藤岡宣男 歌の社祝詞
藤岡宣男の命 尊称 歌の社大神
歌の社大神祝詞
うたのやしろ おおかみのりと
かけまくもかしこき大御神
かけまくもかしこき おおみかみ
天照大御神の御前に謹んで祝詞を申す
あまてらすおおみかみの みまえに つつんしで のりごとを もうす
歌の社大神の遺徳
うたのやしろおおかみの いとく
涼しき歌声をもって
すずしきうたごえをもって
美空のこどく千尋の海のこどく
みそらのごとく ちひろのうみのごとく
広く平らけく
ひろく たいらけく
清く清く鳴り響きたるがごとく
きよくきよく なりひびきたるがごとく
我らがために
われらがために
祓いたまい清めたまうことのよしを
はらいたまい きよめたまうことのよしを
天津神、国津神、八百万、千代万の神たちと共に
あまつかみ くにつかみ やおよろず ちおよろずの かみたちとともに
聞こし召せと
きこしめせと
かしこみ かしこみ 申す
解説
藤岡宣男は肉体のある時は、普通の人間として生活し、人間としての欲望を持ち、バランスを保ちつつ生きていた。
バランスとは、偏ることなく、生活を楽しんでいたということである。
特別な修行をするから、神や仏になることはない。
また、特別な修行というものは、本来は無い。
禁欲、断食、肉を食べないなどという、アホなことはしない。
食べるものは食べて、寝る。
苦難を選んで、あの宗教的というべき、マゾ的行為も無い。
生きるということは、生きることを楽しむことであり、それを否定するような病にはないということである。
そのようにしか生きられない人が、マゾ的、修行をするという真実である。
ここで、あたかも、藤岡を神様のような扱って思われると心外である。
普通に生きたから、いいのである。
喜怒哀楽を持って人間として生きたからいい。
勘違いして捕らえられては困る。
人間として生きること。そのために、生まれてきたのである。
神や仏になるために、生まれたのではない。
人間というものが、何であるのかを問うために生まれたのである。
日本の祖先は、それを生きた証に、死者を尊称して、命、尊、みとこ、と呼んだ。
はっきり言うが、宗教で言うことろの修行なるものは、妄想である。
私は、全面否定する。
すべての人間は、女の股から生まれた。
処女懐胎のキリストも、女の股から生まれた。
修行して、特別な能力を得た者は、魔界のものである。
人間は人間から生まれる。
主イエスは、肉から生まれた者は、神の霊によって生まれ変わらなければならないという。
誤りである。
それならば、何故、人間を神の子というのか。
この矛盾を、主イエスは、言う。
肉から生まれた者は、肉から生まれて当たり前である。肉から生まれなければ、どこから生まれるのか。
詭弁に、感動する無かれ。
結局、洗礼によって、罪が許されると言うが、古神道では、禊のことであり、禊は、一時的なものであることを知っている。
洗礼ではない。洗霊が必要である。それを知らない。
それでは、洗霊とは何か。
生きることである。生きることにより、自らを洗霊するのである。
生きること自体が洗霊である。
愚かに生きても、アホに生きても、生きることである。
洗霊とは、自業自得、因果応報を言う。
人間は、すべて自己責任による。
だから、馬鹿は死んでも馬鹿である。これ、至上最大の真実である。