道の辺の 草深百合の 花咲みに 咲まししからに 妻といふべしや
みちのべの くさふかゆりの はなえみに えまししからに つまというべしや
草深百合のとは、草の深く茂った中に咲く百合の花という意味。
実に、詩情に溢れた造語である。
花咲みにとは、蕾がほころびはじめたという意味。
咲まししからとは、からに、だからといって、という意味。
妻といふべしや、やは、反語である。
道のほとりの深い草の百合の花が、ほころぶように、私に、にっこりと笑ったからといって、すぐに妻と呼べるでしょうか。そんなことは出来ないでしょう。
男の歌である。慎み深い。
草深百合の 花咲み
何という美感、美意識だろう。
ここで、笑みを、咲くという文字を当てたことである。
原文は、花咲となっている。
しかし、笑むを咲くという文字を使用したことである。
古事記にも、八百万の神共咲ひき、とある。
大和言葉の骨頂である。
大和言葉の笑む、笑うを、咲を持って表現したのである。
花が咲くように開くを、笑うと同義としたのである。咲くの語源は、ここにある。
咲くは、笑む、笑うと同義であった。
万葉では、咲くを、開く、さくと読ませている例が、96例ある。
咲くは、開くと同義である。
平安末期までも、咲をわらふ、と訓読みしていた。咲、咲くに限って読むのは、鎌倉時代以降からである。
日本人の美意識は、このような、ところにある。繊細微妙にして、崇高である。
日本の美意識を、侘びや寂びとして捉えたのは、室町期である。その根底には、万葉がある。
千利休は、茶の湯の心として、
見渡せば 花も紅葉もなかりけり 裏の苫屋の 秋の夕暮れ
と共に、
雪間の草の春をみせばや
と、まだ、雪の下にある、芽吹き始めた頃の風情を言う。
万葉が根底にある。
咲くを笑うとして観た感性を持って、大和言葉の神妙をみれば、よりよく大和言葉を理解できるのである。
侘びや寂びの前に、明るい、清かな、直き心がある。
あかるい、さやかな、なおき、心である。
その心に、一体、どんな理屈が必要であるのか。
西洋のロゴス、インド、中国の、記号である言葉の世界は、入り込めない。
日本には思想が無いと言われた。思想など必要ない。
私は、鎌倉仏教を鎌倉哲学という。思想は、十二分にある。それを、認識出来なかっただけである。西洋の思想が思想だと思い込むあたりは、救いようがない。
まして、神不在の云々とは、全く、意味を成さない。
唯一絶対の神の思想や、観念など、日本の感性の前には、飛ぶのである。吹っ飛ぶのである。
何故、日本の感性を知ることがないのかは、教育にある。
教えられないからである。
教職にある者の怠慢であり、彼らも知る努力をせずに、のうのうとして、教師なるものを続けている。生活、生計のためであり、何の目的、希望も無い。使命感も無い。無い無いづくしである。
この私の、もののあわれを読んでも、何も感じないというならば、日本人を辞めるべきである。今ならば、どこの国にも住める。
万葉集が難しいというなら、演歌の歌詞を読めという。まだ救いがある。
西条八十は、1000曲ほどの俗曲の作詞をした。実は、早稲田大学のドイツ文学教授である。立派な詩人でもある。その人が、大衆の歌う歌を書くことに、十二分の意義を見出している。
今も、この歌を超えられないヒット曲、王将という歌がある。
吹けば飛ぶような将棋の駒に
賭けた命を笑わば笑え
生まれ浪花の八百やばし
月も知ってるおいらの意気地
月も知っているという歌詞に、万葉を偲ぶ。
これ、本当の歌謡曲である。俗曲である。そんな中にも、万葉がある。
将棋に賭けた、男を歌った歌である。それだけである。
共感心情というものがある。民族共感心情である。
それは、また、共感情緒ともいう。そして、心が造られる。民族心である。
この心の蓄積されたものを、民族の潜在意識という。
ユングが言う集合意識である。
大和魂という時、この集合意識のことを言う。
それが、清き、明るき、直き心である。
魂は、共同の意識を持つ。心は、個人が持つ。そして、精神という言葉の世界がある。
日本人が、精神を鍛えるというのは、大和言葉に対座するということである。
修行という邪心が入ってきたのは、仏教による。行を修める。どこまで行っても、漢語の意味である。
日本人に行は必要ない。
勘違いも甚だしいのである。