伊勢神宮という奇跡。
事の起こりは、第10代天皇、崇神天皇から始まる。
天下に疫病などが流行り、天皇は、お奉りしていた天照大神を皇居よりお出しして、奉ることを決心し、皇女を斎王(いつきのみこ)として大和笠縫邑にお奉りされた。
そして次の第11代垂仁天皇の皇女が、斎王を継いだ。
倭姫である。
この倭姫が、伊勢神宮を起こした。
「御杖代」みつえしろ、として天照大神、皇大御神、すめおおみかみに奉仕されて、大和を発ち、伊賀、近江、美濃等の諸国を巡り、御大神の住まいに相応しい地を求めて、伊勢の国に入る。
御神慮により、現在の地に、御創建されたのが、神宮である。
今年、創建二千年を迎えた。
伊勢神宮に関しては、美辞麗句を尽くして語ることを避ける。
端的に言う。
世界の聖地である。
その訳は、簡単である。
巨大な建物は皆無であり、正宮の建物は、日本最古の建築様式である、神明造である。
高床造りであり、ただそれのみ。
ワンルームであり、他に何も無い。
見事である。鎮まるとは、こういうことなのであろう。静かに佇むのみ。その存在を誇示することなく、ただ在るのである。
そこには、仰天する奇跡無く、在るだけ。
深い緑の中に、ひっそりと在る。
この神道と言われる、神宮の有様は、教祖や開祖と言われる者無く、教義として体系されることも無い。
自然の有り様そのままが、教義である。
入信の手続き無く、誰もがお参りすることが出来る。
二千年来、粛々と行われているお祭は、ここにしかない。巨大宗教建築は、すべて思い出の建物として、観光に晒されているのみ。
伊勢神宮だけは、今も祭祀が行われている。
言挙げせずという通り、沈黙を善しとし、ひっそりと佇むあたりは、見事と言うほかに無く。これが日本の祖先の大元であるのかと思えば、自然、心が静かに満たされる。
総氏神と言われると、各地の氏神を思い起こし、自分が育った土地の、氏神、産土神を思い起こす。つまり、私の先祖たちである。
素晴らしい信仰である。私に続いてる流れを感じる。
対立してある、神という観念ではない。
観念というものを置かない、神と尊称する祖先の御親である。
ここに至ると、議論する言葉が無い。
言葉を超えている。
鏡を持って我であると称した、御大神の御言葉。それ以外に無い。
かアがアみイ。
か、がは、みである。あ音とい音の母音である。
ア、 イである。開いて、受ける。
イ、 そして鏡の有り様は、写すこと。それを覗く人を写す。
そこに、神がいる。それは、私である。
御大神は、我を写して神と言う。
単純素朴な、有様を理解する人は幸いである。
この世も、あの世も、まず我が在ること。
我が主体であること。
我と我が対座する様を奉りという。
これ以上理屈を言うのを止める。
私は、伊勢に行く気はなかった。毎日、太陽を拝して十分であった。
太陽を化身として御大神があると信仰するのである。
信心と言えば、我の心が入り、それは邪念にもなる。信仰は、ただ仰ぐのみ。
恐れ多くも畏くも、それだけで私はよい。
神宮の様は、それを善しとする。
そこに小賢しい人間の想像する妄想の教えなど無いことが解る。
清めるということが、自然に同化することであり、特別なことではないと解る。
神道の奥義というような、怪しい作法など無い。鎮魂帰神の法など必要ない。
自然と共生し共感することで得る、禊祓いである。
心を清めるということは、自然の中に心を入れるということである。
海、山、川、草木、そこでしか生きられないのである。その恵みを受けて生かされている。神宮は、それを象徴して在るのみ。
最後に私の霊学から言う。
私が回った宗教施設で、このような波動の細やかな建物や土地はなかった。
名古屋から近鉄で向かったが、ある処まで来ると、波動の違いが感じられた。その波動は、次第に、近づいて来るといった感じで、伊勢に到着して、成る程と思った。
申し訳ないが、神宮に適う神社は無い。また、他の宗教施設も無い。
ここまで清らかさを保つ地は無い。
何度も言うが、私は、神社本庁、伊勢神宮の神職等々は、全く興味が無い。
便宜上あるだけであり、彼らが去れば、誰かが、神宮をお守りするだろう。そういう建物である。
天武天皇が定めた遷宮が、20年に一度行われる。それが天武天皇の皇后であった、持統天皇の代に、国家的事業として行われた。そして、今に続く。
唯一奥義があるとしたならば、この遷宮の意味であろう。
霊学から見る。
息吹の奥義である。
二十歳を成人として見ることも、あながち不思議ではない。それが二十歳であることが問題である。
40、60と一生のうちで、少なくても、二回から三回、多い人は、四回、五回と遷宮に合う。
風水による云々という考え方もあるが、私は、違う。
正宮をお移しして、建物の息吹を新たにする。それは国家の息吹であり、留まることをさせずに、いつも新たなるものであること。
自然の生成に預かる作法であろう。
人間で言えば、改める年になる。
つまり、いつも新しく成れるということである。
一日、24時間であり、半分は12時間である。人間の生態リズムは、20時間である。
天は24時間で、地は20時間である。4時間のズレが生じる。
天地と供応させてズレの息吹を合わせる。
生成発展の奥義だろう。しかし、それは理屈ではないと思われる。
天武天皇は、閃いたのである。思いつきである。しかし、この思いつきとは、自我意識を超えたものであり、人間は、自分が考えているより、別の意識の方が、激しく動いている。決定したことは、自分の意識であると思うが、実は、計り知れない、意識の大海から出る。
主体的に自分が決定しているように思うが、その実は、大いなるものに生かされているのである。
それに気づくことが、人生の奥義であろう。
ただし、それを神や仏と言う無かれ。
私である。私の私である。
以下省略。