« キリストの絶唱13 | メイン | 635日祭 »

キリストの絶唱14

私は、キリストの絶唱を書いているのであり、キリスト教を書いているのではない。

信仰とは、極めて個人的な情緒である。
それを犯すことは、何人も出来ない。
ただし、信仰にも、八方位の広がりがある。

宗教というものを辿れば、行き着くのは、太陽信仰である。
あらゆる地域に太陽信仰があった。
当然である。太陽が無くなれば、すべは死滅する。実に、真っ当な信仰である。
その時の信仰は、拝むという行為である。崇拝するという単純な行為が、信仰であった。
日蝕があれば、この世の終わりを思った。
何という素直さであろう。
そして、自分たちのあり方を反省した。

さて、現在、キリスト教とは、ローマカトリック、そして、プロテスタントに、大きく分けられる。
勿論、キリスト教の新興宗教は、数多くある。特に、それらは、プロテスタントから派生した。
エホバの証人などは、日本でも有名になった。輸血を拒否するということで。

ローマカトリックの前身は、アタナシウス派である。三位一体を掲げる。
それが、皇帝と結び、ローマの国教となり、保護された。
異端とされたのは、アリウス派であり、ネストリウス派である。しかし、まだ、派閥はあった。

プロテスタントは、ドイツ人ルターによって、起こされる。
その運動は、新しいキリスト教を多く生むことになる。
カルバン派も、その一つであり、その思想は、哲学者をも動かした。

現在、プロテスタントは、日本キリスト教団として、活動しているが、それに加わらない団体もある。
プロテスタントが、正統プロテスタントと名乗るから、おかしい。
要するに、モルモン教や、エホバの証人とは、違う。また、新しいキリスト教とは、違うということを言うのである。

いずれにせよ、彼らは、旧約聖書の神、アフリカの土霊を神として、それも唯一神として、伝道する。
ユダヤ人は、それがユダヤの神であるという。民族神に仕立てたのである。
また、イスラムも、旧約聖書の神をいう。

私の霊学から言えば、神といわれる存在の想念は、土地の生きた人の霊体の塊であること多々あり。
土霊という意味である。
ユングが言う、民族の集合意識である。
ただし、それを神と定義すればである。
霊学からは、神は、無いといえる。
一番近い言葉で言えば、命と言える。すべてのエネルギーの元である、命、大和言葉では、いのち、と書いた方がよい。
大命、おおいなるいのち、となる。

日本で言う神は、尊称である。
ゆえに、尊、命とも書く。みこと、と読ませて、神とする。

日本には、欧米人が言う神、キリスト教諸派が言うところの、神観念は無い。
これを、ゆめゆめ誤ってはならない。
日本には、神不在であるから、云々という、耳障りの良い言葉に誤魔化されないことである。
日本には、欧米人が言う、神観念は、必要無い。
神観念が無いから、大和魂という、おおいなる、やわらぎの、たま、があるのである。
たま、とは、心と捕らえていい。

大和言葉の、たま、について言う。
たは、手のことである。まは、間のことである。たまとは、手の手の間である。つまり、収穫したものを、分配するという意味である。それが、たまの、意味である。
魂というのは、分配を言う。
そして、分配される集団の心を、総称して、魂という。
これ、明確である。

欧米で言う、スピリットとは、霊とか、魂も含めるが、聖霊という場合もある。
また、精霊である。
目に見えない働きである。
しかし、彼らは、そのスピリットを神と思い込むが、神は無いのであるから、神もどき、あるいは、神に似たもの、そして、とんでもない霊の集団の場合、多々あり。スピリットは、神聖なものではない。つまり、正しいものではない場合、多々あり。端的に言えば、悪霊である。それをも、スピリットと言う。
悪霊とは、何か。キリスト教では、神に対立するもの、神から人間を切り離すものとしているが、実は、この世を支配している場合、多々あり。
だから、悪霊というより、この世の支配霊といった方がよい。

キリストが、悪霊祓いをする。
それは、霊界に行かずに、この世の次元を住処とする霊である。大半が、霊の塊になっているから、強力である。
仏教的に言えば、不成仏霊である。
ただし、成仏というのも、不明瞭である。成仏とは、仏になるということであるから、往生と言う方が当たっている。
成仏せずとも、往生すればよい。
往生霊とでも言う。

さて、多く宗教は、この世の支配霊に、支配されていること多々あり。それを、神と勘違いしている。それだけのこと。

主イエスは、私の国は天にありと、この世の政治とは、関わることがなかった。それが、イエスキリストの真実である。
故に、政治と関わるキリスト教は、皆々、贋物である。

主イエスは、人の心に抱く、心的状態を言うのである。
つまり、生きることの主体は、私であるということ。それを、総称して、信仰と言った。信仰薄い人々よと言うのは、私の心に従う私を、促したのである。
簡単に言えば、主体性である。
主イエスの説教は、すべて、方便である。

キリストの最大の教えは、神の国と、その義を求めること。そのためには、私があなたたちを愛したように、互いに愛し合うことであるという。
簡単に言う。
人は一人では生きなれない。人は人と人の関わりで生きる。
当時は、血族社会である。別の血族の者は、別の者である。新しい時代は、それでは生きられない。故に、血族を超えて愛し合うことを言う。
これ、キリストの最大の教えである。
世界的宗教になることは、愛し合うということでは、実に有意義なことである。
しかし、現実は、どうであろうか。
キリスト教徒は、愛のイエスの教えを、破棄している。
これが、現実である。
イエスキリストの教えは、今も続いている。
今も、イエスは、語りかけている。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://countertenor-nobuo.com/sys-tenzanblog/mt-tb.cgi/275

コメントを投稿

About

2007年06月22日 05:58に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「キリストの絶唱13」です。

次の投稿は「635日祭」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。