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もののあわれについて55

磐姫皇后、天皇を忍びて作りませる御歌四首
いはのひめのこうごう、すめらみことをしのびてつくりませるみうた四首

君が行 け長くなりぬ 山尋ね 迎えか行かむ 待ちにか待たむ

け長くとは、けは日をいう。日に日にという場合、作歌の用語の上では、日に、けに、と使う。日数が長くたちましたという意味。
山尋ね 迎えか行かむとは、山道を尋ね探して、私の方からお迎えに行ってはいけないだろうかという意味。

あなたが出られてから、多くの日が過ぎました。じっと、ここでお待ちしていましたが、待ちきれません。山々を尋ね探して、お迎えに出てはいけないでしょうか。しかし、このまま、お帰りをお待ちしているべきでしょうか。どうしたらいいのでしょう。

かくばかり 恋つつあらずは 高山の 磐根し枕きて 死なましものを
かくばかり こいつつあらずは たかやまの いわねしまきて しなましものを

恋つつあらずは、ずは、打ち消しの助動詞。恋しい思いをしているよりは、という意味。
高山の 磐根し枕きてとは、高い山の磐根を枕として、死んで墓所の磐屋に葬られることをいう。
こんなに、あなたを慕っています。いっそのこと、高い山の磐根を枕にして、死んでしまったほうが幸せです。

ありつつも 君をば待たむ うち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに
ありつつもとは、いつまでもという意味。
うち靡くとは、うちは、意味を強める接頭語。なびくは、長い黒髪が夜更けの風にさらされて、なびいている様。
いつまでも、ここに立ち、あなたを待っています。夜明けの冷たい風に吹かれて、なびく黒髪に、霜が降りても、じっと待っています。

秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いづへの方に 我が恋やまむ
あきのたの ほのえのきらふ あさがすみ いづへのかたに わがこいやまむ
穂の上に霧らふは、豊かに実った穂の上に、霧らうは、霧が立ち込めている有様。
いづへの方にとは、秋の朝霧が、いづこともなく消えて行くようにという意味。

秋の田の、稲穂の上に深々と立ち込めている朝霧は、やがて、いづこへ消えてゆくでしょう。そのように、私の恋の思いは、いつになったら、消えて去るのでしょうか。
これは、去ることはないと言う。反語的歌である。

この歌は、伝承歌として伝えられたと考えられる。
仁徳天皇の頃の、古文体ではない。しかし、相聞歌の巻頭に掲げられる。
耳から耳へ、口から口へと伝えられた。民謡のごとくにして、歌われた。
恋する人妻の、「たしなみ」のきいた相聞、恋の歌である。
たしなみとは、抑制である。これは、分を知るという言葉に通じる。これが、身だしなみになった。また、人に意見することを、たしなめるという。
たしなみとは、だらけていない状態。緊張感のある状態。そして、抑制がきいている。それが、いずれ、奥床しいに、続いてゆく。
ありつつも 君をば待たむ うち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに
有名な歌である。
人間の最も、崇高な行為は、待つことである。待つことに耐えることが出来るというのが、人生である。
精神鍛錬でも、待つことが、最も大切とされる。

一時期、女だけが待つなんて、不平等だ、などと言われた時代があった。男女平等という、耳障りの良い言葉である。
男を待つだけの女だという歌の文句もあった。
これらは、極めて遺憾である。そういう意味で、万葉を読むと、理解出来ない。何度も言うが、通い婚の時代である。恋とは、待つことだったのだ。この、女性の待つ行為が、平安期に、源氏物語として、結実する。
日本の伝統には、女性の行為が、底流としてある。女性の心情が大和心を作ったともいえる。もし、女性性、男性性として、見るならば、日本の伝統は、女性性が強い。
女性性は、母性に行く。母性心情の強い、大和心である。ゆえに、大和の、和とは、やわらぎなのである。
大和魂の根底には、母性がある。
古代は母系社会である。
推古天皇の頃に、隋との関係を持つべく、小野妹子が、派遣される。その際、倭国の王は、男王であるとする。つまり、聖徳太子を倭国の王としているのである。
女王であれば、礼儀が無いと言われることを恐れた。
中国では、男王が当たり前であった。男尊女卑は、中国からのものである。
鎌倉、室町、戦国時代と見れば、中国思想にやられていた時期である。もし、大和心が続いていれば、そのまま、女性性の文化が続いた。しかし、屁理屈が入ってきて、男尊女卑が当然の如くになった。

さて、相聞、恋の歌、恋愛の歌は、万葉集の一大特徴である。
恋の心、心情に乗せて、物の在りかを観た民族である。
恋に死ぬことを、善しとした。
もののあわれとは、恋を感じる心から始まる。本居宣長の「もののあはれ」も、源氏物語の、そこから発している。
恋に、心のすべての働きを観たのである。ここが、欧米のインドの中国の哲学や思想と、全く意を異にする。恋は、教えられるものではない。自然に湧き上がるものである。それは、自然の様と同じである。自然の中にも、恋がある。
古今集の冒頭を以前紹介したが、すべのもので、歌を歌わないものはないと言う。
そしてそれは、歌は、恋から生まれるということである。
大和心の根底に恋がある。
もののあわれとは、恋に尽きる。
それでは、恋を大和言葉でみる。
恋は、乞うである。魂乞いという。相手の魂を呼ぶ行為である。相手の、たまこいを、恋というのである。
好くとは、吸うことである。相手の心を魂を吸うのである。
恋の別表現が好くということであり、それが、また相手を吸うのである。そして、私と一体になることを言う。
イザナギの命と、イザナミの命が、交わる時、欠けたところに、張り出たものを、合わせて、一つになる。セックスの表現である。互いに、与えることと、乞うことによって、成り立つまぐわいの行為である。
実に、神聖で厳かな男女交合である。
古代の性交は、ピストン運動は無かった。
交合は、静かに射精を待つものだった。つまり、抜き差しではない。交合である。一体になったまま、射精を待つ。それが性交のあり方だった。
快楽としてのセックスをのみ、見る現代人には、理解出来ない。
それ以上の快楽を知っていた。そのままに、射精を待つのであるから、実に深い気の交流があった。
気の交流とは、水と風の流れである。
体液と、体の気の流れが、交合する。それを一度経験した者は、相手が自分になる。命の交合であるから、相手と一体、一心同体である。それを実感として、感じた。
一人の女を愛しつくすことは、すべての女を愛しつくすことにつながったのである。
数多くの異性遍歴をした者は、それを知ることがない。一人を愛しつくすという、もののあわれを知らなければ、どんなに多数の異性と交わっても、詮無いことである。
そして、もう一つは、性は、異性を対象とはしない。同性も同じように対象となる。
それも、理解する必要がある。異性との関係と、同性の関係は、全く別物であった。それを知らなければ、より、恋の意味を知ることはない。
古代は、未分化だったのではない。実に、真っ当だった。
古代文明を探る時、それが目暗ましとなって、真実を見逃す。
異性愛とは、同性愛という言葉の後に出来た。それほど、同性愛が、当然であった。そして、それと、これとは全く異質のものであった。
ギリシャ哲学が、同性愛を、異性愛より上位に置いたのには、訳がある。
これを語るには、別にする。以下省略。

恋にあり もののあわれの あわれとは 恋の心に 死を賭けるなり 天山

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2007年06月07日 01:07に投稿されたエントリーのページです。

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