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もののあわれについて54

暁と 夜烏鳴けど この山上の 木末の上は いまだ静けし
あかときと よからすなけど このおかの こぬれのうえは いきだしずけし

暁とは、夜明け前である。
夜烏は、固有名詞ではない。夜に鳴く鳥である。
木末とは、木々の梢。

もう夜明けだと、夜鳥が鳴いていますが、この丘の木々の梢のあたりは、ひっそりとして、静まり返っていますよ。

朝になれば帰る夫を、少しでも留まらせたい妻の心であろう。
女の歌である。
しかし、静けさが伝わる。
万葉の静けさを、ひしひしと感じる歌である。佳作といえる。
舒明天皇の歌を思い出してほしい。
夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今宵は鳴かず 寝ねにけらしも

この静けさを忘れたらと考えると・・・現代という時代は不幸なのかもしれない。
伊勢神宮に参った時に、実に静けさを感じた。
都会では失われた静けさである。
ただし、騒がしさを私は否定しない。それが時代である。しかし、心に静けさを持つことは出来る。

静けさの中で物思うこと。それが、古代人を、万葉を理解する手立てである。
煌々とした月明かりの下で、静かに物を思う。
この静けさは、脈々と受け継がれている。
古今、新古今、西行等々。

さて、もう一首、静けさを歌うものを紹介する。

静けくも 岸には波は 寄りけるか これの屋通し 開きつつ居れば
しずけくも きしにはなみは よりけれるか これのやとおし ひらきつつおれば

静かに波が岸辺に寄せている。なんと静かなことか。この家で、それをじっとして、聞いている。
これを理解するには、多くの言葉が必要である。
少し、言う。
波の音を聞いている自分が、波の音に同化されているのである。静けさが単なる静けさではない。吾と、波が同化して、波が吾で、吾が波である。
これを、言挙げする仏教の信仰などは、解ったように、念仏が念仏するという説明をする。
私が念仏していては、まだ本物ではないとか、云々と、語る。語り尽くす。
禅なども、言葉に出来ないと言いつつ、語る。
しかし、私は言う。
この万葉の歌、一首に及ばない。
自然に同化して、自然に成る。観念に、同化しないのである。

仏に対する信仰という観念に、同化することなく、自然に同化する。これが、大和心である。
波の音が大地の呼吸となり、それを私が吸うのである。
その静けさは、太古からの静けさである。

心に、この大和心の静けさを取り戻したい。
まず、すべては、心から発する。
物質的繁栄も良し、環境の浄化も良し、世界平和の祈りも良し。その前に、我が心に、太古の静けさを持つことである。

草木も眠る丑三つ時とは、午前二時から、四時の間である。
最も、静けさの極まる刻である。
この時間を、人は眠る。だが、都会では、若者から、二十四時間のコンビニから、その他諸々が活動している。不幸であるが、それが現実である。
もっと、休息し、静けさに身を任せる時にと・・・

作者不明、読み人知らずの歌を紹介したが、いかに、庶民の感性が高かったか。それを思うと、万葉集は、素晴らしい伝統であると、改めて思う。
次から、作者のある相聞の歌を読むことにする。

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2007年06月06日 14:05に投稿されたエントリーのページです。

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