れと言う。
藤岡は、自分の事務所を持ちますと、答えた。穏便を好む藤岡であるから、FAX専用の電話を、自分の事務所の電話にして、対処した。

乗り越えられない苦難を神は与えないと、彼女は言う。
私は言う。
すべては、自業自得のこと。苦難も、自分で蒔いた種である。
どうして、そこに神が出てくるのか解らない。
しかし、クリスチャンの多くが、そんなアホなことを言う。

お前が、神と同じレベルの世界にあるか・・・と、私は言う。
まあ、旧約聖書の神ならば、神もどきの、魔神であるから、レベルは合うだろうが、主イエスは、違う。
苦難も苦痛も与えるはずがない。
こうして、勘違いの信仰を信仰と思い込む辺りは、救いようがない。

ミサでは、私の思い、行い、等々の罪を許したまえと祈り、主の平和と皆々、声を掛け合う。教会にいる間だけは、善人であり、教会から出ると、鬼になる。
それを、彼らは、知らない。
知らないから、クリスチャンを、やっていられる。

私は、最後に彼女にFAXを送った。
キリスト教教理を学ぶ前に、仏教と、儒教を学び、人間としてのあり方を身に着けてくださいと。

藤岡の対応は、波風立てないものである。
実に見事であった。

藤岡亡き後、お悔やみの言葉も無い。
信じられないのである。

そして、不幸、苦難、苦悩が押し寄せると、神を持ち出すのであろう。
地に足がついていない者が、いくら信仰しても駄目。
そして、馬鹿は、死んでも馬鹿である。
きっと、死後、素晴らしいキリスト教霊界に行くのであろう。

ちなみに言う。
九州全域で行われた、キリシタン迫害で死んだ多くの、キリシタンの霊は、次元移動せずに、浮遊している。
キリシタンで、救われると思い込んだが、まだ、この世に浮遊する。
誰も、彼らを霊界に上げることが出来ない。
長崎の巡礼の地に行き、具合が悪くなる人、多々あり。

雲仙の地では、世界最悪最強の拷問が行われた。
私は、その拷問の様をすべて調べた。
阿鼻叫喚の拷問に死んだキリシタンたち。彼らの拷問は、まだ終わらない。しかし、誰も、それを終わらせてしまう者はいない。

イエズス会は、当時のプロテスタントの隆盛に、カトリックの巻き返しを図るために、生まれた。
イグナチオ・ヨロラは、若いとき、さんざんの放蕩を繰り返して、結果的に、神への信仰を強固にし、神のために立ち上がる。
この若い時に、放蕩するというところが、味噌である。
遊びつくしたから、神に改心するかという体たらくである。
立派な人である。今では、聖人である。
そして、フランシスコ・ザビエルである。
日本を、ローマ法王直轄の地にするべく、布教に来る。
要するに、侵略である。
それに乗せられた、キリシタンたち。憐れである。

秀吉が、法王の計画を知り、手を打ったから良かった。
そうでなければ、今頃は、日本も、ローマ法王を主として、国教キリスト教になっていたかも・・・
家光も、正しい。徹底的迫害をした。いや、迫害ではない。国を守った。
それで得をしたのが、偽の仏教団体である。
徳川家光から、全国民、仏教徒になった。そして、現在まで、僧たちは、のうのうとして、何代にも渡り、嘘八百の仏教なるもので、国民を騙している。

誤解されないように言うが、私は、信徒たちに対して、何の批判も非難もない。
信徒は、それでよろしい。
ただ、宗派宗団に言うのである。

現在、ローマ法王は、その本性を現し、アジア系の枢機卿を解任させて、白人支配を始めている。
あの人相を見れば、どんなことか解るが、カトリック教徒には、解らない。
これ以上は、命の危険があるので言わない。

キリスト教神学に、主イエスは、いない。
だから、クリスチャンの多くは、偽者である。
上記の、自称陶芸家も、然り。

今、あの当時の、ナザレのイエスが現れたら、まず、キリスト教徒に殺される。
そしてもう一つ、キリスト教徒のために言う。
新約聖書のイエスの言葉を本当に理解することは至難の業である。
あの当時のユダヤ社会にあっても、仰天する説教を繰り返したのである。
ムードではない。命掛けの説教を繰り返した。
「信仰薄い者たちよ、神の国と、その義を求めよ」
これを実行する、キリスト教徒に、まだ会ったことはない。
まだまだ、言いたいが、以下省略する。

2007年05月13日

クラシック音楽の大量消費時代という

クラシック音楽祭のイメージを変える「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」熱狂の日音楽祭2007が52万人を集め、19万枚のチケットを売るという。

喜ばしいことである。

名前の通り、フランスで始まった。1955年に始まり、瞬く間にヨーロッパ有数の音楽祭に成長したという。

有楽町の東京国際フォーラムの5つの