うつくしと 吾が念ふ妹は 早も死なぬか 生けりとも 吾に寄るべしと 人の言はなくに
うつくしと わがおもういもは はやもしなぬか いけりとも われによるべしと ひとのことはなくに
この歌は、読み人知らず、人麿歌集に収録される、旋頭歌である。
577 577の六句を歌体とする。
古く記紀の歌唱には577の三句で歌われるものあり、片歌という。
これは実に、面白いのである。
一人が三句を歌い掛けて、他の者が、また三句で答える。つまり片歌二首を一組とする。
代表的な歌を上げる。
日本武尊やまとたけるのみこと、が、東征の折に、酒折の宮にて
新治 筑波を過ぎて いく夜か寝つる
にいはり つくばをすぎて いくよかねつる
と歌うと、御火焼みひたき、の老人が
日々並べて 夜には九日 日には十日を
ひびなべて よるにはここのよ ひにはとをかを
と返すのである。
日本武尊と、火炊きの老人が歌で和すとは、実に歌の道とは、平等であることが解る。
歌の場になると、誰もが平等になるのである。
だが、このような二人の問答形式にある旋頭歌も、万葉の時代になると、一人の人間によって歌われる民謡風な問答形式になり、さらに呼びかけ形式に、そして繰り返し形式になり、やがては、個人の心情を露土するものに至る。
しかしそれは、和歌の世界であり、旋頭歌は、和歌に吸収されることになる。
万葉の時代は、旋頭歌の衰退の時代である。
しかし以前にも書いたが、577の形は元からあったのであり、五七調、七五調とは、日本語の息遣いであろう。
上記の歌は、うつくしと、とは、愛しい、可愛い、愛すべきものという意味である。
吾に寄るべしとは、寄るは、思いを寄せる、なびき寄せる、妻となってくれるという意味である。
愛しい、可愛いと思っているあの子は、いっそのこと死んでくれたらいい。生きていても、いつかこの私に心を通わせてくれるとは、誰も言わない。
そんな意味である。
裏を返せば、愛しくて辛過ぎるのである。
自分に対する相手の無関心さに、絶望しているようである。
これ程、純粋無垢に恋をしたのである。
人を愛しいと思う心は、どこから起こるのであろうか。
未だに、それを解明するものは無い。
あの人は、許せるが、別の人は許せない。何となく気の合う人、合わない人、どこにその問題があるのだうろか。
また、何となく似た者同士が一緒になる。グループを作る。
これは、実に奇跡的である。人の縁というものである。
縁は、エンとは漢語であり、えにし、と読めば大和言葉である。
人の縁とは、不思議である。それは、その真実が見えないからである。潜在意識の奥に隠されたもの。
親子として、夫婦として、兄弟として、友人として等々、様々な人間関係は、深い意味があって成るものである。
親子は一世、夫婦は二世、師弟は三世と言われる。血のつながりのない師弟の関係が深い縁という意味である。これについては、多くを語らないでおく。
読み人知らずの旋頭歌を、もう一首。
玉垂の 小簾の隙に 入り通ひ来ね たらちねの 母が問はさば 風と申さむ
たまだれの おすのすけきに いりかよいきね たらちねの ははがとはさば かぜともうさむ
玉を突き通した簾の隙間を入ってくる風のようにいらしてください。母が訝って誰だい、誰が来たのと問えば、誰も来ませんよ、風ですねと申しましょう。
恋する人の来るのを待つ女の心境である。
これで当時の状況が伺える。
通って来る恋人、夫である。それを待つ女。
待つ女、行く男。万葉からの作法である。
しかし、今は言うだろう。女が行く。男が待つ。それでもいい。
時代は変わる。だが、人の心模様に万葉と大差は無いはずである。