イエスは、古里、ナザレに入った。
そこで、安息日になり、会堂で教え始めた。それを聞いた人々は
「この人は、どういうことを授かったのだろう。かれは大工ではないか。マリアの子、またヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。そしてまた、かれの姉妹たちは、わたしたちといっしょにここにいるではないか」こうしてかれらはイエスを理解しようとしなかった。それで、イエスはかれらに「預言者が尊敬されないのは、郷里、親族の間、またその家においてだけである」と仰せられた。
そこでは数人の病人に手を置いて、かれらをなおされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことができなかった。そして、かれらの不信仰に驚かれた。
自分たちと同じ者が、どうして神の子であるのか・・・
自分たちと同じ地域の、親族の者が、どうして神の子であるのか・・・
不思議なもので、人は、自分の量りでしか計れない。それ以上になると、理解不能、または、それを、つまり自分以上に才能がある、優れていると思うと、嫉妬する。甚だしい場合は、排斥するのである。
ここで、面白いのは、奇跡を行うことができなかったということである。
奇跡のエネルギーが、極度に落ちるのである。
信じるという力が、いかに強いものかが、解る。
不信仰に驚かれたというのは、見抜く力が無いということである。
イエスは、もはや皆が知るところのイエスではない。別なイエスになっていたのである。それを、見抜くことが出来ないのは、自分たちの身内だという、曇りである。
これで解ることは、人間は、ある年齢からは、成長しないものだということである。余程、毎日を学ぶ繰り返しをしていなければ、人間は、ある年齢から、成長が止まる。
ただ、年を取るだけである。
人によって、10年という年月が違うのである。
容姿は、10前と変わらなくても、内的、心理的状況は変化する。それを、見抜く人、見抜けない人がいる。
イエスの内的変化を見抜くことが出来ない、それを、不信仰だとイエスは言う。
それはまた、危機意識皆無なのである。
勿論、誇大妄想の、とんでもない人物も現れる。
だが、見ても信じないのである。
イエスの奇跡も、郷里では、奇跡にならなかった。単なる病気治しである。
そのほかには何も奇跡を行うことができなかった。と、ある。
行うことが出来ないほど、皆、愚鈍だった。
ここで面白いことは、母マリアの名は出るが、父ヨゼフの名は出ない。すでに、亡くなっていたということだと、聖書解釈はいう。
イエスの宣教は、30歳から、三年間であるから、早く亡くなっていたといことだ。
聖書には、父ヨゼフの存在が、実に希薄である。
何故か。
役割として、嵌るところがない。
イエス誕生の場面にだけ出る。
まして、マリアは、処女降誕である。それをヨゼフは、受け入れた。
ヨゼフの最大の役割は、家系である。
アブラハム、ダビデからの家系にある。
ヨゼフがその子孫である。
母マリアの家系ではない。父ヨゼフの家系が、ダビデの家系である。
アブラハムからダビデまで、14代、ダビデからバビロンへの移住まで、14代、バビロンへ移されてから、イエスまで、14代である。
その子孫である、ヨゼフの存在が必要だった。
しかし、果たして、それが必要だったのか。
その家系から、救世主が現れる。それがシナリオだった。
しかし、確かめる術はない。ただ、信じるしかない。
イエスには、兄弟がいたのであるから、今も、それらの子孫はいるということになる。
だが、イエスで、その家系は絶えた。
以後、語られることはない。
それは、家系の完成だからだ。イエスによって、アブラハムの家系は完成した。
アブラハムの家系を辿ると、ノアに行き着く。そして、更に辿ると、アダムに行き着く。
聖書の創世記の最初の人である。
創世記には、地上に人が増えて、悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを見て、神が、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛めて、言われた。
「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけではなく、家畜も這うものも、空の鳥も。わたしはこれらのものを造ったことを後悔する」
そして、ノアの箱舟の話となる。
全知全能の神が後悔した・・・
さて、教会は、何と答える。
この話は、次に続ける。