千の風のCDが80万枚を突破したという。
売れたことは良いことである。
私は言う。
天邪鬼と言われようが言う。
あれは、意訳した作家の方が、個人的に、密かに曲をつけて、亡くなった方を慰めるためにとの思いでと、聞いている。
いつから日本人は、伝統を捨てて、忘れて、あのような、単純な言葉の世界に填まるようになったのか。
私のファンの方も、実に良い歌であり、心が和むという。それはそれでいい。
また、団塊の世代の人が、多くファンになるという。
団塊の世代とは、日本の伝統教育は勿論、日本的情緒の何物も知らない世代である。
老後は、ログハウスに住み、畑を耕して云々という、アホ、馬鹿、間抜けである。それが、自分の考えかと言えば、そうではないからである。
すべて、段取りされたものであることを知らないから、悲劇である。
作られた、イメージに乗り、単に得体の知らないものに指示されていることを知らない。つまり、自分の幸せというものを、持たないのである。
要するに、主体性の何物も無いのである。しかし、彼らは、主体的であると信じ込むのである。
不動産の企画という新興宗教に似た、教えを私の考えだと思い込む当たりは、アホというしかない。
それらが、多く、千の風に感動するという。
千の風に感動して、自分の墓を、どこに作るかと考えているのである。
要するに、千の風の意味など知らない。
私は、墓にいないという歌詞である。
墓地や、墓販売の会社には、大打撃であろうと思うが、そんなことはまったく無い。
要するに、気分なのである。
万葉古歌
寂しさの 極みに耐えて 天地(あめつち)に 寄する命を つくづくと思ふ
万葉の古人たちは、観ていた。
ここでは、歌の解説をしない。
人間がいかなる存在であるかを。
そして、死というものを、明確に明晰に観た。
それは、孤独である。絶対孤独である。
私たちの伝統は、死を、隠れると言った。
無くなるとは言わない。
身を隠すのである。
欧米の思想にある、断絶した、死という観念は無い。
彼らは、自然を破壊し、征服し、他民族を支配し、唯一絶対の神という観念を置いて、極悪非道にして、人生を捉えているのである。
死ぬと、天国に行くと云うあたりは、救いようが無い。
転生輪廻を説くと、支配するに、憚りがあると、教義にしなかった。
また、インド魔界の関与を受けた、大乗仏教は、なんと、菩薩が衆生を船に乗せて、彼岸へ渡らせるという妄想を説く。
皆々、全体、みんなで一緒を説くのである。実に、耳障りが良い。
私たちの伝統は、こうである。
西行が歌う。
願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ
歌の解説はしない。
建礼門院右京太夫
月をこそ 眺めなれしか 星の夜の 深きあわれを 今宵知りぬる
のである。
皆、絶対孤独の中に佇み、そこから死ぬことを観たのであり、安易な慰めを、一切求めなかった。
亡き人の死を、我が身の死として、捕らえた伝統である。
愛しい人が死ぬ、つまり、それは私が死ぬことなのである。
菩提を弔うという仏事があるが、あんな程度のものではない。
死ぬ人と共に死ぬのである。
私の、もののあわれを読まれるがいい。
私はお墓の前にはいません。千の千の風になって、吹き付けています。
日本の伝統は、すでに、それを凌駕していた。
知らないだけである。そして、知ろうとしなかったのである。
私のバリ島に住む友人は、あの歌に感動する程、日本人は、多くを失ったのかという。
あれは、当たり前のことであり、あの世界が前提にあっての、語りが始まると。
要するに、あの程度の、言葉で感動する程、伝統教育を受けなかった。また、拒んだのだろう。そして、最低、最悪の言葉の世界に、感動するという、お粗末さである。
直接的表現である。
私は墓にはいない。
当たり前だろう。墓にうろうろするのは、浮遊霊である。
以下省略。
また、無味乾燥なテノール歌手の最低、最悪の歌唱は、いかんともし難い。
氷川きよし、より悪い。
以下省略。