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先祖の宗派

新興宗教の布教が、このところ激しさを増している。
私のところにも、多くの宗教勧誘がくる。

さて言う。
先祖の信じていた宗教、宗派である。
日本は、江戸時代、家光の時から、全国民が寺に所属して、仏教が実質的に国教のようになっている。
元を辿れば、天武天皇からであるが、もののあわれに書いているので参考に。

今朝、タバコを買いに行くと、一人の夫人から声を掛けられ、一枚のチラシを受け取った。天理教の講演案内である。
ああ、懐かしいと思った。
私の母方の祖父母は、天理教の熱心な信者であった。
しかし、その死後、誰も継ぐ者なく、二人は、寺に納骨されている。

信徒に対して、私は、言うことが無い。
だが、霊学から言う。
先祖が熱心に信仰していた宗派、宗教をないがしろにして、新興宗教にのめり込むと、どんなことになるのかである。

昔、そういう相談を多く受けた。
ある新興宗教に入ってから、トラブルばかり起こる。果ては、事故、病気、様々な凶変である。
霊現象もあった。
大きな仏壇が夜中に動くというものである。

例えば、禅宗であった先祖の、子孫が題目を唱えると、拒否反応を示して、それを伝えるために様々な事を行う。その逆も然り。

関が原の合戦の頃からの家系図を持つ家族から相談を受けた。
そして、そのお宅に伺った。
実に、古い家系図であり、他者に見せるなとの、但し書きがある。

その先祖は、皆、熱心な日蓮宗であった。
まず私は、法華経を読経して、挨拶した。
問題は、屋敷のお祓いと、その跡継ぎの長男の原因不明の狂いである。
突然、狂い始めたという。私が行く時も、入院中だった。
しかし、私が法華経を読経した時間から、落ち着いて、何と、翌日退院した。

古い家系であるから、仏壇と共に、大きな神棚がある。
その神棚を解体して整理をすると、出るわ出るわ、古いお札が、わんさと出る。
要するに、何十年も、誰も整理をしていないのである。

父を亡くし、母を亡くして、何も手をつけずにいた。
別に新興宗教に入信したわけではないが、そういうことである。
居間で亡くなった母親を発見したのが、死後三日後であったという。
母親は、まだ居間にいた。
死を意識させるべくの読経でもあった。

代々熱心な日蓮宗の信徒であっても、神棚もしっかりと御祭りしている。
当然である。
神と仏は、共に信仰の対象であった。

宗教、宗派に関係なく、祝詞は、すべからく平らけく、先祖の心に適うのである。
それは、皇祖皇宗に続く者であるという意識があり、天皇に対する思いは、また、ひとしおである。
宗派が解らなくても、祝詞であれば、問題なく、受け入れるのである。
この日本の伝統というものは、実に素晴らしい。

私は、最終的に祝詞により、清め祓いをして鎮めた。

戦後、この伝統を否定した。
最大の過ちである。
しかし、私も、実に、それに気づいたのは、40過ぎである。
15歳に、カトリックの洗礼を受け、その後、仏教の各宗派の読経をして、様々な宗教を学んだが、神道に行き着くまでには、相当な時間を要した。
誰も、教えてくれなかったのである。
当たり前過ぎてということもあるが・・・

言霊研究から、古神道研究へ、そして、伝統にあるものを、今は知る。
その間に、奇跡を求めなかったことが、実に幸いした。
霊能力等の、まやかしを求めなかった。
普通の生活の中にこそ、それらは、在ると信じた。
そしてその通りだった。

米を研いで、ご飯を炊く。
そこに真実がある。
そこに至るまでの過程は、奇跡であろう。
米は、自然に生えるのではない。米を作るのに、どれ程多くの労苦が必要か。そして、私の手元に至るまでの、関わりである。誰が作ったのか知れない米を食べる。
奇跡であろう。
これ以上の奇跡を、私は求めない。
そして、日本の伝統は、それを言う。

先祖を、伝統は、みおやという。御親である。
そこに私も続く者である。

先祖供養が嘘であることが解る。
生きることが、御親に手向ける真実である。
この私の生き方により、御親は、納得する。
もし、迷っている先祖の霊がいるならば、私の生き方により、それを知る。それが、正しいことである。

私は、信徒であることを否定しない。
しかし、すべての宗教を否定する。
神道は、宗教ではない。伝統である。
もっと言う、古神道である。
神社神道ではない。教派神道でもない。
古神道である。
それでは、古神道を掲げた、大本教かというと、違う。
大本教は、誤りである。
天皇を認めない古神道は、誤りである。
私は、現人神であるが、天皇は、現人御神、あらひとみかみ、である。
民の代表である。それは、皇祖皇宗と、並ぶ者である
それを否定して、伝統は成り立たない。

天皇の血統に対して、南朝と北朝を持ち出すものがいるが、それは、結果的に現天皇に意味がある。
そして、誤った歴史認識である。学者というものは、アホ、馬鹿、間抜けである。
天孫族は、渡来の人だという。
天孫とは、霊体で、降臨した。天津神である。霊体は、ニュートリノで証明される。

これ以上になると、終わらないので、いつか書く。
兎に角、新興宗教とは、迷である。いや、宗教とは、迷いである。
アメリカでは、信じる力によって、末期がんが治ったという報告が多数ある。だから、宗教を持つことは、正しいと言う。あまりに、短絡的である。
末期がんが治っても、人は死ぬ。
10年長く生きて、どうする。その10年を、どう生きる。
長く生きれば、いいというものではない。
死ぬべき時には、死ぬことである。

追加。
仏陀は、一言も先祖を供養せよとは言わない。
先祖供養を説く、多くの宗教の教義は、実に誤りである。供養を説くのではない、生き方を説くのであり、本当の先祖に手向けるものは、生き方にしかない。
先祖は子孫の生き方を見てこそ、霊性を高めるものである。
あえて言うならば、先祖崇敬である。
それは、神道にある。
神と尊称して崇敬するのである。

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2007年05月12日 06:01に投稿されたエントリーのページです。

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