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もののあわれについて45

作者不明の歌を続けて読む。

うち日さつ 三宅の原ゆ 直土に 足踏み貫き 夏草を 腰になづみ 如何なるや 人の子ゆえぞ 通はすも吾子 諾な諾な 母は知らじ 諾な諾な 父は知らじ みなの腸 か黒き髪に 真木綿もち あざさ結ひ垂れ 大和の 黄楊の小櫛を 抑へ挿す 刺細の子 それぞ吾が妻
うちひさつ みやけのはらゆ ひたつちに あしふみつらき なつくさを こしになづみ ひとのこゆえぞ かよわすもあこ うべなうべな はははしらじ うべなうべな ちちはしらじ みなのわた かくろきかみに まゆふもち あさざゆひたれ やまとの つげのおぐしを おさえさす さすたえのこ それぞわがつま

これは、親と子の共作である。
前半は、三宅の原を通って、たんぼの土に足を捕られ、生い茂った夏草を腰の辺りで押し分け押し分け、そんな苦労をして、どこのどんな人に通うのですかねー我が息子よ
後半は、息子の歌。
お母さんは、まだ知らないでしょうね。勿論、お父さんも。真っ黒な黒髪に、真木綿をもってあさざを結い垂らし、大和の黄楊の櫛を抑えに挿した、ほれぼれするほど小意気な娘、そけが私の妻なんです。その人にために通って行くんです。

反歌
父母に 知らせぬ子ゆえ 三宅道の 夏野の草を なづみ来るかも

実に、ユーモアのある歌である。
恋人の家に通う成長した息子と、両親の掛け合いが楽しい。
恋人は、即妻になる。
通い婚である。庶民は、それで結婚になった。
待つ女、行く男。
結婚の儀式のようなものは、豪族以上からあったが、庶民は、そんな儀式は基本的に無い。結ばれれば、結婚と同じである。
一人の男が、多くの女と交わっても、それが当たり前である。
子供が出来れば、女の里で育てる。

結婚制度というのは、後々のこと。
家族と言う意識も違う。それは専門家に任せる。

ここでは、現在言われる貞操観念等々は無い。
貞操とは、性の抑制である。そんな意識は、当時無い。性は、大らかで、自由なものだった。農民は、乱交である。月夜の晩に、皆々、野に出て、乱交する。
要するに、当時の人の心に沿って考えないと、理解出来ない。
性を楽しむ。純粋に楽しむ。
今言う、乱交ではない。一定の秩序があった。
自由奔放は、性の解放であり、病のような、性の拘りではない。

恋とは、性であった。性の交わりは、即、妻、夫、ともに、つまと言う。
ただし、年から年中発情していたのではない。
性の堕落は、平安期の貴族からである。
あれは、どうしようもない。仏教の無常観にかこつけて、性の遊びを繰り返した。性は遊びではない。命懸けの恋だった。

性の喜びは、豊穣の喜びと一緒にあった。
つまり古代の人の性は、豊穣のための性だった。これを理解するには、万葉を読み込むことである。
豊作の祈りが性に昇華したとも言う。
テクニックを持ってセックス三昧の捕らわれではないということだ。後に引かない性の行為である。
捕らわれが無いというところに、意味がある。

捕らわれは、観念を作る。
古代の人は、恋即性であり、何の曇りもない。純粋無垢な性だった。
観念を作り始めて、堕落する。
観念は妄想である。
この世に、何一つも、観念なるものはない。
古代の乱交と、現代の乱交は、全く意味が違うので、間違いのないように。

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2007年05月04日 16:16に投稿されたエントリーのページです。

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