2001年、藤岡初リサイタルの年から、私は、クラシック音楽なるものと、関わった。
それから、藤岡によって、それらを聴かされるようになる。
音楽は、嫌いではない。当然である。
タイ・チェンマイに出かけた時に、ある喫茶店で、懐かしい音を聴いた。クラシック音楽である。
他の店では、アメリカンミュージック、タイ民族音楽が多数を占める。しかし、その店には、クラシック音楽が流れていた。バッハだったと思う。何とも懐かしい気持ちだった。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということを、私はクラシック音楽に感じていたことを知った。
演奏する人間を見るのではなく、彼らの演奏を聴くのであるという、当たり前のことに気づいた。
勿論、やみくもに、嫌いなのではない。
一つ一つの、事柄が積み重なって、嫌いになったのである。
しかし、考えてみれば、関係ないものは、関係ないので、批判などしないが、批判をする、ということは、意識するということで、私は、音楽家が好きなのである。と、これも気づいた。
実に、音楽家は、アホ、馬鹿、間抜け、糞ったれ、クルクルパーが多いが、それとて、愛するべき、存在なのである。
それを語れば長くなるので、省略する。
感情的な私であるから、はらわた煮えくり返ること多々あった。
何様の気になっている音楽家であるから、腹も立つ。しかし、よくよく考えれば、子供の頃から、音楽三昧、いや、親に強制的に、音楽の世界に縛り付けられたりと、大変な人生を送っている。また、頭が悪いゆえに、音楽だけは、何とかと、頑張った者もいる。
東大に入るより、芸大に入る方が、難しいとも言われる。
そんな中を、潜り抜けて、世の中に出たが、生活するほど、稼ぐことが出来ない。頼まれる仕事も、予算が無いからと、平気で、交通費程度で、仕事をしたりする。
私が見たところ、妻子を養うまでに稼ぐことが出来る音楽家は、実に少ない。
国会の質問で、音楽家の収入の少ないことを首相に問う議員がいた。
その時も、日本の音楽家の置かれている状況を、考えさせられた。
私も、あれ以来、すべての資金を使い果たした。
勿論、無名の藤岡のコンサートであるから、当然である。
しかし、素晴らしいものは、世に出ると思ったが、違った。素晴らしくても、マスコミに出なければ、大衆は認めないのであると、知った。
ある、作曲、ピアノ弾きが、兎に角、何でも有名になりたいと言った時、愕然とした。良い音楽をというのかと、思いきや、単に有名になりたいと言った。今は、それを理解できる。有名にならなければ、努力が報われないのである。
これらの原因を探ると、行き着くところは、西洋音楽を教えた、面々である。
手探りで教えて、それだけで、善しとしたのである。教えて、生活が立つから、それで安穏としていた。音楽家が、世に立つことを考えなかった。単に、よく解らないが、教えたのである。そして、虚の権威である。
指導者が最低最悪であった。
それが、今も続いている。
クラシック音楽が、とても格式が高く、普通の人は、無理解できませんと、本気で信じている者もいる。
今も、そういう者がいるから、驚く。
他の音楽を侮蔑するのである。
だから、その反動で、ジャズでなければ音楽ではないという集団も現れる。そして、互いに排他的になり、音楽にとって、悲劇的なことになっている。
アマの人程、音楽を楽しんでいるという現状である。
プロは、大半が性格を歪めている。その理由も、省略する。
何年も、何十年も、報われなければ、性格も歪む。
ここまでに至った経緯が長いので、これを変更するにも、時間を要する。
日本人の世界の中に、クラシック音楽が根付かないということもある。また、今は、ホールで聴くほどのことはない。部屋で、良質な音楽を聴くことが出来る。
ホールにまで行って聴く意味を見出すのは、難しい。
色々な企画のコンサートを開催したが、中に、必ず、藤岡さんの歌は、聴く価値があるが、他の出演者は、なんですか、と批判があった。あれに、あの料金ならば、映画を見た方がよという人もいた。
料金を貰うなら、貰えるステージをというものである。
しかし、歌になっていない者でも、どこの言葉か解らない言葉で歌っても、マスコミに出れば、許されるという不思議である。
結論を避けて、以下、省略する。