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キリストの絶唱19

キリスト教には、聖書主義という、考え方がある。
それは、プロテスタントから出た。
簡単に言えば、聖書解釈である。どのように解釈しても、良いのである。勿論、それぞれの派閥には、それぞれの教義がある。
しかし、結果、その本人の聖書の読み込みを許すのである。

伊勢神宮に参拝した折に、一冊の雑誌を手にした。
生命の光という雑誌である。
キリストの幕屋という団体である。

その雑誌の最後のページにある言葉に、佇んだ。

我らの信条、とある。
我らは、日本の精神的荒廃を嘆き、大和魂の振起を願う。
我らは、日本人の心に宗教の復興を願い、原始福音の再興を祈る。
我らは、無教会主義に立つ。従っていかなる教会、教派にも属せず、作らず、ただ旧新約聖書に学ぶものである。
我らは、キリスト教の純化を願うが、日本の他の諸宗教を愛し、祖師たちの人格を崇敬するものである。
我らは、政党、政派を超越して、愛と善意と平和をもって、日本社会の聖化を期し、社会正義と人間愛を宣揚するものである。

実に素晴らしい。と言う。
しかし、これも、キリスト教の一派であり、新興宗教である。

最後に、キリストは言いたもう、
すべて労する者、重荷を負う者、われに来たれ、われ汝らを休ません。
と、ある。

信仰とは、素晴らしいものである。
信じる行為によって、救われる、つまり、気が楽になる。

霊界には、段階がある。
そして、宗教にも、段階がある。
皆、それぞれの宗教は、己が一番、高い段階にあると信じる。
私は、それでよいと思う。
信仰は、情緒であり、何人も、それを犯すことは出来ない。

最初の言葉、日本の精神的荒廃を嘆きということは、日本の精神が荒廃していると、認識するのである。

私は、日本の精神が荒廃しているとは、思わない。
もし、それならば、いつも、日本の精神は荒廃しているのであろう。
日本人の精神が荒廃していると、認識するのである。
であれば、彼らの精神も荒廃に晒されているのであろう。

言葉遊びは避けるが、原始福音とは、何か。
福音は、原始ではない。
それならば、イエス生存の時であろう。
原始福音というのは、妄想である。
もしくは、原始キリスト教ということか。

キリスト教の純化を願うということは、絶対、唯一神を願うということであり、キリスト教の神を知らないといえる。つまり、想像の神を、聖書の神とするということである。

他の宗教を愛せないから、キリスト教である。
手島何某という方が始められた活動である。つまり、手島教である。
それを、キリスト教に結びつけたのである。
要するに、オリジナルを想像出来ず、イエスキリストと、聖書を持って、新興宗教を作ったのである。

愛と善意と平和をもって、日本社会の聖化を期しというが、何を持って聖化というのか。
聖化ということ自体に、無理がある。
キリスト教の神によって、聖化されるというのだろうが、あの神は、土霊である。聖化も何も、そんな力は無い。
あの地域のみに通用するものである。

聖化とは、何か。
迷いである。
誰が、何を聖化するのか。

勿論、私は、信者の一人も否定しない。
それにより、心安らかならば、何をかいわんやである。

もう一つ言う。
社会正義とは、何か。
正義にも、多々ある。
何を持って、正義と言うのか。
自分たちは、正義であると思い込むのである。その辺りは、白人の考え方と変わらない。要するに、聖書を信じる私たちが正義であり、他は、正義にあらずである。
白人は、そうして、色着き人間を徹底的に、差別し、殺したのである。

スペインが、アメリカ大陸で、キリスト教、カトリックの名の元に殺した数は、一億人である。それを、知っているのか。

アホも、いい加減にせよ。

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2007年06月30日 10:38に投稿されたエントリーのページです。

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