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みたび沈黙を破る2

藤岡は、ベランダから転落して、死亡した。
変死であろうか。事故である。

多くの人は、自殺ではないかと言う。
人は、人のことを勝手に想像する。人の不幸は、蜜の味ともいう。
そういう者が、藤岡の死を詮索した。憐れである。哀れとも言う。

例えば、自殺なら、どうだと言うのか。

多く、藤岡に縁した者がいたが、お別れの会にも出席せずに、噂のみを、撒き散らしていた。
いつか、私と、どの面下げて会うのかと思う。
いや、私になど、会わないと思っているのであろう。それが、愚かである。
いつ、いかなる時に、会うのか、誰も知らないのである。
人生とは、そういうものである。
さて、私に、どの面下げて会うのか、楽しみである。

女というものは、実に、愚かである。
そのような噂を好むのは、圧倒的に女に多い。
そして、女に準じた者、オカマとか、ホモである。
自分の鼻糞を見ずに、人の鼻糞を笑う。そして、尻糞をつけていることを忘れる。哀れである。それ以外の何物でもない。

多くそういう者どもが、ありもしない噂を流し、果ては、詮索して、平気である。
藤岡は、それらを、すべて見ている。
死後、藤岡に対面した時に、何と言うのか、見ものである。が、しかし、彼らは、それを知らない。知らないことは無いことであるから、実に、悲劇的である。

何度も書いたが言う。
死んで無くなることはない。亡くなっても、無いならないのである。
死者を思えば、即座に背後に立つ。もし、正面に立てば、憑依するという暗示である。

死後の世界など無いという者に、在ると説得はしない。している暇は無い。
どうせ、皆、死ぬのである。その時に、知る。いやいや、死後、昏睡して、50年、100年後に目覚めて、ようやく、死を悟る人もいる。

何故、昏睡するのかは、死に移行する際に、とてつもない痛みに耐えられないからである。ただし、死後の世界を知る人は、スムーズに行く。不思議である。

一年ほど、この世と、あの世を行き来する霊もあるが、霊界の様を知れば、もう、この世に未練は無くなる。どんなに恋しい人がいても、霊界の様には、適わない。この世が一過性のものであることを知る。
それでも、この世、囚われるのは、幽霊のままに、この世に居る。
怨念、失念、執着等々である。
土地に憑く。金に憑く。名誉に憑く。家に憑く。等々である。
自縛霊というが、自縛幽霊である。
霊体になるということ、幽霊である、幽体を捨てた。消滅させたということである。
知る者は、幸いである。

死後、一年半を過ぎて、もはや藤岡の噂も消えた。
誰も言わない。その程度の噂であった。それで善し。
しかし、突然のように藤岡を意識する自体になる。それは、藤岡が本格的に活動を始めるからである。
芸術家の霊は、死後、本格的に活動を始めること多々ある。
ゴッホなどは、良い例である。
生前は、誰にも認められなかった。しかし、死後の名声は、いかばかりか。

藤岡の場合は、歌であるから、違うといえない。その歌が残っている。その評価である。
突然のように起こる。
その時、愚かな女は、私も知っていたというだろう。
実に、藤岡と親しかったと。私は笑う。大いに笑う。
私の前に出て言うがよい。

私の元には、お別れの会に出席した方々の名簿がある。
私は、まだ生身の人間だから、記憶が曖昧であるが、証拠は、すべて残してある。

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2007年05月15日 23:09に投稿されたエントリーのページです。

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